読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
大学初年度向けの人権論の教科書。人権が問題となる個々の場面に対して、何が問題でどう対処されてきたのかが書かれている。人権とは何かについての概説の後、現代における典型的な人権問題として、ジェンダー(女性)、子供、高齢者、障害者、同和問題、外国人が論じられる。さらに最近の新たな展開として、性的マイノリティ、医療アクセスや医療行為の自己決定権、ハラスメント、経済的格差・貧困が論じられる。最後に、日本およびグローバルスタンダードの人権教育が挙げられている。まさに教科書的にまとまっているので、やや箇条書き・羅列感があるものの、きちんとまとまっている。特に同和問題、人権教育については知らないことが多く、参考になった。
1999年から2000年にかけて1,700人を超える教職員・教育関係者に行ったアンケートによると、人権とは「おもいやり」「やさしさ」であるといった回答が主を占めたそうだ(p.226, 239)。「生まれながらに持っている権利」という回答も多かったものの、その権利の具体的な内容を聞くと10も挙がることはなかった。人権の具体的な内容は「国際人権規約」に記されている。だが日本で国際人権規約を学んでいるシーンには出会わない。例えばフィリピンでは街角の集まりや村の集会で、普通の人が国際人権規約を学んでいる。人権を捉えるにあたって「おもりやり」を強調するような心情主義は、自己責任で問題解決を求めるネオリベラルな社会に親和性を持つという。人権とは自分で頑張っている人に他から与えられる温情ではなくて、頑張っているかに関わらず無条件に誰もが持っているものである。人権の捉え方についての日本のこの傾向の指摘は目を引く。
人権という考え方には、二つの要素が含まれるという(p.6-8)。一つは国家の介入から国民の自由を守る自由権であり、18世紀的基本権と呼ばれる。しかし国家の介入のない自由な経済活動は格差の拡大を生み、社会的に弱い人々は生存の危機に直面する弊害を生み出した。このような事態から、もう一つの人権として、国家が介入して人間に値する生活を保障するという社会権が登場した。これは20世紀的基本権である。日本は明治憲法においては、国民の人権は天皇の恩恵の範囲で保証されていたに過ぎなかった。この意味で自由権は制限付きであり、社会権の保護規定はそもそも存在しなかった。日本国憲法は自由権と社会権の規定を備えている。だが実は、社会権はGHQのホイットニー草案には存在しなかった。社会権の規定は、当時、社会党の代議士であった森戸辰男と鈴木義男により帝国議会での審議の過程で追加されたものである。
基本的な事項について参考になる点は多い。性を考える4つの枠組み(p.134-138)。(1)生物学的身体sex、(2)性表現expression、(3)性自認identity、(4)性的指向attraction。それぞれに男性女性を両極とするグラデーションがある。性のスペクトラムは一次元ではなく四次元である。いまだに残っている外国人を除外する公的な規定(p.113-119)。(1)国家公務員の国籍条項。地方公務員については1996年11月に自治省が条件付き撤廃を容認している。(2)生活保護法。健康保険や労働保険には初めから国籍条項はないし、国民年金は1982年に国籍要件を撤廃した。生活保護については、1960年の通知によって外国人は生活保護の対象となった。しかし権利として認められていないため、保護の却下に対する不服の申し立てができない。(3)戦争犠牲者援護法。
大坂の八尾中学校教育革命は印象的だった(p.212-214)。同和部落の子供たちによる授業放棄・妨害が頻発していた1961年11月の大阪の八尾中学校では、3年生が各々の要求を集団の要求としてまとめ、共通の願いとして正当な方法で教職員に提出した。子供の要求を教職員が受け止め、選抜的・排除的であった学校文化を変革していく契機となった。
もっとも印象的だったのは、障害児教育を巡る日本の遅れぶり(p.77-87)。障害児教育は、教育から障害児を排除する「排除」、健常児と別個に教育を行う「分離」の段階を経て、アメリカやイギリスでは特別ニーズ教育、インクルーシブ教育へと移行している。日本も、2007年に特殊教育を特別支援教育へ制度変更し、2012年にはインクルーシブ教育へ向かうことを表明している。しかし日本が表明したのは、従来の枠組みを漸進的に変更するという形での移行である。その枠組みとは、(1)障害児を障害ごとに医療的な判別基準で選別すること、(2)障害児を健常児から分離して特別な学びの場に配置すること、からなっている。イギリスの特別ニーズ教育や、インクルーシブ教育を初めて取り決めたサマランカ宣言では、障害の有無ではなく、個々の児童の教育ニーズで教育対象を分けるとされている。しかし日本では、医学的な意味での障害(impairement)で分けている。これは障害を障害者自身の身体的、精神的、知的制約での障害(impairement)としてではなく、社会によって作られた障壁や差別による障害(disability)と捉える国際的な見解に遅れている。日本政府は、特別支援教育を"Special Needs Education"と訳してイギリスの特別ニーズ教育に沿うものとして語るが、その実は「障害児の」教育ニーズにあった学びの場の提供、の意味でしかない。インクルーシブ教育は、原則的にはすべての子供を通常学校の通常学級で教育し、特別支援学校・学級は例外とすべきだという考えだ。だが、入学に先立って児童を選別する日本の就学先決定システムはこの考えに沿っていない。統計を見ると、特別支援学校・学級の在籍生徒数は近年、急増している。そこには同和地区、就学援助家庭、一人親家庭、外国籍など様々なマイノリティの児童が通常学級より多い割合で含まれている。こうした児童は、通常学級で学習や行動上の課題を顕在化させるが、そのことが児童本人の(impairementとしての)障害として認識されている。そして、特別支援学級にいったん配置されると普通学級に戻りにくくなり、最終的には社会の周縁部へ位置づけられやすくなる。総じて、日本型の「インクルーシブ教育」制度は、社会の不平等の再生産装置として機能している。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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