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林佳世子『オスマン帝国500年の平和』

オスマン帝国の通史。オスマン帝国については特に大した知識もなかったので、非常に楽しく読んだ。オスマン帝国はその後の国民国家の流れからは、過去の対抗すべき遺産とみなされていたため、歴史研究や通説にもいくつか問題が見られる。そうした旧来の見解を冷静に検討しつつ、国民国家以前の時代に多民族を統治しえたオスマン帝国の姿を描いていく。オスマン帝国のスルタンにも魅力的な人物は多いが、そうしたエピソード的な人物記述を中心とすることなく、構造的な変化を招いたものは何かをしっかり扱っている。


オスマン帝国はなによりも、バルカン、アナトリア、アラブ地域の伝統を受け継ぎ、制度を柔軟に混合して効果的な統治を実現した中央集権国家だった。分権性を旨とする遊牧民国家のイメージは、オスマン帝国の実態からもっとも遠い。中央集権体制が機能しなくなったときが、オスマン帝国の終焉だった(p.23)。様々な民族、宗教、文化が入り混じるこの地域において、オスマン帝国のこうした統治の仕方は一つの有効な手段だった。国民国家の流れは、こうしたオスマン帝国の統治形態の否定の上に成り立ったが、それがこの地域で様々な軋轢を生んでいる。民族概念とは無縁で、単一の宗派・民族で国家を構成することが不可能なオスマン帝国の地域に均質な国民国家を形成するという幻想は、バルカンにおける紛争、クルド人問題、パレスチナ問題などで今日にまで不幸の種を巻き続けている(p.375)。その意味で、著者もあとがきに記すように、オスマン帝国の統治の仕組みとその経緯は、国民国家以外の国家像を描きにくい現代において非常に示唆を与える。


オスマン帝国は昔は、オスマントルコと呼ばれることがあった。しかしオスマン帝国はバルカンの大国として出発しており、トルコのアナトリアは支配地域の一つに過ぎない。支配層の民族帰属はトルコ人に限られない、様々な人々だった。そのことが、後の国民国家の時代には、オスマン帝国を仮想敵とする形でそれぞれが独立することに繋がった。何人の国でもなかったオスマン帝国は19世紀初頭には終焉を迎える。その後の一世紀は近代オスマン帝国であり、そこから諸民族の国が自立し、最後にトルコ人の国が残った。トルコ共和国も首都をイスタンブールでなくアンカラとするなど、オスマン帝国の遺産から距離を置いたが、トルコ共和国が安定してくるとやがてオスマン帝国の末裔の位置を引き受けるようになった(p.14-16)。


とはいえ、その初出が現在のトルコ共和国の位置にあることは確かである。西からアナトリアに進出したトルコ系の人たちは、ルーム・セルジューク朝として、ビザンツ帝国と交流しつつ隆盛を誇った。しかし13世紀中頃になるとルーム・セルジューク朝はモンゴル軍に破れて衰退してゆく。その結果、アナトリアはトルコ系小国家の乱立する混沌とした状況になった。この混沌の中で、西アナトリアにオスマンに率いられた集団が誕生する(p.29)。


このオスマン侯国はオスマン(〜1324年頃)の時代に自立したと言われる。しかしオスマンの出自や、彼らがどのようにして勢力を拡大したかについて分かってることは少ない。ビザンツ帝国側の史料らは、1302年のサカリヤ川の氾濫により川の流れが大きく変わり、 1280年以来ミカエル八世が築いていたビザンツ帝国側の防衛ラインが一気に崩れ、オスマン勢力がビザンツ領内を西へと勢力を拡大していった経過が見える。オスマン帝国の実質的な建設者となったのは、オスマンの子で政治的・軍事的な才覚に恵まれたオルハンである(p.36-41, 46-48)。


