読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
欧米と日本における文系(人文社会系)と理系(理工系)という学問の分け方、理系に偏重してきたイノベーション政策、女子は文系というジェンダーイメージ、学際化の傾向について。文系と理系に分ける仕方の歴史、この区別を取り巻く社会的状況、そしてその将来をうかがうにはまず読むべき本だろう。
大学の歴史から論は説き起こされる。まず理工系の学部の歴史(p.22-25)。大学に理工系学部が定着するのは19世紀。これは自然科学の発展がはじまった17世紀から、200年以上も後だ。自然科学の勃興は17世紀のガリレオの時代にある。この時代に自然科学にもたらされた二つの大きな変化は、(1)自然を理解するのに、ありのままの状況を人間の五感で捉えるより、実験状況を道具や技術(望遠鏡など)がもたらす情報を信頼したこと。(2)数学により自然をよりよく理解できるという考えが広まったこと。数学の重要性は実は大学よりも、イエズス会の学校で主張され教えられるようになった。
制度として大学の理工系か形作られる決定的な変化は、18世紀末から起きたフランス革命をはじめとする政治動乱にある(p.32-34)。この政治動乱によって、アカデミーなど、王政につながる旧来の制度が一気に崩壊した。1794年にエコール・ポリテクニークの前身の技師育成学校が発足し、アカデミーに所属していた科学者はここで雇用された。伝統的には、技術(特に民生技術)はさほど頭を使わない、貧しい平民の手仕事とされ低調だった。しかし徐々に、技術と数学が結びついた「工学」という新しい分野が成熟していく。
一方、古代の人文的知識は、イスラム経由でヨーロッパにもたらされた(p.25-28)。しかし人文的知識は、大学ではなく様々な規模の私的な同好会(アカデミー)で盛んに研究された。17世紀になってアカデミーは王侯貴族の庇護を得るようになり制度化されていく。研究することだけで生活が成り立つようになるのもこの制度による。こうした制度化は科学的方法論の確立と、学問分野の専門分化を徐々にもたらした。しかし人文社会科学の歴史研究は少なく、分かっていないことが多い。法学、文学、歴史といった分野は自然科学とほぼ同じ16-18世紀にかけて近代化した。経済学や社会学は18-19世紀に原型が作られる。しかし社会科学という概念が生まれたのは18世紀末、人文科学という概念は19世紀末、あるいは20世紀初頭(p.37)。
政治や経済を扱う人文系の知識は、ときの権力との関係で規定されてきたところが、理工系の知識と大きく異なる。人文社会科学の知識は、神の定めた秩序に従う世界観の元、教会(宗教)の大きな支配下にあった。最初の転換点はルネサンスと宗教改革にある。ルネサンスは人間を中心とした世界観を広め、宗教改革は教会の権威によらず自分の頭で考えることを広めた。17世紀半ば以降、アカデミーを中心に啓蒙思想が展開された。しかし自然科学と違って人間社会に関する研究には自由は少なく、政治や経済の学問的探求は王政の支配のもとにあるアカデミーでは許されなかった。一方、イギリス、オランダなどプロテスタントの国では比較的自由だったが、自由度が高いゆえに分権的となり知識の集約は行われなかった(p.40-46)。
市民革命後も事情はそう変わらない。ナポレオンのフランスは実用性のある理工系教育は重視する一方、政治や経済の研究は弾圧した。ドイツはそれを反面教師として、国家からの学問の自由を掲げ、哲学による人格陶冶を重視した。ほかにも研究と教育の一体化が取り組まれた。この改革は、少人数の学生と教員がともに発表し討論する教育方式であるゼミナール方式に普及に結実した(p.51-53)。ギーセン大学のリービッヒは、エコール・ポリテクニークでリュサックの実験室から学び、実験教育法をドイツに持ち込んでいる(p.55-57)。これはデザインされた実験教育を学生に与え、そののち教授の指導のもとでオリジナルの研究に進む。よく訓練された研究者集団を短期間で育成し成果をあげた一方で、幅広い教養のない学生を増やした。1830年代にイギリスで哲学者・数学者ウィリアム・ヒューエルが提案したscientistという言葉は、こうした人々を皮肉った「科学オタク」くらいのネガティブな意味があった。視野は狭いが、深い専門知識を持つスペシャリストが各地の大学の各分野で誕生していく。
人文科学という概念より先に、社会科学(もともとは道徳科学と呼ばれる)が成立している。人文科学という概念は、自然科学が発展し、経済学や(記述統計学を用いたデュルケムの)社会学など社会科学の一部が自然科学をモデルに一般化や法則の追求を行う中、そうした方法にそぐわない分野の特徴や意義を考察する中で生まれた(p.67-69, 103, 211f)。人文科学の成立には、リッケルトの自然と文化(価値の序列)の対比、ディルタイの外的経験の学としての自然科学と内的体験の学としての精神科学の対比、ヴィンデルバントの普遍一般的な知識を目指す法則定立的な学と一度きりの出来事や個別事象の知識を目指す個性記述的な学の対比がある。
学問を理系と文系という2つに分ける考え方に決定的な影響力を持ったのが、1959年のチャールズ・パーシー・スノウによる科学的文化と人文的文化の区別だ(p.72-75)。ただ欧米では2つに分ける感覚と、人文系をさらに社会科学に分けるなど3つ以上で捉える考え方が併存している。学問的知識は、人間の五感や感情からなるべく距離を置き、形式的な論理を使うという神の似姿としての人間を世界の中心とみなす自然観からの脱却の方向性と、神を中心とする世界秩序から離れて人間中心の世界を求める方向の2つの方向性で近代化した。前者は人間はバイアスの源と見なし、後者は人間を価値の源泉とみなしている。ともに何らかの権威から自律することで近代的な学問となったが、別の方向を向いていることは確かである。
