読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
消費者行動の理解に神経科学的な知見を用いようとするConsumer Neuroscienceの教科書。学問的にしっかりしている重厚な一冊なので、読むのはなかなか骨が折れる。内容は、前半がだいたい消費者行動の理解に役立ちそうな神経科学の知見(脳の構造、感覚、注意、記憶、感情、意思決定、報酬系)で、後半がブランド認知、価格、ソーシャルマーケティング、マーケティング調査といった実際のマーケティング業務にどのように神経科学からアプローチできるかが記される。最後には倫理的な側面と限界について書かれる。
コンシューマーニューロサイエンスとは、消費者調査に神経科学の手法を用いるものだ。消費者調査で用いられるSOR(Stimulus Organism Response)モデルでは、消費者(organism)はブラックボックスとして扱われ、観察研究やサーベイ調査で推測されるものと考えられる。コンシューマーニューロサイエンスでは、神経科学の手法を用いて、この消費者というブラックボックスの中を直接観察する。消費者調査では消費者の過大報告や無意識的な判断があり、エラーの原因となる。だがコンシューマーニューロサイエンスは、ブランドの好みや購買行動を促す感情的で無意識の要因を特定することで、こうしたエラーがもたらすリスクを軽減することができる(p.14-17)。コンシューマーニューロサイエンスの初期の発見者は、アヴィセンナにまで追えるという。アヴィセンナは、生体指標を内面の感情状態と関係づけた。さらに歴史上もっとも影響力をもつのは、ウィリアム・ジェームズで、情動の認知からの感情の生起という説である(p.4-8)。
今日のマーケティング調査は、意思決定における感情の役割の軽視と、記憶を再生でテストしている点で現在の神経科学や心理学と隔たりがある。神経科学や心理学の行動・意思決定モデルによれば、感情は意識的で論理的な判断を助けるものではなく、直接的に行動に影響する要因である。このモデルはまだ一般的には理解されていない。またマーケティング調査では(広告などを)意識的に思い出すこと(再生)ができるかどうかが調査されているが、現在の神経科学や心理学の研究によれば、記憶は明示的なもの(想起できるもの)と非明示的なもの(想起できないもの)の組み合わせである。再生(想起)できないという理由で、影響を与えなかったと考えるのは正しくない(p.333-335, 345-349)。このように、コンシューマーニューロサイエンスでは神経科学の知見を踏まえることによって、従来のマーケティングの問題点を見つけ、知見を改善に活かそうとする。
消費者行動をどう測定するかは、表4.5にとても簡潔にまとまっている(p.102-104)。ここではコンテンツ体験者の関与度、感情、記憶、注意、購入意向など、マーケティング上知りたい項目と、その反応を測るための手法(EEG, fMRI, FACSなど)と正確さが記されている。また、脳の報酬系を担う側坐核は脳の深い位置にあるため、fMRI以外の方法ではほとんどアクセスできないといった点も重要(p.80f, 255)。
神経科学をマーケティングに応用する例は、本書の中に散りばめられている。実際のマーケティング施策を指南するより、学問的根拠を提示する趣が強い本なので、知見を踏まえてどうすべき、というのは必ずしも明らかではない。ブランド認知は何度も取り上げられるトピックになっている。カルティエとプラダのコマーシャル動画への反応を、EEG、心拍数、ガルバニック皮膚反応で男女別に測定する、この分野では古典的な話。どのシーンで記憶、感情、関心の多寡があるか分析されている(p.139-149)。またあるフォロワーブランドのコマーシャルでは、消費者サーベイ調査によるとブランド認知は平均レベル以上だった。しかし市場シェアの増加は見られなかった。EEGと視線追跡で分析した結果、そのコマーシャルは情報が過多であり認知負荷が高く、視線が集中するのはブランドのロゴではなく、その製品カテゴリー全般を表す特徴であることが分かった(p.167-169)。こうした例はアンケートでは判明としない事柄を、実験と計測により明らかにしている。
