読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
初期フッサールの核をなす志向性理論についての意欲的な一冊。志向性の問題が生まれてくる哲学的動機を扱うことによって、他の入門書とはやや一線を画す。フッサールのテキストにはこのように書いてある、と単純に解説するよりも、どうしてそうした問題が立ち上がってくるのか、一緒に追体験することを目している。すなわち、フッサールの考えの枠組み、ものの見方を明らかにすることで、現象学の用語や一通りの解説を行う入門書とフッサールのテクストとのギャップを埋める(p.22f)。とはいえ基本は研究書であるので、テキストが何を言っているのかを解釈するに徹する場面もある。
序章と第一章は志向性の謎へ導かれる哲学的動機を明らかにするところで、とてもよく書かれている。フッサールのテキストをただ解釈するだけでなく、それを導いている問題を捉えて自ら考えている証左だろう。こうした本にしては驚くほど引用が少ないのも、自力で考えている特徴と言える。志向性を持たない心的作用(感覚や気分など)も存在すること(p.37)を指摘しつつ、本書を導く基本的な問いである、実在しない対象についても私たちは考えたり話したりできるという点を取り出す。それは3つのテーゼの整合性として提起される(p.66)。すべての(志向的)作用には対象が存在する(志向性テーゼ)、すべての(志向的)作用に対象が存在するわけではない(無対象表象テーゼ)、志向性テーゼにおける「対象」は対象の現物そのものであり、無対象表象テーゼの「対象」と同じものである(同一性テーゼ)。
第二章は3つのテーゼの整合性を解釈する手立てとしてフレーゲに話を進めるが、この移行にはギャップを感じる。フレーゲのBedeutungを真理値への寄与として説明するトゥーゲントハットの真理値ポテンシャルの話(p.77-80)は、なぜそもそも真理値が問題になるかがあまり動機づけられていない。フレーゲは文のBedeutungを真理値と主張しているから、ともかくもそれを解釈しようというのは説明にならない。これは、フレーゲの議論は日常言語ではなく算術言語を相手にしていることが述べられていないことに関連する。先立つ第一章では願望や欲求についても志向性を語っていながら、第二章で実はassertionの話に限定されているのはギャップを感じる。ここで心的作用一般から言表作用へ議論の対象を限定するには、ややクッションが欲しいところ。文が意味するものは前期ヴィトゲンシュタイン的なTatsacheとするのが直感的なので、真理値を導入するのはそれなりに説明を要する。複合文の作り方によっては文のBedeutungが真理値ではない場合(p.102f)を含めると、なおさら何か説明が欲しい。
フレーゲのBedeutungとフッサールのGegenstandの対応については、次のように説明される。「我々の思考が「ある対象についてのものである」のは、それについての真偽が問題になっている、ということである。それゆえ、そうした対象、すなわち志向的対象であることは、意味論的値として機能することであると考えられるのである」(p.105)。これは思考という志向的な心的作用についてはそうだろう。だが第一章で問いを導いているものは思考に限らないので、その他はどうなったのかという思いが去来する。もちろん、フレーゲとの比較で論じる以上はなかなか難しい論点ではある。
そしてフッサールにとって、文(というか命題だが、本書は文と命題の違いに拘っていない)のBedeutungは真理値ではなく、Tatsacheである。フッサールは文のBedeutungについてフレーゲと同じ基準を用いているが、内包的文脈のような文の真理値だけでは真理値が定まらないような複合文を考えていたので、結論が異なっているとする(p.115-121, 236f, 259f, 266f)。第三章以降、ここが議論の対象となるが、少し前に出しておくと読者の理解を助ける論点だろう。これがGegenstandからNoemaへと展開する話だというのは本書の範囲を超えるが興味深い。
さて議論にとって大事なのはBedeutungより、むしろSinnのほうだ。作用の志向性にとって本質的なのは意味Sinn、すなわち対象を見つけ出すための手続きである。その手続きの結果として最終的に見つかるかもしれないような対象そのものではない。志向性が成立するときに必ず存在するものは、対象でなく意味である。意味が定まることで、対象への方向性、対象の探し方が定まる(p.167-169)。フレーゲのSinnと同一視しているが、その解釈は正当なのだろうかという疑問は浮かぶ。この説明はp.177以下でなされる。ただ、Sinnについてフレーゲとフッサールが一致するなら、そのSinnによって与えられるBedeutungがなぜ異なっているのだろうか、といった疑問が浮かぶ。ないものねだりだが、こうした整理は読者を助けるだろう。
第四章はフッサールが言う意味付与作用はハンプティ・ダンプティ理論ではないか、というダメットの嫌疑を払う。作用は志向的体験として特徴づけられ、特定の時点で生成消滅する時間的性格を持つ。フッサールが意味付与作用として論じているのは言葉に意味を結びつけて解釈する出来事についてであって、その素質・傾向性についてではない。とはいえ、恣意的な心的操作ではなければ、どのようにして特定の言葉と意味の結びつき(の傾向性?)が習得されるのかをフッサールは説明していない(p.202-207)。この辺りはやや解釈論、フッサールのテキストの擁護に徹している感じがあり、より一般的に哲学的動機から論を起こしてほしいと感じる。
とはいえ、意味のイデア性と意味付与作用のリアル性を、プログラミングのアルゴリズムと実行で説明するのは、数理に明るい著者ならではの興味深いアプローチだ(p.218-223, 264-266)。直観の充実化とは関数の評価実行であるとして捉える。ただしここでの評価は即時評価ではなく、関数型プログラミングにおけるような遅延評価である。ただし関数型プログラミングで遅延評価が成立するには、評価時に同一のリソースが利用可能であるという参照透明性が必要。この問題が指示の外在主義、そしてデリダ的な現前の形而上学の問題へつながっていくであろうところは面白そう。
さて本書にはとても面映ゆいことに私の名前が登場する(p.276)。もう10年以上前の交友関係に貴重な紙面を費やして言及いただくのは、とてもありがたいことだ。こうして当時の方々の活躍を目にするのは嬉しいことである。もし本稿が彼に届くことがあればぜひ感想を聞いてみたいと思っている。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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