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大竹文雄『あなたを変える行動経済学』

読みやすい行動経済学の入門書。もともと、予備校の早稲田塾で高校生相手に行ったオンライン連続講義に基づいている(p.11)。行動経済学で論じられる人間の意思決定におけるいくつかのバイアスを分かりやすく伝えている。バイアスを表す簡単な実験や、有名な実験の紹介、バイアスに対処する方法、バイアスを利用したナッジなど。モデルなどの理論的な考察は一切ない。


扱われるのはサンクコスト、参照点効果、現在バイアス、社会的選好、ヒューリスティックスなど。サンクコストについては、サンクコストを無視した選択をすべきだと何度も書かれる。サンクコストに捕われて合理的でない選択をする、いくつもの例が挙げられている(p.30-41)。参照点効果と損失回避のバイアスでは、参照点を明確にすることが効果が出るポイント(p.61-68)。現在バイアスは先延ばしについて分かりやすく書かれる。現在バイアスに対処する方法は、コミットメント、細かな目標の設定による自由度の削減、デフォルト設定が挙げられる(p.103-105)。


社会的選好を考えるのも行動経済学の特徴だ。他人のために何がしたいという利他性、良いことをしてくれた人に報いたいという互恵性、自分だけ得したり損したりはよくないと考える不平等回避が挙げられている(p.127-130)。ヒューリスティックスは、限定合理性のもとで私たちの判断を導く原理。フレーミング効果、属性代替、アンカリングが挙げられている。アンカリングでは、まったく関係のない数字にでさえ判断は影響される(p.139-151)。アンカリングは見た数字に判断が影響されることだが、言葉や絵など数字以外でも存在する。心理学でプライミングと呼ばれる(p.156f)。


最後は行動経済学的なバイアスを利用するナッジについて。OECDが提案したナッジ設計のプロセスフローであるBASICと、施策のアイデアがナッジとして望ましいかをチェックする、イギリス政府のナッジユニットにサンスティーンが付け加えたFEASTが挙げられる(p.165-168)。OECDのBASICには、そもそも何が望まれる状態なのかを考えるプロセスがないと思う。


著者はどういうナッジを選ぶべきかの4つのポイントを記している(p.169-174)。ここは大事なところだが、どうもうまく理解できなかった。望ましい行動を知っていて達成できない場合には、コミットメントや社会規範。そもそも望ましい行動を知らない場合には、デフォルト、社会規範や損失回避を用いた情報提供。自分でナッジを課すだけの意欲がかけている場合には、デフォルトやコミットメント(自分でナッジを課すというのはナッジなのだろうか、その場合でもデフォルトやコミットメントを使うのではないだろうか)。情報がありすぎて認知的な負荷が過剰な場合なら、シンプルな情報提供(これはナッジだろうか)。惰性ではなくて競合的な行動があるから望ましい行動ができていない場合は、社会規範やデフォルト。それぞれに合わせたナッジの方法がある。


もっとも気に入ったナッジの例は、熊本市のある病院での看護師の残業時間削減(p.177f)。ここでは日勤と夜勤の看護師で制服の色を分けた。それにより、誰が残業しているのか目立つし、他の人が何かを依頼するときにも残業中なのかどうか分かる。


また、行動経済学と神経科学者の協働が増えており、神経経済学という分野も生まれている。この協働は当初、それぞれ異なる意向から始まっていたらしいことが面白い。行動経済学者は、アノマリーを脳の特性に求めて脳科学者と共同研究を行った。逆に脳科学者たちは、刺激と反応という枠組みでは人間の意識や意思決定を説明できないので、より統一できて合理的なモデルを求めて経済学者と研究を始めた(p.94)。


最後に、伝統的経済学の見方について。伝統的経済学が示したのは、人は利己的行動をすべきだということではない(p.130f)。そうではなく、利他的な動機をみんなが持っていたほうが社会は良くなる。伝統的経済学が示したのは、たとえ利己的に行動したとしても、市場競争があれば社会は豊かになるということ。

