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藤垣裕子『科学者の社会的責任』

科学者は自らの科学的成果(がもたらす社会的影響)について、どのような責任を負うのか、または負わないのか。この話題に関してまず読むべき本。100ページにも満たないが、基本的な見取り図を与えてくれる。


科学者の社会的責任という議論は、なんといっても第二次世界大戦後のアメリカで始まる。大きなきっかけはもちろん、原子爆弾の開発における物理学者の関与だ。科学者の社会的責任に関するアメリカの議論は、3つのフェーズに分けられる(p.4-6)。(1)原子爆弾投下に始まる責任の認識。科学研究そのものは善とみなしながら、その悪用を民主的コントロールで防ごうとした。1955年のラッセル・アインシュタイン宣言、1957年の第一回パグウォッシュ会議などがこうした議論の典型。(2)1960年代なかばからの、環境汚染問題による責任の問いただし。それ以前の、善なる研究とその悪用という素朴な二元論でなく、科学内部の問題として問われたことがポイント。(3)1980年代以降、成果としての科学的知識だけでなく、科学的方法に関して、外部からの科学者共同体への批判が中心となった。研究不正や、税金の投資に対する説明責任などがこれにあたる。


現在では、科学者の責任は3つの相に分けて考えられる(p.8-23)。これがまず押さえるべき本書のポイントであろう。(1)科学活動の品質に関する、責任ある研究の実施。現在では科学活動が科学者個人で完結することは少なく、責任主体は組織単位で考えられつつある。この組織が所属の研究機関なのか研究コミュニティなのか、規制はガイドラインか指針か法かといったどういう形を取るのか、などの議論中の事柄がある。(2)科学活動の成果に関する、責任ある生産物。これは研究の自由と研究への規制の間の折り合いが問題となる。現代の議論は科学者の中で閉じることなく、社会の利害関係者と議論することが求めれる。(3)科学者が公共からの問いに応える責任、呼応責任。自身の研究の社会における位置づけや、科学技術の社会への展開の仕方に関する社会リテラシー、研究資金に対する説明責任などを含む。


科学者の責任といっても、ハンス・レンクの議論に基づき、3つの概念を区別すべきという(p.28-31)。それらは行為責任、役割責任、一般的道徳責任という三つ。行為責任はもっとも直感的な、自分が意図して行為した結果に対する責任。役割責任は、役職などその役割にあるがゆえに求められる責任のこと。これに対して一般的道徳責任は、高度科学技術社会の中に生きるすべての人が持つべき責任である。科学者の責任について議論するとき、科学者というプロとしての役割責任か、一人の人間としての人道性・良心という一般的道徳責任かが問題になる。


結局のところ、科学者は自分の成果がもたらす結果を意図していなくても責任があるのかどうか。ジョン・フォージは、人は意図した結果にのみ責任があるという「標準的見解」に対して、意図していなくても十分予見されるに足る証拠がある場合には責任があるという「広い見方」を提示している。例えば、中性子倍増率の研究成果と核兵器の開発リスク、鳥インフルエンザウィルスH5N1の論文公表とバイオテロのリスク、Winnyと違法コピーのリスクなどが挙げられる(p.43-46)。本書は、この「広い見方」の重要性を説いている。


科学者がいかなる社会的責任を負うべきかは、社会がどのような状態であるかに依存する。例えば、科学的にも解明途中である状況において、何らかの公共的意思決定が求められる時、科学者は統一見解を出すべきだろうか。すなわち、ただ一つの(unique)な見解か、異なる見解を統一した(unified)した見解か、あるいは様々なシナリオを偏りなく網羅する系統的な(organized)知識か、それらのどれを出すべきだろうか。ここで日本は統一見解を、アメリカは系統的な見解を好む傾向がある。東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に際して、日本の科学者集団は社会に混乱を与えることをおそれて統一見解に拘った。この対応は、アメリカから見てむしろ無責任な態度に映った。統一見解か、組織的な見解かといった議論は、幅のある見解に対して市民が選択できるかといった、市民側に選択力(citizenship)があるかどうか、リベラルアーツが身についているかに依存する。それによって科学者の社会的責任の在り方も変わってくる(p.47-52, 81-86)。


本書の後半はヨーロッパを中心に展開されている、責任ある研究とイノベーション(Responsible Research and Innovation)に関する議論状況を扱っている。RRIは科学者の役割責任というより、一般的道徳責任に重点を置いて作られている概念である。また責任の範囲について「広い見方」を取っている(p.59f)。RRIの具体例として、海洋研究のマリーナ・プロジェクトや、医療研究のアセット・プロジェクトが挙げられていて参考になる(p.63-68)。どちらも欧州各国で、市民を動員した相互学習ワークショップを行っている。


RRIへの批判としては、RRIが研究予算を絞り込むための基準とされる懸念や、RRIが現場の研究者を社会的責任に無頓着なものとして描いているという反発がある。どちらも結局、RRIは行政官が研究者を管理するためのツールとみなしている。そうした批判はあれど、RRIは特に日本の社会的責任論の閉塞状態を突破する力を孕んでいるという(p.69-75, 78f)。日本では一度作った組織や制度を所与と考える傾向があるが、RRIは組織や制度をどう変えればいいか共に考えることを求める。新しい制度化への議論の参加が求められ、組織外の人々も無責任に他人事で済ますことはできなくなる。また、日本では分断されている市民運動論(環境社会学)、社会構成主義(フェミニズム研究)、科学と民主主義(科学技術社会論)を架橋することにも寄与する。システムの問題をシステムの変革(新しい制度化)で解決しようとするRRIの考え方は、日本の過度な個人責任論の打開にもつながる。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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