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関幸彦『刀伊の入寇』

刀伊の入寇という、1019年3月末から4月にかけてあった外敵の日本への襲来について。高麗での呼び名で刀伊(東夷)と呼ばれる勢力は、主に中国東北地方に存在した女真のうち、東女真とされる勢力。女真はツングース系とされ、半農・半牧を営んでいた(p.24)。この東女真は刀伊の入寇において対馬・壱岐を襲って甚大な被害を及ぼし、次いで博多・能古島から松浦にかけての北九州を襲った。日本は当時、藤原道長の時代。迎え撃つ軍勢によって刀伊を退け、最終的には退却した先で高麗水軍に壊滅的な被害を受け潰走している。本書では、刀伊入寇の時代における京都と大宰府の関係、入寇において戦った勢力、のちの時代からの捉え方を中心に書く。


まず日本史には外的(文明的)要素の需要に積極的な時期(「開の体系」)と、消極的な時期(「閉の体系」)が存在する、という大枠から始まる(p.8-12)。積極的な時期は三つの波として、文明的要素が外から訪れた。(1)古代国家の成立に関係した「中国」の波、(2)近世国家の形成に寄与した「南蛮」の波、(3)近代国家の誕生に影響した「欧米」の波。10世紀から14世紀にいたる閉の体系での出来事は、中世への移行に当たる。その移行に当たっては内在的契機が作用しており、お手本無き時代の典型である。この時代における外敵侵入や外交の危機は、9世紀末律令国家時代(寛平期)の新羅海賊問題、11世紀平安時代(寛仁期)の刀伊の入寇、13世紀鎌倉時代(文永・弘安期)の元寇がある。そして本書では刀伊の入寇は、この新羅戦、モンゴル戦と対比して捉えられる。


まずは先立って新羅の海賊問題について。これを取り上げるのは、刀伊の入寇とその対応において、新羅問題が過去のトラウマのように再現するからだ。893年から896年にかけての寛平期に、大宰府から新羅来襲の記事が相次いでいる。この来襲は唐を宗主国とした新羅の支配体制の動乱を反映しており、大陸情勢の不安定さの象徴と言える。この新羅来襲には4つの特徴がある(p.34-40)。(1)捕虜の証言からするに、飢餓を背景とする王のほぼ公認の海賊行為であったこと、(2)蝦夷を討伐して捕虜とした俘囚が対抗する軍勢として配置されていること、(3)国司・郡司という律令制がまだ機能していること、(4)戦利品から窺うに、武器にはあまり差が無く、まだ大陸との相互交流は少なくなかったことである。


ただ907年の唐の滅亡により、周辺地域は中華的文明主義で普遍化された世界から解放される。唐の後の五代十国時代の混乱は、宋の建国(960年)により統一される。一方で、朝鮮半島では高麗王朝が新羅末期の動乱を制して建国(918年)。契丹族が渤海を滅ぼして遼を建国(916年)、雲南方面では大理国が南詔に代わって建国された(937年)。こうした、力あるものが旧勢力を打破する傾向は日本にも影響を及ぼしている。『将門記』における、平将門による武力行使の正当性の主張にそうした認識が見られる(p.19-23)。ともあれ、刀伊の入寇はこうした周辺諸国の体制の不安定さを背景としている。


刀伊入寇時の総司令官の役割を果たし、存分な活躍を見せることになるのは藤原隆家という人物。藤原道長の時代にあって、隆家は道長と勢力を争った道隆の息子だ。「さがな者」(無鉄砲者)として知られ、花山院との確執により流罪にもなっている。刀伊入寇に先立つ1014年に、宋人の名医に眼病を診てもらうために九州に下向している(p.53-57)。また1019年の刀伊入寇の3月末の前後、都では東宮宅で出火、藤原道長が病んで出家、ほかに不審火や盗賊による放火が頻発していた。刀伊の入寇は道長時代が終わりに近づく中で起こった外交危機だった(p.59-61)。


実際に刀伊の兵船は1019年3月28日に対馬、そして壱岐に現れ攻略し壊滅的な被害を与えた。4月8日から9日には博多警固所を襲った。12日には志摩郡沿岸で激戦、13日に松浦郡沿岸を侵略したのち退去した。主に労働力としての人間と牛馬の略奪が目的だった(p.71-79)。戦況を決めたのは、飛ぶと音が出て相手を威嚇する鏑矢の存在、受動的な迎撃にとどまらない能古島への積極的な攻撃姿勢、新羅海賊での経験が活きた警固所の配置、俘囚の配置が挙げられている(p.81-83)。


どういう人々が刀伊と戦ったのかは、論功行賞を求める記録から詳しく紹介されている。刀伊勢を追討した兵力には二種類がみられる。一つは「大宰府内に仕える者」と言われた、選ばれた府官系の武者。もう一つは筑後、肥前、肥後など「九国の人々」と言われた地域領主たち。前者は天慶の乱、すなわち平将門・藤原純友の乱を平定した由緒正しい兵(軍事貴族)であり、平氏などであった。つまり、国司の直属軍と地方豪族軍の混成軍だった(p.93-95)。


ポイントとして、11世紀初頭のこの時代、一見考えられるよりもまだ律令制は機能していたということだ。とはいえ官人の職務による戦いであった寛平期の新羅戦と違って、刀伊戦での武力は選ばれた武的領有者の能動的意思によるものが大きかった。こうした武功者が勲功者として名前が列挙されている。ただ、その恩賞は鎌倉期のように所領や所職ではなく、官職補任や位階授与だった(p.121f)。こうした外敵に対応した武力の形態によって当時の軍事システムが分かる。寛平期の新羅戦では律令制のもとでの徴兵、寛仁期の刀伊戦では王朝的な傭兵、文永・弘安期のモンゴル戦では幕府による主従制的な封建(p.131f)。


刀伊に捕らえられて連れ去られた家族を案じ、禁制を破って高麗に渡航した長峯諸近という人物について語られる。この人物は対馬判官代を務めていた。長峯への大宰府側の判断は、閉鎖的思考による防御意識の表れであり、「閉の体系」への移行を表している。長峯に次いで高麗から日本の捕虜が返還されてきたが、その高麗の使者への対応も、かつて入寇した新羅の後継として高麗を警戒する姿勢がうかがえる(p.148-154)。


そしてその後の時代からの捉え方としては、慈円の『愚管抄』が挙げられる。『愚管抄』では刀伊の来襲は、平将門の乱、前九年合戦と並んで、武士の世に向かっていく契機として捉えられている。地方における兵(つわもの)の活動は、やがて保元の乱で都を舞台とすることになり、武士の世が訪れるという理解(p.165-178)。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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