オスマン侯国がバルカンに進出するきっかけは、遊牧民の移動の延長線上ではなく、ビザンツ帝国に雇い兵軍団として登用されたことである。ビザンツ帝国の後継者争いの中でアンドロニコス3世と結んだオスマン侯国の君主オルハンは、1352年にダーダネス海峡のヨーロッパ側の要所ゲリボルを獲得した。その息子ムラト1世は1362年頃にアドリアノープル、1387年にはテッサロニキを獲得した(p.53-56)。急逝したムラト1世を継いだバヤズィトはバルカンの支配を進め、ビザンツ帝国もほぼ追い詰めた。しかしバヤズィトは1402年、中央アジアから遠征してきたティムールの軍勢にアンカラの戦いで敗れ捕虜となってしまう。あとには、バルカンとアナトリアに散らばったバヤズィトの王子たちによる後継者争いが残された。この争いは周囲の勢力からの干渉があり、国際的な関心の中で推移したが、オスマン家以外からの勢力は現れず、メフメトが領土を再統一することとなる(1413年)。それはもはやこの時期にはオスマン家の支配体制は確立しており、他を上回っていたことを示している(p.59-62)。


オスマン侯国によるバルカン支配は、君主がイスラム教徒であるという点では他の勢力と異なるものの、軍事的、外交的には他の勢力と同じ行動を取り、バルカン地域のルールに従って勢力を拡大していった。旧来の研究ではオスマン侯国をイスラム教勢力であって、バルカンとは異質なものとして描くものがあったが、現在では見直されている。まず、オスマン支配層はこれまで考えられてきた以上に、バルカンの在地出身者が多く加わっており、けっして異質な存在ではない。またその支配の方法も、略奪、同盟、臣属、直接支配(徴税と軍事義務の制度であるティマール制が施行される直轄地)という段階を踏んだ合理的なものだった(p.65-67)。


1451年に即位したメフメト2世からバヤズィト2世、セリム1世、スレイマン1世(~1566)までの4人のスルタンの100年間、オスマン帝国の領土は大きく拡大し、中央集権化が進行した。オスマン帝国の歴史の中でこの時期がもっとも有名な時期であろう。この時代はアナトリアのトルコ系遊牧民との戦いの時代でもあった。コンスタンティノープル攻略を始め、夏季の遠征に明け暮れたメフメト2世、戦争をなるべく避けて西欧の技術を導入して軍備を更新し、疲弊した国力を回復させたバヤズィト2世、サファヴィー朝との戦いでイスラム世界の守護者となったセリム1世、ハプスブルク家と対峙し、ヴェネチアから地中海の覇権を奪ったスレイマン1世の時代である(p.83ff)。


1516年からのセリム1世のマムルーク朝討伐のためのアレッポ、カイロへの遠征は、イラン産の生糸の流通を止めてサファヴィー朝を経済封鎖する意味合いを持っていると考えられる。春に遠征して秋には戻るという遠征サイクルには例外的に、この年はカイロを越冬して征服している。この間には、アラブ社会の仕組みにオスマン帝国の支配制度を適用する試みを行っている。オスマン帝国はこの征服でイスラム世界の守護者となり、逆にイスラム世界の守護者として実践しているかが問われるようになっていく。エジプト征服は、バルカンの国として出発したオスマン帝国がイスラム化を深めていく、大きな転機となった(p.114-117)。


オスマン史上もっとも有名なスルタンであるスレイマン1世は、オスマン帝国の頂点と凋落の始まりとして理解されてきた。だがそれは、ウィーン包囲という鮮烈な印象を与えられたヨーロッパからの評価に過ぎない。スレイマン1世の治世はたしかにオスマン帝国史の中で大きな画期だった。それは、軍事国家から官人国家への移行、宗教を超えた統合からイスラム的統治への移行である(p.118-120)。そのスレイマン1世の時代、1534年の大宰相イブラヒム・パシャの処刑を契機としてオスマン帝国の征服の勢いは止まる。その後の時期には内政の整備が進む。立役者はウラマーのエブースード。オスマン支配以前からの慣習も含むスルタンの法をイスラム法によって理論化して統治法令集を整備、またウラマー官僚の任用と昇進に関する制度を整備して官僚機構を作り上げた(p.142-150)。この官僚制度のなかでは、8歳から15歳前後の少年を主に農村から徴用し、予備軍兵や官僚としてイスタンブールで育成する、デヴシルメという制度が目を引く(p.77-81)。これは貴族などの有力者に頼らず、広く人材を徴用し、出自から切り離して宮廷にのみつながりを持つ存在として育てる仕組みだ。その点では中国王朝の科挙にも似ている。少年を対象とする伝統的なデヴシルメは17世紀まで続く(p.225)。