勝俣誠『新・現代アフリカ入門』

地域がグレーゾーンとなっている際に、人々の不安・危惧にしっかりと耳を傾け、そのルーツを緩和する明確な対策を取ることこそ、平和への道であることは強調されなければならない。そして、グレーゾーンが誰もが安心して暮らせる普通の日常生活モードに戻れる地域になれば、これこそ平和的解決の鍵となる。ただ戦争から和平へと向かう可視的なプロセスと異なり、検証しにくく、定義が難しい。しかし、それが平和なのだ。
現代アフリカで戦争を繰り返さないためには、紛争のルーツを歴史的、文化的、経済的、社会的につきとめていく作業は不可欠であろう。南アフリカの経験に啓発されたリベリアやシェラレオネでの真実和解委員会による社会的和解の試み、国連の調停や介入など多様な手段が存在するが、何よりも平和教育や人権教育を学校やコミュニティで広めていくことが大切だろう。(p.152f)

アフリカの政治経済的な現状とその経緯について書かれた一冊。アフリカといっても広大で、基本的にサヘル地域、ブラックアフリカの話。主に議論されるのは著者がフィールドとしていたセネガルなどの西アフリカ、コンゴ民主、南アフリカ。特に、独立時の状況がいまなお国内や国家間の紛争をいかに規定しているかが扱われる。したがって現状といっても、一見して歴史的経緯の話が多い。またそうした枠で語るため、宗主国と植民地、支配・援助側の欧米日と被支配・被援助側のアフリカという図式になっている。


アフリカの気候や風土から話は始まる。アフリカ全体での大きな問題として耳目を集めたのは、1970年代の旱魃と飢饉であろう。1970年代以降、アフリカでは沙漠化対策が注目されている。この沙漠化対策は、沙漠に植林して森林地帯に変えることではない。土壌の劣化を防ぎ、農業に使われる土地の地力を回復させるか、そしてそのプロセスに地域住民をいかに参加させるかにポイントがある。土壌が劣化した原因は、都市化に伴うエネルギー源(薪や炭)としての森林伐採、例えばセネガルの落花生栽培などでの土壌の肥沃さの維持を考慮しない粗放農業である。この土壌劣化の過程には、セネガルのようなサバンナの疎林でもコンゴ盆地のような熱帯雨林でも、保護区の農地化などで政治が決定的な役割を果たしている(p.8-15)。


改良品種、農薬・化学肥料、灌漑施設の導入といったいわゆる「緑の革命」をアフリカにもたらそうとする見方には特徴がある。それは、人々の食糧不足を食料生産の不足に求めている点だ。たしかにアフリカ農業の生産性は低いが、それは単に知識が無いのではなく、複合的な要因が存在する。そもそも外部からの介入の仕方そのものが、地域の実情に即していない。この観点は、地域農民の知識不足に原因を求める見方からは抜けてしまう。そうしたやり方では生産者たる地域農民は、外国の技術と投入財に振り回され、自らの蓄積してきた技術や品種を放棄してしまうという、農民の主体性の喪失につながる(p.161-166)。求められているのは、地域の人々が主体的に取り組むことであることは、様々なところで強調される。


1980年代末からアフリカに訪れた民主化の二十年は、しばしば社会の騒乱を伴った。その最たる特徴は、アフリカの政治家や欧米・日本政府が、民主化とはなるべく早く野党を認めて選挙を行うことだと考えたことである。しかし選挙といっても、国民がどんな社会を選択するのかという争点が不明確で、候補者の個人的資質やカリスマ性が投票行動に大きく反映されていた。選挙はスポーツチームの応援活動に近い形で行われ、都市の若者層を中心に支持グループ間の暴力事件が頻発した。また選挙権・被選挙権や、選挙の公示から当選者が確定するまで、制度の運用をめぐる様々な争いが絶えない 。選挙後に当落が発表されても、結果を受け入れない落選した候補者とその支持者たちが抗議を行い、しばしば 社会騒乱へつながった(p.29-33)。


民主化運動において制度運用の困難や社会騒乱につながってしまうのは、独立時の社会構造が関係している。事例として、ジンバブエ、コートジボワール、 ケニアが挙げられる。ジンバブエでは、独立闘争を率い、イギリスが放棄した土地の改革を強行して貧農へ再配分したムガベ大統領の独裁を支持する背景。カカオ輸出ブームの中で肥沃な西部に地域外の民族集団が入植していった結果として起こった、コートジボワールの内戦。2002年のケニア大統領選後の若者を中心とする暴力の背景には、独立前のマウマウ戦争でイギリスに抑え込まれた世代と、イギリスとの妥協によって自らの地位を維持・拡大してきたエリート層の世代との世代間闘争がある(p.37-57)。


