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ヤコブ・ホーヴィ『予測する心』

フリストン流の予測誤差最小化理論が、心の哲学などにおける哲学の諸問題にいかに示唆を与えるのかについて書かれた一冊。議論は基本的に専門的。予測誤差最小化理論に対する一般的な理解と、哲学における議論状況は前提とされる。ただし、予測誤差最小化理論の数学的な内容であるとか、哲学における○○説のような細かな区分の理解は前提とされない。本書にはほとんど数式は出てこない(しかしそれが理解を難しくしている側面はある)。


また本書は知覚における主要な問題に焦点を絞っており、思考、想像、言語、社会認知、意思決定のような、高次認知現象は対象外にしている(p.3)。基本的な説明の構図は、脳は外界の物体がもたらす感覚的証拠に基づいてベイズ更新を行い、予測誤差を最小化するというもの。この予測誤差の最小化が、知覚推論である(p.72f)。フリストンの議論の特徴の一つは、行動も能動推論として知覚と同じ枠組みで扱うことだが、本書は知覚推論にどちらかというと重点が偏っている。そこが(訳者解説でも指摘されるように)やや弱いところだが、哲学の諸問題との接続を考えると適切な論の運びとも言える。など、能動推論active inferenceは本書では行為推論と訳されている。


予測誤差最小化理論の核となる考えは、1030年頃のアル=ハイサムに見られるという。次いで、カントの超越論的感性論や図式論にある。しかし仮説テスターとしての脳の最初の理解は、カントの影響を受けたヘルムホルツの無意識的な知覚推論である。その後、ジェローム・ブルーナーのニュールック心理学、リチャード・グレゴリーの知覚論、ホラス・バーロウの先駆的な仕事につながっている。さらにヒューム、ルイス、パールなどの因果論の展開と合流して、予測誤差最小化という考えが発展した(p.9-11)。


脳は外界からの感覚入力を得て、外界に存在するものを知覚する。しかし同じような感覚をもたらすものは複数考えられるため、感覚の原因を推定する因果推論の問題となる。この因果推論は膨大な事前信念を利用する。また、ただ単に云々と推論するバイアス(傾向)があるのではなく、世界を正しく理解するという規範性を帯びている。脳の視点を超えずにこうした事前信念を用いた規範的説明を、ベイズ認識論は与える(p.19-23)。知覚は感覚入力のみに基づいて構成されるのではなく、事前信念としての仮説をもって行われる、というのがポイントとなる。知覚が単純なボトムアップの特徴抽出ではないことは、両眼視野闘争から示唆される。両眼視野闘争は、両眼で別物が見える世界である事前確率は非常に低いことでベイズ的には説明できる(p.30-36)。


感覚入力からのボトムアップとして知覚を説明する際には、脳内でバラバラに処理される様々な知覚の属性(形、色など)が、どのように一つの知覚として統合されるのかという結びつけ問題(biding problem)が立ちはだかる。予測誤差アプローチでは、脳のシステムは知覚に属性が結び付けられていることを仮定し、その後、大脳皮質の階層を通して、そのような予測を行うと考える。外界の状態が実際にそれら属性が結び付けられたものであるなら、予測からのトップダウンの活動は、予測誤差を最小化する。すなわち、まず結び付けられた知覚表象という予測があって、次のその予測を確証する証拠が感覚入力の中から探される(p.163-168)。


知覚が感覚入力のみで成り立つわけではないことは、錯視のケースを考えれば実は自明に近い。信念内容が知覚内容を何らかの程度で決めているかどうかという、認知的侵入可能性の議論である。ただしこの議論で本当に興味深いのは、私たち全員に共通していて変化しないような低レベルの予期(ミュラー・リヤー錯視など)ではなく、より主観的な、変化しやすい高レベルの信念の知覚への侵入である。この点は、予測誤差最小化の枠組みからは次のように説明される。世界からの信号の精度が低いとシステムが予期する場合(予測誤差を最小化するための能動推論などの能力が制限されていると)、知覚的階層の高いレベルに大きな重みが与えられ、事前信念が重視される(p.191f, 200-208, 219)。


予測誤差最小化理論が面白いのはこの点だ。つまり感覚入力の信号そのものが処理されるのと並んで、信号の精度・確信度が評価される。精度が低い場合には感覚信号を重視せず、事前信念を重視するといった調整が行われると考える。すなわち、予測誤差の最小化は、予測誤差信号の精度について学習して予測する必要がある。この二階の知覚推論によって、感覚データにどれくらいピッタリと当てはめればよいかがわかる。もし予測誤差信号の精度が低いなら、その信号によって仮説を訂正しなくてもよい(p.100-105)。


ただここには微妙な論点があって、それは精度の精度、そのまた精度という無限後退の問題だ。この論点は以下に説明されるが、個人的にはどうもよく分からない(p.112-114, 235f)。脳は外界の信号からノイズと不確実性を抽出して、知覚推論の確信度を評価する。脳の処理が階層的ベイズ推論だと考えれば、この無限後退の問題は生じない。一般に精度の精度の精度は、分散が非常に平らで、情報をもたらさらない確率分布であるとみなされる。そうした事前分布を持てば、それ以上の高階を考慮する必要はなくなる。よって、ベイズ最適化された脳において無限後退が実現されていることはなさそうだと言える。