他には、ルーマニアのビール市場における製品のポジショニングの分析。ビールのカテゴリーを表現する属性とブランドの結びつきの強さを、アンケートによる顕在的、潜在的連合テストIATによる潜在的分類で分析する(p.135-139)。これは神経科学というより、心理学的な連合テストで潜在意識を探るものだ。ほかにも皮膚電位や心拍など、脳神経以外の活動の話も本書には含まれる。脳活動を観察して支払意思額を推定するニューロプライシングも興味深い。購買行動を製品認知、価格認知、製品と価格の紐付け、評価と購入決定という4つのステップから捉える。トルコでのケーススタディでは、レイズのポテトチップスに対して異なる価格を見せたときの脳活動をEEGで計測した。価格が高くもなく低くもなく、支払意思額に近い場合、価格提示から1秒以内に内側前頭前野の高活動が計測できる。従来の方法(Gabor-Granger法)に比べて、実際に価格を上げたときの収入の減少を誤差少なく予測できた(p.288-296)。
認知神経科学的な知見から、マーケティングにおいて踏まえるべき観点が多く記される。感情には2つの理論がある。一方は、個人や文化によらない基本感情の存在を仮定する、エクマンの基本感情理論。他方は、感情反応を覚醒度と感情価の二軸で分類し、刺激は状況と個人の文脈に基づいてそれぞれの脳・身体の協調的相互作用を誘発すると考えるラッセルの心理的構成理論(p.174-180)。二重過程理論で意思決定を解説する。システム2への認知負荷が高まると、システム1による直感的判断が誘発される。店舗内の音楽で集中した判断を妨げたり、レジを高速化してカートの中身をじっくり検討する機会を減らすことは、衝動買いを誘発する。感情、認知負荷、環境、文化、選択肢、記憶は意思決定に影響を与える(p.221-224)。
欲しいことwantingと気に入っていることlikingは、深く関連していて区別できないように思われる。現在の技術では区別して測定することもできない。だが、これらはおそらく別々の神経システムに担われている。欲しいことの神経基盤の計測は、新商品の体験に対する消費者の期待を評価するのに適する。一方で、気に入っていることの神経基盤の計測は繰り返し購入の評価に適する。同じ側坐核の神経基盤の中でも、欲しいことは報酬の期待であり、これはドーパミンニューロンが担う。気に入っていることは報酬体験そのものであり、これはオピオイドニューロンが担っている(p.251-255)。
一方で神経科学の発展もまだまだであり、コンシューマーニューロサイエンスにも多く限界がある。その限界は、神経科学的な観察現象の原因が特定できないことと、行われている研究の大半は人工的な研究室の中であり、実際の生活現場での人々の反応と異なる可能性があること。ほかに、時間・空間分解能、倫理的問題、費用といった課題もある(p.18f)。倫理面では、フランスは脳機能画像を医療、科学研究、裁判に限って利用可能とする法律を2004年に制定し、商業利用や金銭的利益のためのニューロイメージングに反対の立場を示した(.p.372)。少し調べるにこれは現在でも有効なようだ。
この分野が発展するには三つのハードルがあるという(p.382-386)。(1)内的妥当性。脳活動と消費者行動の間の因果関係の推測がどれだけ正しいか。標語的に言えば、脳の関心領域(Region of Interest; ROI)と、マーケッターが期待する投資対効果(Return on Investiment; ROI)の間の論理的で合理的な関係が見いだせるかどうか。(2)外的妥当性。実験室環境での結果を、どこまで現実世界に一般化できるか。(3)構成概念妥当性。ある指標が測定していると主張しているものが、どれだけ正確に測定されているか。例えばEEGにはアーチファクトが多く、データの前処理によって多くの周波数が除去される。眼球追跡装置が計測する瞳孔反応では、瞳孔径が感情的覚醒に結び付けられるが、照明レベルにより容易に変化する。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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