国家運営の困難さということでは、コンゴ民主と南アフリカの対比が印象に残る。特にコンゴ民主のどうにも難しさ、出口のなさも。豊富な農業資源、鉱物資源を抱える古典的な地域大国であるコンゴ民主共和国(ザイール)は、1990年代に崩壊していく。その原因として4つのポイントを取り出す。(1)多額の対外債務の返済の努力を怠っているとして、IMFと世界銀行が手を引いたこと。徴税能力は低下しており、国家財政は危機に瀕した。(2)極端な国家財政難で、公務員の給与支払いをはじめ公共サービス機能がほとんど停止したこと。(3)そうした給与支払いの停止により、軍と警察が住民の財産を守るよりも、逆にそれを侵害する合法的な暴力犯罪組織と化したこと。(4)国内交通網が未整備であり、もともと国家が分断されていたこと。しかしモブツ大統領は鉱物資源などヨーロッパの権益に手を付けない限り、社会主義陣営に組み込まれないように欧米、特にフランスによって軍事・民政にわたって支援され続けた(p.74-79)。二度の内戦を経てコンゴ民主共和国はジョセフ・カビラ政権によって、膨大な国際的支援のもとで国際社会の一員として再登場した(2006年)。しかしコンゴの富を国際管理するというこの体制は、コンゴをベルギー国王の私有地として認めた1885年のベルリン会議と変わっていないようにも見える。自国民が自国の富を自国民のために用いることができることが独立ならば、コンゴは独立国と言えるのか(p.82-86)。


一方、1994年にアパルトヘイトを排した憲法制定の国造りに成功した南アフリカは、黒人以外も広く巻き込んだ民主主義の広がりと質、内戦の回避という二点が注目に値する。ANCの組織力のみならず、キリスト教会が果たした役割も大きい。南アフリカの教会は、キリスト教徒はアパルトヘイト体制に反対すべきという声明を出している(1985年のカイロス文書)。アパルトヘイトを復讐の論理に従わせないとするマンデラは、内戦の回避に決定的な役割を果たしている(p.98-104)。このあたりは、特にコンゴ民主との対比でもっと論じてほしいところ。


現代アフリカの武力紛争には、4つの特徴が見られる。(1)国家間の戦争というより、国内外の反政府勢力と政府軍の内戦であり、しかも内戦と対外戦争が明確に区別しにくい。国家の財政難により、国境警備隊や軍の領域管理力が手薄になっていることが関係している。(2)戦闘の当事者が二者に限られず、群雄割拠の様相を呈する事が多い。ステークホルダーが増え、休戦が困難になる。(3)内戦の始まりと終わりがはっきりせず、休戦合意が成立しても治安が安定しない。(4)反政府組織には闘争の目的や、勝利後の政治経済的ビジョンが欠如している。内戦状態こそが支配地域の資源を不法に輸出できて利益を生むために、紛争が自己目的化しているケースさえある(p.120-126)。


特に2000年代のアフリカの平和には、アメリカの反テロ戦争が大きくかかわっている。イスラム人口が多い北アフリカとサヘル諸国がテロリストの温床にならないように様々な対策を打ち出した。アフリカの角と呼ばれる地域では、イスラム法廷政権を排除すべく、キリスト教徒の多いケニアやエチオピアで親米政権の樹立を図るなど、アメリカの反テロ戦争への協力という形で新たな代理戦争の側面を呈した。2011年のアラブの春ではリビアのカダフィ政権の崩壊によって、サヘル諸国で地政学的な均衡が崩れた。サヘル諸国からリビアへの出稼ぎ労働者、非正規軍の軍要員として密接な関係にあったトゥアレグ人は、リビアの崩壊で大量に流出した兵器を持ってマリ北部で2012年に独立宣言を行った。この地域がテロの温床になることを恐れたフランスは、2013年にはマリ北部を空爆。アメリカが主導した東アフリカでの反テロ戦争は、フランス軍の介入によって西アフリカにも広がった(p.141-144)。