こうしてスレイマン1世の時代に構築された官人たちのシステムは、恭順なスルタンをもたらした。優秀な官僚統治機構ができたため、日本の総理大臣が頻繁に変わっても混乱が生じないがごとく、スルタンの強力なリーダーシップを必要としなくなったのだ。スレイマン1世の死去後、セリム2世の即位の過程は大宰相ソコッル・メフメト・パシャがコントロールしている(p.171-173)。以降は、軍人政治家たちが政治の中心となり、覇権争いを繰り広げた。軍人政治家であるから武功が何よりもモノをいう。こうしてむしろ国内政治事情として、外的な戦争が行われる。サファヴィー朝との戦争(1578-)、ハプスブルク家オーストリアとの戦争(1593-)など(p.177-179)。


党派間の権力闘争と化していたイスタンブールの政治を、スルタン主体のものに取り戻そうとしたオスマン2世のような存在もいる。しかしオスマン2世は自身の近衛部隊であるイェニチェリ軍に殺害されてしまった(1622年)。近衛部隊がその君主を殺害したというこの事態は容易に収集せず、アナトリアでの反乱に繋がっている(p.188-190)。こうした軍人政治家たちの覇権争いを賄賂を許す腐敗した仕組みと見るか、実力本位の世界と見るかは意見が分かれる(p.196-207)。


この時代、16世紀末の戦争は、長期化するとともに、騎兵から火器へと変わっていった。このことはティマール制のもとで地方を支配していた在郷騎士たちの没落につながった。戦費とインフレによるオスマン帝国の深刻な財政難のもと、ティマール制は中央政府が徴税請負人を任命する制度に変わっていった。在郷軍人たちは、徴税請負人となった中央の軍人の下請負人となったり、農民になったりした。結果として17世紀のオスマン帝国は、軍人や官僚が中央政府に連なる官職者たちの国になった(p.212-219, 223)。


ここで文化的側面に光を当てる記述が続く。各地の地方法廷には女性が法廷を利用していた多くの記録が残る。法廷は登記所も兼ねており、イスラム法が定める弱いながらも明確な女性の権利を女性たちは利用していた。複数婚が可能だったり(ただし結納金にあたる先払い婚資金が払える富裕層のみ)、妻と女性奴隷から生まれた子が法的に区別されなかったり、権利の制限はあった。しかし女性を社会から隔離する制度は、逆に女性たちだけの社会や文化を生んだ(p.248-254)。また同性愛は否定的に捉えられていないという話題も。同性愛というより、美しい青少年を愛でる、少年愛と言った方がよかろう。イラン社会同様、オスマン帝国下の社会でも(またギリシャ社会でも)、少年愛は普通のことである(p.121, 269-272)。


財政も好転した18世紀のイスタンブールは、華やかな建物や宴席が増え、奢侈的な消費文化が広がった。これに反発する都市の商工業者の不満はイェニチェリの暴動の形で顕在化するが、少数の富裕層によるこうした文化は続いた(p.284-290)。そして様々な社会でよく見られるように、こうした奢侈的で退廃的なな文化の裏側では構造的な危機が進行しているものである。18世紀のオスマン社会を目立たない形で変えていったのは、1683年の第二次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約締結まで続く16年間のハプスブルク家との長い戦争の時期に行われた、いくつかの重要な制度やその運用の変更である。(1)1695年に徴税請負制に終身契約の原則が導入された。その結果、徴税人は経済力のある軍人政治家や有力なウラマーに変わった。(2)1691年、キリスト教徒農民の人頭税の徴税方法が集団単位から個人単位に変わったこと。これはやがてキリスト教徒の被差別意識、反発につながっていく。(3)新銀貨クルシュの導入。通貨の安定に貢献した。(4)大宰相府がスルタンの宮廷から独立し、オスマン政府そのものになったこと(p.274-279, 296-300)。


