

日本の仏教について思想史的側面から書かれた概説書。この分野で標準的に参照される一冊。多様な視点に目を配りつつも、とてもうまくまとまっている。誰もが読むべき良書。扱っているのは飛鳥時代の仏教伝来から江戸後期まで。協議や戒律の成立を中心に描かれている。美術的側面や民衆における受容、政治、また明治期以降の新仏教についての話題は少ない。
仏教史の研究トレンドを踏まえつつ、この分野の面白さを十二分に語っている。例えば日本初の仏教研究の大著とされる聖徳太子の『三経義疏』の真偽問題。中国の敦煌の砂漠で発見された文献などを踏まえつつ、いまだ決着が着いていない真偽問題のスリルを書いている(p.38-44)。
この本の主眼の一つは、やはり天台宗にあろう。具体的には最澄と、平安後期・鎌倉時代の本覚思想。空海よりは最澄に光が当たっている。最澄は天台宗を学んで唐から帰国した。しかし帰国後の日本で求められたのは、加持祈祷などの密教的な呪術の力だった。最澄は唐にて順暁などから密教の教えを受けるが、不完全。そこで、最澄は年下のライバルである空海に教えを乞うという、ねじれた関係が生まれる。最澄は空海に密教経典の写しを乞う。812年には高尾山神護寺で空海から両部の灌頂を受ける(p.92-94)。この帰国後の日本におけるニーズの食い違いは最澄にとって不幸なことであった(p.99)。
帰国後の最澄が晩年まで精力を傾けたのが、大乗戒という天台宗独自の戒律の成立と、法相宗の徳一との論争。後者の法相宗との論争は、三乗一乗論争、仏性論争と呼ばれる。この論争は『法華経』の解釈を巡って行われる。法相宗によれば、誰もが悟りを開いて仏になれるわけではない。悟りを開けないと決まっている(無種性)人もいる。しかし一切衆生を救済しようという利他の精神、大乗仏教の根本思想を最澄は堅持する。すなわち、最澄の一乗主義からは、誰もが悟りを開き、仏になることができる(悉有仏性)。最澄が死守した、誰もが仏になれるという主張は、鎌倉新仏教を準備するものとなる(p.100-103)。
最澄の一乗主義は本書でキーポイントとなる本覚思想へつながっていく。類書には鎌倉新仏教の各審査を強調するあまり、それに先立つ時代を軽視しがち。本書の本覚思想の強調はそれを補う意味がある。「本覚」とは先の「仏性」に代わって用いられた語。本覚思想では、一乗主義での誰もが仏になることができるという可能性の話が、既に誰もが仏であると現実性の話に置き換わる。つまり誰もが既に悟りを開いており、そのことに気付けばいいだけ。厳しい修行によって悟りを開く必要もないし、厳しい戒律を守る必要もない。本覚思想は天台宗から発し、また中国の浄土思想を取り込んで鎌倉新仏教を準備していく(p.150-163)。本覚思想は現世主義的、人間中心的で、あきらかに戒律の軽視につながる。にも関わらず、鎌倉新仏教を始め、神道、修験道、文学・芸能へ与えた影響は強い。「本覚思想は仏教思想として行くつくところまでいって自己崩壊し、新しい思想を生み出す媒介となった」(p.190)。口伝を中心とした思想であるため、まだあまり解明は進んでいない。
鎌倉新仏教の衝撃はいまとなっては明確だが、これは明治期に見出されたものだ。『歎異抄』が注目されのも明治期の清沢満之から、そしてかの大正期の倉田百三が大きな役割を果たしている。鎌倉新仏教は、明治期になって、近代的自我の確立の過程から見直され、発見されたものだ(p.193-199)。
江戸時代の仏教思想の展開は、他宗教など他勢力との関連で説かれる。江戸時代の仏教は本末制度と寺檀制度が整備され、政治体制に組み込まれる。またキリスト教、儒学、国学など他思想からの批判を浴びた。仏教ではそれに応え、教学の振興、戒律の復興を行っている。日蓮宗の不受不施、天台宗の安楽律、浄土真宗の三業惑乱などがそうした応答に当たる。しかし宗祖無謬説、つまり経典や宗祖の言葉をすべて真理とする傾向があり、自由な討論や批判研究は育たなかったとされる(p.257-261)。
江戸時代以降の仏教については天理教を除いて記述はほぼ無い。ここはまだ学問的に総括できる状況でないのだろう。代わりに、祭祀仏教、いわゆる葬式仏教についての民俗学的視点を組み込んだ議論、神道との神仏習合の展開、そして修験道についての記述がある。特に修験道はこうした本ではあまり見ないので参考になった。修験道のイメージは個人的には奈良・鎌倉時代だったのだが、本書によると修験道は室町から江戸にかけて教理思想面で整理され、江戸時代に最も民衆の生活に密接に浸透していった。修験道には入山すれば山伏も大日如来になるという考えがあり、ここにも本覚思想の影響を見ることができる(p.320-331)。本覚思想との関わりでは、神道も大きな影響を受けている。身近にある八百万の神がそのまま仏として認められる。
最後に、訓読という仕組みについての功罪が目に留まった。訓読を発明した日本では、中国の仏教経典を改めて翻訳しなくても受容できた。そのため、中国の最新の仏教を翻訳受容のラグなしに取り入れることができた。しかし、翻訳という試行錯誤を省いたことが、本当に仏教を自分のものにするチャンスを逃したのかもしれない(p.70f, 346-356)。この視点は面白い。
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