EBPMについて背景、日本の現状をはじめ、行政実務や民主主義との関わり、医療や教育での実践との比較などのトピックについてしっかり書かれた一冊。博士論文が基になっているようだが読みやすく、それなりに売れているようでもある。
EBPMというとイギリスの試みがその先駆として紹介されることが多いが、アメリカにも同様にその源を求めるべきだと言うのが著者の見解。しかしアメリカとイギリスでは出自もアプローチも異なる。簡潔に言えば、アメリカは頑強なエビデンスを導出してそれを活用することに重きを置くものであり、科学志向型EBPMと称される。他方でイギリスは、エビデンスに必ずしも拘泥せず、行政改革を視野に入れて推進するものであり、実用志向型EBPMと称される(p.13, 32-35)。
アメリカのEBPMの源流は社会政策分野にある。1980年代から1990年代半ばにかけて、社会政策分野でRCTの黄金時代が到来した。当時の政権が州知事に権限を委譲し、効果的な州政府同士で社会保障制度の競争が起きたことがきっかけ。実験方法や記録方法にスタンダードが確立し、EBPMを実施するコストが大幅に低下した(p.16)。さらにEBPMを強力に推進したのがオバマ政権だ。オバマ政権は行政管理予算局を活用して、RCTを中心とした頑強なエビデンスに基づいた政策を推進した。代表的な手法が、政策立案の根拠となっているエビデンスの頑強さのレベルに応じた補助金を支給する、階層つき補助金制度である(p.17)。アメリカのEBPMの特徴は、3つにまとめられる。(1)EBPMを推進する機関の豊富さ。行政機関のみならず、NPOや研究機関の協力も広く得られている。(2)EBPMが推進される政策分野が、主として社会政策関連であること。(3)アメリカではEBPMが導入される以前から、実験を通じて政策のインパクトを明らかにする方法が採られてきたこと(p.23f)。
他方、EBPMの発祥の地と言われるイギリスではまずEBMとして、1992年から世界中の医療研究のエビデンスを収集するコクラン共同計画が始まった(p.24-26)。1997年からのブレア政権は、大きな政府の非効率性の批判に対し、EBMを役に立つ研究として取り上げていった。社会科学については1970年代以降、現実社会の複雑さに対して無力であるという幻滅が広がっており、RCTを社会政策の評価に用いてきたアメリカのような長い歴史はない(p.24-26)。
そして日本におけるEBPMをめぐる議論の開始は、2007年に成立し2009年に施行された、統計法の全面改正にあると考えるべきとされる。1995年の統計審議会の答申をはじめとして、小泉政権における統計財政諮問会議の議論が統計法の改正に帰結する。2009年の統計法の改正の特徴として、公共財としての統計作成と、統計委員会を司令塔とする、省庁をまたいだ統計行政の確立が挙げられる(p.57-59)。日本のEBPMの推進は、2016年8月に行政改革担当大臣補佐官に任命された、三輪芳朗の果たした役割が大きい。三輪はエビデンス・ベースの取り組みを広めるために、EBPMをあえて定義せずスローガンとして掲げ、RCTではなくロジックモデルを比較的簡単に導入できるツールとして活用する戦略を取った(p.39-42)。
本書の日本のEBPMの評価は、行政・政府内でのEBPM推進に際してよく用いられてきた、EBPMの三本の矢とよばれる三つのアプローチを元にしている。三本の矢とは、KPI整備、政策評価、行政事業レビュー。しかしこれらは独立に進められており、相互の関係は曖昧であって整理されていない(p.6, 45-47)。
第一の矢であるKPI整備は、2015年から活動している「経済・財政一体改革推進委員会」で推進されている。この委員会は、経済財政諮問会議が作成する「経済・財政再生計画」を達成するために設置されたものである。制度的基盤は持たず、社会保障などの分野での取り組みをリーディングケースとして進められている。KPI整備の特徴は3つに評価される。(1)取り組みの質にばらつきがあり、厳密なエビデンスの導出に至らずKPIを時限的に設定しただけにとどまるものも多い。(2)取り組みの目的が、効率化とされている。EBPMは本来、政策のインパクト、有効性の検証を目的とするものである。(3)実際に推進しているのは委員会の下のワーキンググループであり、その活動はモニタリングされておらず推進主体が曖昧である(p.80f, 88-90)。
第二の矢である政策評価も、第一の矢と同様にリーディングケースを軸に進められている。だが、総務省が主体的に推進している点が異なる。EBPMを政策評価に導入した効果としては、(1)政策の事前評価を志向していること。ただしコストの問題などから実質的には事後評価が中心。(2)外部評価を前提としていること。基本的に内部評価である通常の政策評価とは違って、外部の研究機関や有識者が関与している。(3)積極的に民間企業との連携がなされている。しかし、既存の政策評価とは全く独立したものとして行われている(p.90, 96f)。