アフリカは先進国からは援助対象として語られてきたが、その仕組みはワシントン・コンセンサスと呼ばれる。1981年の世界銀行のバーグレポート以降、アフリカには国家の介入を減らして、国籍を問わない民間資金を導入し経済を活性化させるという「構造調整」が求められた。これが「ワシントン・コンセンサス」。これは欧米日の債権の早期回収のため、債務国の経済の仕組みを抜本的に変えることだった。その柱の一つであった公営企業の民営化の結果、低所得層は基本サービスへのアクセスが悪化し、情報通信部門においては外資により自然独占された(p.188-193)。


これに対して近年注目を集めるのが、中国による支援である。本書が中国に対して割いている分量はさほど多くない(また、民間軍事会社も絡むロシアの支援なども記述は少ない)。ソ連に対抗する国際協力の側面が強かった中国の対アフリカ政策は、中国の開放政策と冷戦の終焉により新たにビジネス中心のものへと変わっていった。アフリカ側も過度な内政干渉を行わず、権威主義体制にも親和性の高い中国を歓迎し、「ワシントン・コンセンサス」は「北京コンセンサス」へ変わった(p.202-204)。中国によるアフリカ支援の問題が挙げられる。(1)中国とアフリカ政府の交渉は密室交渉に終始していて、どこまで人々の生活、雇用、所得分配に寄与するのか明確でない。(2)一般消費財から耐久財まで、すべて中国からの輸入品で済ませてしまえば、アフリカの工業化とその先の持続的発展はますます遠のいてしまう。(3)インフラの整備を設計、施工、運用にわたって中国企業にすべて丸投げすることは、中長期的には地場産業や技術者が育つことはなく、アフリカの国民自身による国づくりを先送りしている(p.208-212)。


最後に、21世紀になって新たな局面に入ったというアフリカの民主化に希望を託す。90年代の民主化を「北」の援助機関や企業のためにではなく、自分たちの尊厳のために勝ち取ろうとする若者世代の台頭だ。自分たちの国や地域の問題を自分たちで認識し、外部の知識や技術を取り入れつつ、まずは自分たちで取り組んでいく試みが行われている。独立前後に消されていった社会運動の新しい形とも言える。フランスに弾圧されたマダガスカルのMDRM、カメルーンのUPCといったナショナリスト運動、イギリスに排除されたマウマウ戦争の参加者たち(p.226-229, 242-246)。

豊田秀樹編『たのしいベイズモデリング』

日常的でとても身近な話題から、心理学の実験の話まで、様々なトピックでベイズモデリングを試している一冊。題名通り、けっこう楽しい。様々な事象に対して、それを何をパラメータとして、どんな確率分布を使ってモデリングするのか、技の妙が楽しめる。ベイズ理論の解説は一切ないので、ベイズ統計についての一般的な理解は前提としている。


スポーツクラブに対するファン度合いを、好きな程度の感情温度として0~100点として尋ねる。これを、0点と100点はそれ以上の得点が打ち切られた結果と考え、さらに50点は本当に50点である人と、無関心で50点とする人が一定割合でいると考えて、50過剰打ち切り正規分布を使う(p.25-27)。上限打ち切り正規分布は、カラオケ採点でも使われている(p.93-101)。心理学実験での反応時間は、正規分布に似たピーク形状を持ちつつも、正の方向に裾が長い分布を描く。これはワイブル分布などを使う手もあるが、本書は指数・正規分布を使っている(p.84f, 162f)。これはなかなか使えそう。


また、相対的に決まる値のモデリングにソフトマックスで正規化する。麻雀の半荘が終わった得点は、4人を足してゼロになるもので、そのまま得点と考えるよりはソフトマックスを掛けたほうがよい。そしてその結果のベクトルが、個々人の能力をパラメータとするディリクレ分布から生成されたものとモデリングしている(p.193f)。


こうしたモデリングの妙は名人芸的に見るのは面白いが、自分で思いつくのは経験や助けが必要そうだ。なかには参加人数の違いや異なる試行の統制条件を考慮に入れたモデリング(p.141-145)など、かなり高度そうに思われるものもある。なお、実行環境はRとStanで、データとコードは公開されているようだ。

杉谷和哉『政策にエビデンスは必要なのか』

EBPMについて背景、日本の現状をはじめ、行政実務や民主主義との関わり、医療や教育での実践との比較などのトピックについてしっかり書かれた一冊。博士論文が基になっているようだが読みやすく、それなりに売れているようでもある。