この精度による調整メカニズムが、精神障害を説明するのが興味深いところ。予測誤差メカニズムの調整の比較的小さい失敗でも、重篤で生活に支障をきたす精神的な機能障害が次々と起こる。精度の精度の精度を検討するような無限後退にならないために、予測精度の検討は限界がある。知覚システムは確信度の推定が正しく行われていること(確信度の確信度)を素早く信じなければならない。よって精度の最適化に問題がある場合、予測誤差最小化メカニズムがこれを修正することは困難である。実際よりも感覚信号にノイズが多いと過度に持続的に予測していると、高レベルの事前信念からの独自の特異な入力の解釈に捕らわれがちになり、その解釈の修正は難しくなる。これは精神病や妄想を説明する。特に個別の外受容感覚ではなく、固有受容感覚といったグローバルな領域に精度の問題が生じると、修正はより難しくなる(p.251-256)。自閉症の知覚者は、非常に精度の高い予測誤差を予期している。そのため、相対的に事前信念より感覚に頼る。感覚入力の不確実性を解決する際に文脈的影響に頼ることが少なくなる。これは自閉症の局所的な感覚への固執、状況の変化への不寛容、一般的な予期の学習の困難といった特性を説明する。一般的で長期的な学習の困難は、他者の心という深く隠れた原因の推論も難しくする(p.258-263)。


知覚の規範性については、やや説明に苦労している印象を持つ。例えば犬を羊と見る知覚が誤知覚であるのは、そのような知覚は長期的に平均すると予測誤差を最小化しないからである。その場では知覚推論や行為推論によって予測誤差が減少しても、誤知覚と言いうる(p.276-280)。そもそも、なぜ脳は予測誤差を減らすべきなのか。この規範的な含意が自然主義的に説明できるのか。予測誤差の総和は自由エネルギーとして捉えられる。自由エネルギーを統計力学におけるものとのアナロジーで捉えることで、予測誤差の最小化はエントロピー無秩序から自己を組織化して隔離することだと捉えられる。こうした熱的死に屈しないことは、目的論的だと考えられるかもしれない。しかし私は事実として存在しているのだから、私が予測誤差を最小化することも事実である。こうして自然主義のなかで説明できる(p.288-290)。最後に、私の生存という事実に訴えるところは、自然主義的誤謬を回避しているのかどうか、私には解釈できなかった。


脳は真実の追究を促進するよりも、予測誤差が効率的に最小化される方を好む傾向にある。事前信念にこだわる限り、おおむね世界が統計的規則性をもたらしてくれなければ知覚は崩壊してしまう。可能な限り多くのレベルで予測誤差を最小化するという原理と、脳の内部にある資源だけで最小化を行うという事実により、知覚は壊れやすい(p.363-365)。したがって、世界の斉一性を前提としたうえで、予測誤差の最小化が生存に寄与するという進化的・目的論的な説明は可能と思われる。そして、短期的でなく長期的に考えられた予測誤差の最小化が、真理であると。


最後に向かっては、心の哲学の様々なトピックを次々に扱っている。情動は、内受容信号の覚醒度の上昇による予測誤差の増大を最小化する仮説として捉えられる。内受容信号は極めて曖昧な予測誤差であり、様々な仕方で多義的に解釈される。予測誤差最小化理論は、ウィリアム・ジェームズ的なトップダウンの概念的な情動の評価を基本的に採用している。それに付け加えるのは、覚醒度、内受容信号の精度に関する予期である。この点で、情動処理のいくつかは、注意にまつわる現象と類似して考えられる(p.391-394)。


そして意識の問題について。現象的意識の統一、特に知覚現象野がいつも統一されていることを予測誤差最小化から説明する。意識の統一に関する有力な仮説であるグローバルワークスペース説と組み合わせれば、外界についての事前信念が他よりも高い事後確率を得るとき、その知覚内容はグローバルな発火を起こす閾値を超えてグローバルワークスペース内にブロードキャストされて意識に上ることになる。それはまた、外界に働きかけて感覚入力を変える能動推論へ移行する際にも、様々な行為の選択肢を評価するためにグローバルワークスペースは必要となる。行為は常に一人の人に対して一つしかないので(⇒これはそうではないだろう。私たちは複数の行為を同時に行いうる)、外界に働きかける選択的サンプリングの基盤として複数の仮説は利用できないため、ただ一つの仮説のみが存在する、すなわち知覚的統一が存在する(p.343-350)。意識経験の私秘性を疑う哲学者は近年に多いが、意識は、社会的なものとなるために、私秘的なのだと考えられる。複数の心の間でベイズ推論をするには、それぞれの情報は条件付き独立でなければならない。意識の私秘性はこの条件付き独立性を可能にするための道具と考えられる(p.402-412)。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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