これらに対して第三の矢の行政事業レビューは、既存の取り組みに精度的に組み込まれた形で推進されている。ここで使われているロジックモデルの機能は、実用志向型EBPMに該当すると評価される。行政事業レビューは、民主党政権時の事業仕分けに起源を持つ、日本独特の評価手法である(p.103f)。ただしEBPMは本来、事前評価を志向しているのに対して、行政事業レビューは事後評価、さらにプログラム評価の一部のみを扱ったものにとどまっている(p.119)。
他の一般的な行政事業レビューと、EBPMにもとづく行政事業レビューを分けているのが、ロジックモデルの有無である(p.129)。このロジックモデルは、特定の事業に関して資源の投入から、その資源を用いた行動、行動のアウトカム、社会へのインパクトを想定に基づき記したもの。その事業における一連の流れを時系列的に記述することで、政策の狙いや位置づけが明確になり、説得力があるとされる。ロジックモデルは、プログラム評価の中で「セオリー評価」と呼ばれるものにあたる。EBPMでよく使われるRCTが因果関係よりも結果を重視するのに対して、ロジックモデルは政策の因果関係を明確にしようとするが、あくまで事前における想定で書かれる(p.122-124)。
こうした行政事業レビューにおけるEBPMの課題は、5つにまとめられる。(1)所管官庁の違いによる限界(セクショナリズム)。行政事業レビューは事業レベルの検討であり、官庁をまたがるような政策を評価する視点が失われている。(2)口頭による問答によって生じる限界。評価委員の関心や知識に議論が左右される。(3)もともとロジックモデルを念頭に置いていなかった事業について、後付けでロジックモデルを作成することの限界。EBPMとして事前評価を標榜しながら、手間やノウハウの問題で事後評価に変わってしまう。(4)ロジックモデルはそこに書けるものしか盛り込めないため、政策のコンテキストの評価ができない。プログラム評価のような、より体系的な評価は別途必要になる。(5)複数の目的を複数の手段で追求しており、整理が十分ではない(p.138-143)。
総じて実用志向型EBPMを中心にした日本の展開では、有効性よりも効率性の偏重が見られる(p.147f)。第一の矢と第二の矢が事前評価であり、第三の矢は事後評価であることを考えれば、第一の矢と第二の矢をEBPMにおける中心的な取り組みとして推進し、第三の矢はそれらを補助する役割を担うという、分担をはっきりさせることが必要と考えられる。将来的には、類似した取り組みである第一の矢と第二の矢は、政策評価として統合することも考えられる(p.153)。
この後は日本の個別状況の分析から、EBPMそのものについて課せられている問題について、最新の議論を追っている。現代的なEBPMの議論としては、良質なエビデンスは必ずしも良い政策決定を保証しないこと。大量のエビデンスがあれば、政策は改善するというリニアモデルには主として3つの問題がある。(1)政策形成者とエビデンスを創出する研究者の間にギャップがある。時間的なギャップやニーズの違いなど。(2)実際にエビデンスで示せるものは限定的であり、絶対にうまくいく 政策案は提出できない。(3)EBPMは政策の根拠や目的を批判的に吟味する内在的な契機を欠いているため、政治的な権力に迎合する恐れがある(p.160-162)。こうした課題に対して、政策が作られてくる過程に注目するケアーニの政策過程論アプローチと、エビデンスの技術的なバイアスや問題設定におけるイシューバイアスは結局避けられないのだから、よいガバナンスこそ必要だとするパークハーストのガバナンス論アプローチが検討される(p.162-175)。
最後に扱われる、医療や教育との比較は興味深い。もともと、エビデンスを重視する議論はこれらの分野から始まっている。教育学(や行政学)においては、応答責任(responsibility)と説明責任(accountability)が区別される。応答責任は内部の人間が自律的に果たすものであり、プロフェッショナリズムや職業倫理観に関係し、エピソード・べースのものである。他方で説明責任は、外部の第三者によって統制されるものであり、客観的でエビデンス・ベースのものである。近年になってエビデンスが求められる背景には、行政など専門家に対する信頼が弱まっていることがある。例えばEBMは、エビデンス・べースの情報によって医師の判断を強化する、すなわち応答責任の強化を目指していた。エビデンス・ベースがガイドラインとして外部化され、説明責任を強化するように変容する状況には注意が必要。エビデンスとは、実施レベルの現場の裁量(生活世界)と、普遍性を試行する科学的根拠(近代科学)の間で、つねに緊張にさらされている(p.213-218)。
医療や教育においては実施者が専門家であるので、応答責任が重要であり、説明責任の強化は外部からの押し付けという批判を生む。行政においては、自治体職員は専門家よりはゼネラリストであり、エビデンスの活用によるコンフリクトは少ない。行政においては、意思決定の内実や手続きに透明性を設けて、エビデンスの産出だけでなくエビデンスの用いられ方の検証も可能にすることで、民主主義とEBPMの協働が可能になると論じられる。透明性の確保がテクノクラートの独裁を防ぐ鍵であると。(p.225-230)。しかし、これが応答責任との緊張とどう関わるのかよく分からなかった。
スポンサーサイト
コメントの投稿