EBPMというとイギリスの試みがその先駆として紹介されることが多いが、アメリカにも同様にその源を求めるべきだと言うのが著者の見解。しかしアメリカとイギリスでは出自もアプローチも異なる。簡潔に言えば、アメリカは頑強なエビデンスを導出してそれを活用することに重きを置くものであり、科学志向型EBPMと称される。他方でイギリスは、エビデンスに必ずしも拘泥せず、行政改革を視野に入れて推進するものであり、実用志向型EBPMと称される(p.13, 32-35)。


アメリカのEBPMの源流は社会政策分野にある。1980年代から1990年代半ばにかけて、社会政策分野でRCTの黄金時代が到来した。当時の政権が州知事に権限を委譲し、効果的な州政府同士で社会保障制度の競争が起きたことがきっかけ。実験方法や記録方法にスタンダードが確立し、EBPMを実施するコストが大幅に低下した(p.16)。さらにEBPMを強力に推進したのがオバマ政権だ。オバマ政権は行政管理予算局を活用して、RCTを中心とした頑強なエビデンスに基づいた政策を推進した。代表的な手法が、政策立案の根拠となっているエビデンスの頑強さのレベルに応じた補助金を支給する、階層つき補助金制度である(p.17)。アメリカのEBPMの特徴は、3つにまとめられる。(1)EBPMを推進する機関の豊富さ。行政機関のみならず、NPOや研究機関の協力も広く得られている。(2)EBPMが推進される政策分野が、主として社会政策関連であること。(3)アメリカではEBPMが導入される以前から、実験を通じて政策のインパクトを明らかにする方法が採られてきたこと(p.23f)。


他方、EBPMの発祥の地と言われるイギリスではまずEBMとして、1992年から世界中の医療研究のエビデンスを収集するコクラン共同計画が始まった(p.24-26)。1997年からのブレア政権は、大きな政府の非効率性の批判に対し、EBMを役に立つ研究として取り上げていった。社会科学については1970年代以降、現実社会の複雑さに対して無力であるという幻滅が広がっており、RCTを社会政策の評価に用いてきたアメリカのような長い歴史はない(p.24-26)。


そして日本におけるEBPMをめぐる議論の開始は、2007年に成立し2009年に施行された、統計法の全面改正にあると考えるべきとされる。1995年の統計審議会の答申をはじめとして、小泉政権における統計財政諮問会議の議論が統計法の改正に帰結する。2009年の統計法の改正の特徴として、公共財としての統計作成と、統計委員会を司令塔とする、省庁をまたいだ統計行政の確立が挙げられる(p.57-59)。日本のEBPMの推進は、2016年8月に行政改革担当大臣補佐官に任命された、三輪芳朗の果たした役割が大きい。三輪はエビデンス・ベースの取り組みを広めるために、EBPMをあえて定義せずスローガンとして掲げ、RCTではなくロジックモデルを比較的簡単に導入できるツールとして活用する戦略を取った(p.39-42)。


本書の日本のEBPMの評価は、行政・政府内でのEBPM推進に際してよく用いられてきた、EBPMの三本の矢とよばれる三つのアプローチを元にしている。三本の矢とは、KPI整備、政策評価、行政事業レビュー。しかしこれらは独立に進められており、相互の関係は曖昧であって整理されていない(p.6, 45-47)。


第一の矢であるKPI整備は、2015年から活動している「経済・財政一体改革推進委員会」で推進されている。この委員会は、経済財政諮問会議が作成する「経済・財政再生計画」を達成するために設置されたものである。制度的基盤は持たず、社会保障などの分野での取り組みをリーディングケースとして進められている。KPI整備の特徴は3つに評価される。(1)取り組みの質にばらつきがあり、厳密なエビデンスの導出に至らずKPIを時限的に設定しただけにとどまるものも多い。(2)取り組みの目的が、効率化とされている。EBPMは本来、政策のインパクト、有効性の検証を目的とするものである。(3)実際に推進しているのは委員会の下のワーキンググループであり、その活動はモニタリングされておらず推進主体が曖昧である(p.80f, 88-90)。


