経済学を用いた社会問題へのアプローチ。筆致は軽く、時にエッセイ風。行動経済学の基本的な考え方をもとに、著者も深くかかわった新型コロナウィルスの様々な対策が中心的に書かれている。後半は短く簡潔な文章も交えながら、外国人労働者、企業のCSR、アダム・スミスの読み方、人文社会系学問の意義、神社仏閣の役割など多岐に及ぶ話題を扱っている。どれも読みやすだけでなく現場で問題解決に尽力してきた実感と、しっかりした学問的考察が交えられている。
まず経済学を社会問題に用いるにあたって、経済学の常識と世間の常識かずれる5つのパターンが考察される(p.iii-xi)。(1)世間の直感的理解と異なるずれ。例として、比較優位という考え方。ただ、比較優位に基づくグローバリゼーションでの国家間分業や、最低賃金の引き上げで雇用が減少するという経済学の旧来の常識に反する研究結果も得られている。(2)かつての経済学の常識が世間の常識になり、その後、経済学の常識が変わったことによるずれ。消費税はその時の所得だけを見ると逆進性が見えるが、将来所得全体で豊かさを測るライフサイクル仮説をとる現代の経済学からは逆進的ではない。(3)経済学の常識が世間の常識になっていないことによるずれ。価格弾力性など。(4)経済学の研究対象だと思われていないために存在するずれ。健康、医療、教育の分野における経済的分析。(5)経済学は合理的な近代人を前提にしているという世間の常識とのずれ。
行動経済学は人の意思決定における気づかれないバイアスを明らかにしてきた。こうした無意識のバイアスによる判断の偏りは、組織的・制度的に意識的に対処することによってしか解決できない。データをもとに、合理的に説明できない格差を明らかにしていく必要がある。一つの方法は、無意識的にバイアスのない選択肢を選べるように環境を変えていくことである。オーケストラの演奏者の選抜の例などがその例で、演奏者と対面しながらだと男性に偏るため、対面せずに純粋に演奏だけを聞いて判断することが試みられている(p.17-23)。
同様に、ナッジを選ぶには、まず意思決定のプロセスや状況にどのようなボトルネックがあるのかを行動経済学的に分析する必要がある。そのボトルネックの特徴に応じて、有効なナッジは変わる。望ましい行動を知っていて達成できないなら、自制心を高めるコミットメントのナッジが有効。そのように自らナッジを課すだけのモチベーションがないなら、組織などが設定する外的なナッジが有効。情報過多などで情報の認知に問題があるなら、損失回避や社会規範など情報を削減するナッジが有効。競合する誘惑的な行動が存在するなら、その誘惑を削減するナッジが有効(p.32-36)。
私たちは参照点を設定して、そこからの損失を考えて損失を忌避する。事実としては同じ事柄でも、参照点がどこにあるかによって反応は異なる。ただし、暗黙の参照点がどこにあるかは、よく検討しないと分からない。例えば、残業を減らしたいなら、残業が多い部門を取り上げてはダメ。そうした部門を強調することは、それが多数派である印象を与えて参照点となる。そうするとそこからの逸脱が損失として感じられる。残業を減らした部門を多数派として強調すべきである(p.63f)。
新型コロナウィルス感染症対策専門家会議が発信に使ってきたメッセージは、行動経済学的知見に基づいている。利他的メッセージの重視により、正常性バイアスを持つ人にも行動変容を促す。一方で、恐怖メッセージは抑制されている。恐怖メッセージは短期的に効果があるが、自分がコントロールできる状況でのみ行動変容につながると考えられているし、自分だけは大丈夫という正常性バイアスを引き起こす。「~を控える」のような、行動変容することが損失に感じられる表現を用いることも回避されている。逆に何もしないことを比較対象として、行動がポジティブなものとして意識されるようにしている(p.53-57)。著者は新型インフルエンザ等対策推進会議の基本的対処方針分科会で委員を務めており、2022年1月25日以降5回にわたって、重点措置の適用・期間延長の提案に反対した経緯と内容が詳しく書かれる(p.96-101)。
コロナ禍に関連して、テレワークの功罪について章を割いて書かれている。テレワークが生産性を上げているのかについては、世界各地で議論があるし、中国の大手旅行代理店Ctripでの実験が有効であった結果も紹介されている。だが、日本でコロナ禍によるテレワークの効果を調べた研究は、生産性に対する負の相関を観察したものがほとんどという(p.116)。また、オンライン会議と創造性の議論もある。対面のほうがアイデアの質も量も高いというnature掲載論文が紹介される(p.125-130)。
あとは細かい個々の話題が展開される。印象的なエピソードから始めて論じられていて、どこか別の媒体にエッセイ風に書いたものの集成だろうか。外国人労働者の受け入れに対しては、日本人は外国人労働者と補完的な能力を身につけるようにしていかなけれはならない。例えば日本人とのコミュニケーションなど。代替的な能力の人は置き換えられることになる。これは外国人労働者を人工知能に置き換えて同じ議論ができる。外国人を多く入れたラグビー日本代表から話が説き起こされる(p.153-156)。
人文社会系の学問の意義について、それらは人生の岐路に経ったときの意思決定に役立つという金水敏氏の意見をもとに展開される。その場合、人文社会系の学問を政府が補助金を使って振興すべき理由は、正の外部性があるかによる。経済学的には、税負担からの支出を正当化するには所得再配分という別の理由もあるが、この場合は奨学金で良いので当てはまらない。考えられる正の外部性としては、社会全体での意思決定が向上するという公共選択の改善と、個人の選択ミスから発生する社会的コストを削減するという財政支出の削減が考えられる(p.202-207)。
最後の、神社仏閣と地域の人々の幸福の関係の話は、ちょっと異色で面白い。寺院や地蔵が子供の頃に近くにあると、信頼、互恵性、利他性の傾向が高くなる。ソーシャルキャピタルが多く育っていることがうかがえる。神社については、子供会や地域活動などコミュニティ活動を変数に入れると統計的に優位ではなくなるが、寺院と地蔵はそれでもソーシャルキャピタルへの影響は残る。神社は地域の活動の場となり直接的にソーシャルキャピタルに寄与しているのに対し、寺院と地蔵は来世の存在のようなスピリチュアルな世界観によって寄与していると考えられる。すなわち、神社は地縁を強化し、寺院と地蔵は血縁を強化している。ここで育まれるソーシャルキャピタルは橋渡し型ではなく結束型のため、地域間労働移動を減らす。そのため、所得向上には寄与しないが、健康と幸福感には寄与している(p.219-226)。
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