こうして、オスマン帝国のシステムは18世紀末に終わりを迎えた、というのが現在の研究の見方のようだ。オスマン帝国は徐々に、領土周縁部での反乱や独立の動き、諸外国との交渉・戦争において機能しなくなっていく。地方の徴税人や統治が中央の官僚機構から見えにくくなり、統制が効かなくなっていく。しかしオスマン帝国に代わってこの地を統治する他のリーダーがいなかったこと、国際情勢が存続を支持したこと、この時期の君主がリーダーシップを取れたことから、オスマン王家は存続した。この残余の時代のオスマン帝国は、近代オスマン帝国と呼ばれる。


オスマン帝国のシステムが終焉した理由は、そのシステムを支えていた3つの原則がいずれも十分に機能しなくなったためとされる。(1)直接支配域を属国や辺境諸州で囲み、外国からの干渉を排除するという原則。だが在地勢力の台頭は、特に帝国の周縁部で顕著になっていく。モルドヴァや北アフリカなどは、首長の任命を通じた間接的な支配ではオスマン帝国の命令に従わせることは難しくなった。周縁地域はフランス、イギリス、ロシアといった在外勢力との結びつきを深めていき、オスマン帝国は領土の保全のためにヨーロッパ諸国との戦争や外交、交渉を必要とするようになった。(2)イスラム法に基づいて支配を正当化するという原則。だが18世紀に、ヨーロッパとの通商の拡大により、ギリシャ系の正教徒を中心に非イスラム教徒商人の経済力が急速に向上する。これによりそれまで均等だったイスラム教徒と非イスラム教徒の間に格差が生まれ、集団間の対立につながっていく。これにより、非イスラム教徒をイスラム法により支配する仕組みは受け入れられなくなっていく。また、19世紀の民族主義へとつながっていく。(3)中央集権的な官職体制と軍制により、効率的に支配するという原則。だが、有名無実の官職が膨大に増え、官職は売買や貸借の対象にもなった。形骸化した官職者群は政府の税収を収奪し、中央政府の機能を低下させた。地方では、中央政府が把握できなくなった税収額と実際の徴収額のズレを蓄積した地方の有力者(アーヤーン)が台頭していった(p.307-321, 328-334)。


だが(第二次)露土戦争の敗北後(1792年)、セリム3世とマフムト2世のスルタンを中心に伝統的な集権体制の問題点を克服して再構築する改革が行われた。その抵抗勢力となったのは、民衆の中に足場を置く中央のイェニチェリと、地方のアーヤーンだった。改革の50年間は、オスマン帝国自身が非支配民の大きな犠牲の上に、前近代の体制を否定して近代オスマン帝国へ変貌していく時期だった。この近代化とは西欧化を意味した。大砲などの軍事技術の近代化、訓練された新しい部隊(歩兵部隊ニザーム・ジェディード軍)の設立、地方のアーヤーンの一掃、洋装化、人口や資産の調査、行政組織改編などが行われた(p.340-358)。


国民国家形成に向けた近代の流れの中で、オスマン帝国下にあった諸民族をまとめて一つの国民とする選択肢があった。1839年のギュルハネ勅令、1856年の改革勅令で取られたのはこの方向だった。もう一つは領土を属国や保護領と、本土に分けて、植民地と宗主国のように統治し、後者を国民とするもの。しかし支配層は多民族であり、トルコ人」という単一民族としてまとめることはできなかった。宗主国のような姿勢はアラブ世界など非支配側からの反発を生んだ。こうして、国民国家を求める声の中で共通のプラットフォームとしての帝国が必要とされなくなり、オスマン帝国は1922年に消滅していった(p.362-364)。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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