一方で日本。もともと東アジアの中国文化圏には、学と術という区別がある。古代中国で重視されたのは、生きるための原理である「道」だった。道を究めるための教養としてあったのが、人間の規範を説く分野や歴史知識である「学」である。特に学のなかで、儒教は統治者や官僚が学ぶものとされた。学に対して天文学、数学、医学、兵法などは特定の専門家だけが学ぶ「術」とされ、低位に置かれた。ただし学と術は文系と理系ではない。学は統治者に必要な知識であって、自然資源の管理や自然災害の知識も含んでいた(p.80-83)。
統治のための知識として、それを身に着けて科挙により選ばれた文官が学を担った中国。それに対して日本には科挙はなく、中国のように学問が文官に独占されている状況は生まれなかった。結果として、日本での知のあり方は、江戸時代では町人層が独自に学んで活動するなど分権的だった。権力も各地に分権しており、あちこちの大名領で独自に新技術を取り入れて実験することができた。1720年に徳川吉宗が漢訳洋書を解禁して以降の蘭学ブームは、市井の商人や職人を含む幅広いブームとなり、日本の広い地域の人々が外の世界に対する継続的な関心を養った(p.84-89)。
日本における「文系・理系」の概念に最も影響を与えたのは、官僚制度と中等教育制度である(p.101f)。明治の早い時期から、殖産興業や土木公共事業にかかわる技官と、行政法務にかかわる文官の役割分担がはっきりしていた。1910年代には、すべての分野を文科と理科に分ける第二次高等学校令が出された。背景には、まずは法と工学の実務家育成を目的に日本の大学が作られ、そのための選抜機関として機能していたことがある。
歴史話がもっと読みたいが、本書の半分くらいで話は切り替わり、現代的な話題へ。産業界をはじめとする社会における文系・理系の捉え方。象徴的には文系学部の廃止議論がある。2015年6月の文部科学大臣の通知を契機とする文系廃止への批判は、日本内で多く論争になったが、実は国際社会の傾向を背景としている。英語圏では(文系と理系ではなく)儲かるSTEM分野と儲からない人文系Humanitiesという対立。新自由主義を背景とするアカデミック・キャピタリズムのもと、大学経営の市場化による淘汰が議論されていた(p.129-133)。
イノベーション政策をたどれば、人文的知識を取り込もうとする流れが見える。Schot & Steinmuellerの枠組みで説明される(p.134-141, 148-151)。 イノベーション1.0は、リニアモデルに基づいており、企業内で完結するクローズドイノベーションであった。イノベーション2.0は、ユーザーのフィードバックを取り入れた、産学連携のオープンイノベーション。しかし理工系の産学連携に投下された公的資金は、市場へ流出したあと、先進国の一部の企業を潤しただけで社会に還元されず格差を拡大させた。また、イノベーションの奨励は地球環境に負荷をかけるばかりとなった。そこで、イノベーション3.0では、社会的な課題にも取り組み、人文社会系の研究にも投資を行うようになってきている。
女性は理系に向いていない、といったジェンダーバイアスについては、心理学の実験結果など詳しめに論じられている。学力の様々な側面で論じられており、ちょっと細かすぎる印象。学力は平均では男女間で同じだが、優れた者の間では能力の分野で性差が見られる。脳の機能差としては複雑であり、「理工系への女性の適性」として語れるような決定的証拠はない(p.162-174)。むしろ言語リテラシーを求められる科目で男子の平均点は低い。サービス業が中心となる社会では高度な言語コミュニケーションを必要とする仕事が増え、男性における格差がより広がる(p.187-191)。
最後は学際的な流れを踏まえ、学問の分類がどこへ向かうのかについて。そもそも自然科学も一枚岩ではない(p.212-215)。自然科学を法則定立的だとみなすには、進化論(特に大進化)が当てはまらない。自然科学では普遍的法則の発見と並んで、統計的に高い蓋然性での予測を可能にするモデルも重要であり、一枚岩ではない。自然科学は多元的だという考えも(19世紀に物理と科学が同じ一つの科学なのかとの論争があったように)ありえる。
特定の課題の解決のために文系、理系を統一して扱う学際研究は、緩い形での学問の統合を図る一元論と言える。こうした緩い一元論に対して、方法論レベルでの統一を求める強い形での一元論は、ウィーン学団の統一科学や物理主義、人文社会科学を数理モデルによって形式化・定量化する流れに見られる。また別の強い一元論は、人文社会科学を生物学の一分野として自然主義化するもので、社会生物学などがある。エドワード・ウィルソンは社会生物学で様々な人間社会の現象を考察の対象とした。これは既存のイデオロギーを黙認するものとして論争を呼んだ(p.204-210, 221-226)。本書の最後には、シチズンサイエンスなどさらに多様な学問の姿が描かれる。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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