第二の矢である政策評価も、第一の矢と同様にリーディングケースを軸に進められている。だが、総務省が主体的に推進している点が異なる。EBPMを政策評価に導入した効果としては、(1)政策の事前評価を志向していること。ただしコストの問題などから実質的には事後評価が中心。(2)外部評価を前提としていること。基本的に内部評価である通常の政策評価とは違って、外部の研究機関や有識者が関与している。(3)積極的に民間企業との連携がなされている。しかし、既存の政策評価とは全く独立したものとして行われている(p.90, 96f)。


これらに対して第三の矢の行政事業レビューは、既存の取り組みに精度的に組み込まれた形で推進されている。ここで使われているロジックモデルの機能は、実用志向型EBPMに該当すると評価される。行政事業レビューは、民主党政権時の事業仕分けに起源を持つ、日本独特の評価手法である(p.103f)。ただしEBPMは本来、事前評価を志向しているのに対して、行政事業レビューは事後評価、さらにプログラム評価の一部のみを扱ったものにとどまっている(p.119)。


他の一般的な行政事業レビューと、EBPMにもとづく行政事業レビューを分けているのが、ロジックモデルの有無である(p.129)。このロジックモデルは、特定の事業に関して資源の投入から、その資源を用いた行動、行動のアウトカム、社会へのインパクトを想定に基づき記したもの。その事業における一連の流れを時系列的に記述することで、政策の狙いや位置づけが明確になり、説得力があるとされる。ロジックモデルは、プログラム評価の中で「セオリー評価」と呼ばれるものにあたる。EBPMでよく使われるRCTが因果関係よりも結果を重視するのに対して、ロジックモデルは政策の因果関係を明確にしようとするが、あくまで事前における想定で書かれる(p.122-124)。


こうした行政事業レビューにおけるEBPMの課題は、5つにまとめられる。(1)所管官庁の違いによる限界(セクショナリズム)。行政事業レビューは事業レベルの検討であり、官庁をまたがるような政策を評価する視点が失われている。(2)口頭による問答によって生じる限界。評価委員の関心や知識に議論が左右される。(3)もともとロジックモデルを念頭に置いていなかった事業について、後付けでロジックモデルを作成することの限界。EBPMとして事前評価を標榜しながら、手間やノウハウの問題で事後評価に変わってしまう。(4)ロジックモデルはそこに書けるものしか盛り込めないため、政策のコンテキストの評価ができない。プログラム評価のような、より体系的な評価は別途必要になる。(5)複数の目的を複数の手段で追求しており、整理が十分ではない(p.138-143)。


総じて実用志向型EBPMを中心にした日本の展開では、有効性よりも効率性の偏重が見られる(p.147f)。第一の矢と第二の矢が事前評価であり、第三の矢は事後評価であることを考えれば、第一の矢と第二の矢をEBPMにおける中心的な取り組みとして推進し、第三の矢はそれらを補助する役割を担うという、分担をはっきりさせることが必要と考えられる。将来的には、類似した取り組みである第一の矢と第二の矢は、政策評価として統合することも考えられる(p.153)。


この後は日本の個別状況の分析から、EBPMそのものについて課せられている問題について、最新の議論を追っている。現代的なEBPMの議論としては、良質なエビデンスは必ずしも良い政策決定を保証しないこと。大量のエビデンスがあれば、政策は改善するというリニアモデルには主として3つの問題がある。(1)政策形成者とエビデンスを創出する研究者の間にギャップがある。時間的なギャップやニーズの違いなど。(2)実際にエビデンスで示せるものは限定的であり、絶対にうまくいく 政策案は提出できない。(3)EBPMは政策の根拠や目的を批判的に吟味する内在的な契機を欠いているため、政治的な権力に迎合する恐れがある(p.160-162)。こうした課題に対して、政策が作られてくる過程に注目するケアーニの政策過程論アプローチと、エビデンスの技術的なバイアスや問題設定におけるイシューバイアスは結局避けられないのだから、よいガバナンスこそ必要だとするパークハーストのガバナンス論アプローチが検討される(p.162-175)。


