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キャス・サンスティーン『スラッジ』

サンスティーンの近著。100ページほどと短め。スラッジとは定義が難しいが、手続きや行為を遅らせる障害のことを指す。きわめて煩雑な書類仕事を求められる申請を必要とするものなど、一応形式上は禁止されていないのだが、実際にそれをやろうとすると様々な障害に会い、結果として禁止するに同様な効果を生む。スラッジは人がやりたいことをやる、行きたいところへ行くのを阻む摩擦、あるいは抵抗でできた魔のぬかるみである。地球上のあらゆるところに存在する(p.11)。


これは著者自身が発展させてきた、ナッジという概念の裏面である。ナッジが人の心理的バイアスを利用して、ある方向への意思決定を容易にするようなものであるのに対して、スラッジは心理的バイアスを同じく利用して、ある方向への意思決定が困難になるようにする。だから特に純粋な金銭的インセンティブや、禁止がナッジでないのと同様、これらはスラッジではない(p.16f)。


そもそも著者がスラッジという概念に着目したのは、オバマ政権で著者自身が情報・規制問題室(OIRA)の室長に就任し、行政の現場でナッジを活かしていこうとし(て、失敗し)た経験に基づく。その過程で、一見可能でありながら実質的に不可能となっている、スラッジを備えた様々な行政施策に直面した。本書はそうした経験を含め、アメリカの行政分野を中心にスラッジの事例と、スラッジを廃止するアプローチについて具体的に書かれている。


多くはアメリカの個別事例なので、細かなところは実感はない。スラッジとその解消の実例として、アメリカの社会給付、職業上の許認可、学生ビザ、国民の基本的権利の4つの分野を主に分析している。自動登録やシンプルな申請制度などスラッジを削減する仕組みがあれば、制度の利用者は増える(p.56ff)。特に社会保障制度は、多くの高齢者がそれに依存しているため、スラッジ削減を支持する強大な政治勢力となっていて、連邦議会の政治家たちにスラッジを削減する強いインセンティブが働く(p.59)。個人的に身近なスラッジとしては、ネット上のダークパターンがある。これらは、企業が消費者を誘導すべく意図的にスラッジを減らしたり増やしたりした結果である(p.47, 54)。サブスクリプションサービスの登録解消の手続きは、スラッジにまみれていることがよくある。


またアメリカには有権者登録や投票に関して、それらを阻むスラッジが多く存在している。これら民主主義の根幹に関するスラッジを指摘し解決の試みを示すのは、憲法学者サンスティーンの本領だろう(p.48-50, 79-82)。スラッジの被害者になりやすいのは、たいてい社会で最も貧しい人々である。貧しい人々ほど差し迫った問題を抱えてその解決に向き合わなければならない。またそうした人々は考える余裕がない認知的欠乏にあり、スラッジの影響をさらに受けやすい(p.40-45)。したがって、これは単に手続きの煩雑さの問題でなく、人権問題でもある。


なかには成功例もある。2020年にアメリカ政府は新型コロナウイルスのパンデミックを受けて、医療機関を始めエッセンシャル・ワーカーの行政手続きの負担を軽減するため、短期間に対策を打ち出した。これらの対策は様々なスラッジの削減である(p.21-28)。事前の申請や制約を課すことを禁止するのは、スラッジを禁止するのに等しい。例えば公道での抗議行動に許可を不要にすることで、国民の発言の自由は守られる。スラッジを無くすことで、国民は許可を求める者から権利を行使する者に変わる。だから独裁者は国民の様々な権利を抑え込むとき、すぐに禁止せずにまず大量のスラッジを課す。官僚はコストのかかる制度の導入に賛成しつつも本心では快く思っていないとき、スラッジを活用して実質的に制度を無効化する(p.32f, 52f)。


ただしスラッジがすべて悪いものではない。この多面的な見方もサンスティーンらしいところ。スラッジには良性の摩擦もあり、これはときにナッジともなる。例えば軽率な行動を防止する確認手続きや、冷却期間や待機期間の設定。特にスラッジとして問題にされるべきなのは、悪性の摩擦である。膨大な書類作成や長い待ち時間など(p.21)。行為を阻む障害・摩擦としての広義のスラッジ、その中で特に悪い影響を及ぼす狭義のスラッジがある。


広義のスラッジは無謀さや自己中心性といった人間の醜い衝動を抑え、時には不可欠なこともある。スラッジが正当化できるのは、次の6つの場面である。(1)社会給付の受給資格を確認し、制度の健全性を守る。公的支出を伴う制度の場合、不正、無駄、悪用を防ぐ手段としてスラッジは正当化できる。(2)自制心がうまく働かないときの防御装置となる。システム2に主導権を握らせるための仕組み。銃の購入を数日遅らせるスラッジを置くことで、銃による殺人事件を17%減らせるエビデンスがある。(3)プライバシーを守る。都度プライバシー情報の入力を求めることで、監視社会につながる自動的な個人情報の収集を防ぐ。(4)安全を守る。二段階認証などで何らかの不正行為を防ぐ。(5)給付の対象を最も必要としている層あるいは最も優先度の高い層に絞る。面倒な手続きを課すことで、切実な必要や意欲のある人を選別する。しかしこの方法で対象者を選別するのは雑であるばかりでなく、本当に必要な人に届かなくなる可能性がある。(6)重要あるいは必要不可欠なデータを収集する。制度が健全に運営されているかや、副次的なデータ収集のために、行政機関が追加で情報提供を求める(p.83-99)。ただ、スラッジを設定する側はまさにこうした理由で正当化しようとするだろう。日本でも、個人情報保護のもとで不必要なスラッジがいかに設けられたことか。


サンスティーンの提言は、世界中で悪性のスラッジを減らすことだ。世界中の国家は雇用、教育、投票、免許、許認可、医療に関わる スラッジを減らすため、網羅的かつ積極的な取り組みを進めるべきである。そのためには国家のあらゆるレベルで制度設計におけるスラッジを削減する必要がある。たとえば、現在国民に求めている手続きの大幅な簡素化、そして(さらに好ましいこととして)デフォルト選択肢の採用によって、学習コストや法令順守コストを削減するといったことだ(p.119)。そして、行政機関は手続きの申請者と対話し、スラッジ監査を行うべきだ。アメリカ政府は連邦政府全体を対象として、情報・規制問題室(OIRA)が政府機関ごとの書類作成負担を調査し、報告書として毎年作成している。連邦政府全体で加算すると、書類作成負担は年間114億時間となる。民間組織も同じような文章を作成すべきだ(p.104-107)。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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