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大貫隆『聖書の読み方』

聖書の読み方 (岩波新書)聖書の読み方 (岩波新書)
(2010/02/20)
大貫 隆

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旧約聖書・新約聖書の読み方について平易に語った本。聖書といえば信仰の書であり、キリスト教信仰を持たない人間にはやや縁遠い書物だ。しかも教条的な読み方があったり、現在の科学的見地と相容れない記述も散見される。旧約聖書の預言書であれ、新約聖書の福音書であれ成立過程は複雑であり、一人の著者による統一された書物とは言いがたい。ともあれ、聖書は読みにくい書物なのである。

本書はそんな非信仰者の学生向けの講義からなっているようでかなり平易な記述だ。本書の半分くらいは学生へのアンケートに基づいて、聖書がどう読みにくいのか、読もうとする人間はどういうところで躓くのかが書かれている。後半はそれを踏まえた聖書の読み方を述べ、後は旧約聖書・新約聖書の成立や並び方、構造について解説される。

何よりも本書が目指しているのは聖書を自主的に読むように招待する(p.9)ことだ。教会を始めとする権威から「正統・正当な」読みを教わるのではなく、自分のものとして、自分の問題として読むことである。聖書を教会のものとしないこと(p.91)である。そのために著者は、実際に聖書を書いた人物の考えに定位することを提案する。
しかし、本当に聖書が「わかる」とはそういうこと【聖書を無謬の書と捉えて矛盾する記述を正当化する論理を立てること】ではない。それぞれの文書を書いている人間たちの経験と思考を理解することが大切である。それはそれぞれの文書の字面に書かれているとは限らない。とりわけ、物語部分ではそうではない。なぜなら、そこで表立って語られるのは、何よりもまず神の行動だからである。それはむしろ、書かれている字面の背後にある。(p.92)


キリスト教系の学校などで育ち、聖書には何となく縁があるが信仰はないような人には、改めて聖書とは何なのかとアプローチする入口になるだろう。個人的にはこうした段階は過ぎているし、むしろ信仰上の興味ではなく人類学的・宗教哲学的な興味なので物足りなさはある。

さて、著者が悪の問題と「神の国」の譬えについて書いている箇所(p.129-134)が印象に残った。新約聖書の福音書の中には、イエスの奇跡話がある。そのうちには水の上を歩くなどの自然奇跡に並んで、病人を治癒するような治癒奇跡の話が多く見られる。病を始めとする心身障害で苦しんでいる人は、「神の国」に招かれているのだ、というイエスの見方は多くの人を困惑させる。これを著者は次のように読んでいる。イエスの時代のユダヤ社会では、心身障害は何よりも、モーセ律法に反したゆえに神が下した罰であると見なされていた。しかしイエスはここから発する弁神論には乗らない。心身障害による苦しみは、「神の国」の到来に対してサタンが最後の抵抗をしている証だと述べる。心身障害は本人(やその両親など)の責任ではない。そうした人々もまた、「神の国」に無条件で招かれているのだ、と。この見解はたしかに既存の(当時のみならず、現在の我々もまた)価値秩序の転回であり、困惑を生む。自分にはこの記述から悪人正機説を思い出した。阿弥陀仏の本願は途方もなく広いものであり、たまたま前世の因縁によって苦しい立場に置かれている人たちをも救うのだと。イエスの治癒奇跡の話も、そうした心身障害を抱え、社会から差別視されている人間もまた等しく救われるのだ、という見解を表したものなのだろう。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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