最後に扱われる、医療や教育との比較は興味深い。もともと、エビデンスを重視する議論はこれらの分野から始まっている。教育学(や行政学)においては、応答責任(responsibility)と説明責任(accountability)が区別される。応答責任は内部の人間が自律的に果たすものであり、プロフェッショナリズムや職業倫理観に関係し、エピソード・べースのものである。他方で説明責任は、外部の第三者によって統制されるものであり、客観的でエビデンス・ベースのものである。近年になってエビデンスが求められる背景には、行政など専門家に対する信頼が弱まっていることがある。例えばEBMは、エビデンス・べースの情報によって医師の判断を強化する、すなわち応答責任の強化を目指していた。エビデンス・ベースがガイドラインとして外部化され、説明責任を強化するように変容する状況には注意が必要。エビデンスとは、実施レベルの現場の裁量(生活世界)と、普遍性を試行する科学的根拠(近代科学)の間で、つねに緊張にさらされている(p.213-218)。


医療や教育においては実施者が専門家であるので、応答責任が重要であり、説明責任の強化は外部からの押し付けという批判を生む。行政においては、自治体職員は専門家よりはゼネラリストであり、エビデンスの活用によるコンフリクトは少ない。行政においては、意思決定の内実や手続きに透明性を設けて、エビデンスの産出だけでなくエビデンスの用いられ方の検証も可能にすることで、民主主義とEBPMの協働が可能になると論じられる。透明性の確保がテクノクラートの独裁を防ぐ鍵であると。(p.225-230)。しかし、これが応答責任との緊張とどう関わるのかよく分からなかった。

経済セミナー編集部編『ナッジで社会は変わるのか』

『経済セミナー』2020年6・7月号の特集部分だけを抜粋したもの。ナッジについて、対談、概観、環境政策・医療健康分野・職場・マーケティングにおける活用の現状や事例が扱われている。ナッジについては近年、様々な分野の人が様々に語っているが、あくまで経済学に立脚してしっかりな記述が心掛けられている。


ナッジは考え出すと、あれもこれもナッジではないかと見えてきてしまう。なので、改めてナッジをしっかり理解し直すいいいきっかけになった。経済学から出てきたナッジは、経済学的に最適な状態を目指して行われるものである(p.9f)。最適なな状態という目標のない施策は、単純なマーケティングだ。パレート最適など、経済学的に最適される状態は、合理的な経済人ならばその状態へ至る選択を取る。しかし現実の人間は、バイアスや制度などにより、そうした選択を取るとは限らない。こうした状況で、最適な状態への選択へ誘導するのがナッジと捉えることができるだろう。


ナッジであるための4つの条件が挙げられている(p.21)。(1)選択する人本人のための施策であること。(2)ナッジからの離脱は簡単で自由であること。(3)基本的な政策が前提にあること。 ナッジは、補完的な政策手段であって、あくまでも、 財政支援、法制度や物的資源を整備したうえで考えられるべきもの。(4)事前の綿密な行動分析と仮説構築が行われていること。ナッジそのものは軽微な仕掛けに見えるが、その背景には綿密な調査や研究が行われている。


ビジネス領域でのナッジは昨今よく語られる。だが、単に一企業の利益を増やすだけの施策は言うまでもなく、顧客の利益、厚生、効用を増やす施策でも、そのままでナッジと呼べるわけではない。たしかに、マーケティングの根本には顧客志向がある。しかし顧客のニーズは短期的で自己本位的であることが多い。よって、顧客のニーズを充足させることは、コミュニティや社会全体の利益と一致するとは限らない。したがって、顧客が望ましいと思っている購買や使用をそっと促す仕組みは、下手をするとスラッジになりかねない(p.43f)。ビジネスにナッジを活用しようと語るものは、この点を理解していないものが多くあるように思われる。


ナッジがいかなるときに正当化されるのかは、かなり難しい話。Clavien(2018)の議論を整理すると、(1)自覚的に望んでいながら、バイアスや制度によって自力で実行できないならば、ナッジで誘導することは正当化できる。(2)自覚していないが、十分な時間をとって冷静に検討すれば選ぶはずならば、ナッジで誘導することは正当化できる。(3)十分な時間を取って冷静に検討しても選ぶはずがないものならば、ナッジで誘導することは正当化できない。しかし、実務でナッジを活用するときには、この整理は十分ではない。まず(1)の人はほぼナッジを必要としない。(2)や(3)の人にこそナッジが必要だが、現実には「十分な時間を取って冷静に検討する」ことは不可能なので、この二つのタイプを見分けるのは困難である。どのような手続きで介入を検討すれば、ナッジで介入するという判断が社会的に受容されるかは整理が必要な状況である(p.31f)。

Appendix

プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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