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ハリー・コリンズ『我々みんなが科学の専門家なのか?』

ほとんどの場合、我々は、活動家というものの扱い方を間違えている。知識をインターネットから得ている活動家は危険であり、一次資料を独学で読んで知識を得ている活動家も危険である。それらの活動家は、「一次資料知」を得た素人なのであるが、彼らは、自分が科学における本物の専門知を獲得したような思い込みをどうしても持ってしまう。しかし、そうした思い込みを持つ持たないに関係なく、彼らは、貢献的専門家の会話コミュニティーに参加することで得られる、対話的専門知や「スペシャリスト的なメタ専門知」を持ってはいない。(p.156)
良い本。科学の信頼性が低下した現在において、科学者という専門家の知識をどう扱うべきかについて。問いは題名が端的に示す通り。著者たちの答えは、みんなが科学の専門家なのではない。一般市民と科学者の意見を同列に扱うべきではない。ただし、科学者以外にも科学の専門家としてその知識が尊重されるべき人もいる。本書は、専門知expert knowledgeをいくつもに分類して、その特性を論じ、区別されるべき専門知について論じている。


まず前半は、科学の信頼性が低下してきた流れを語る。これは科学論の三つの波としてまとめられる(p.28-40)。1960年代以前の第一の波では、科学論の基本的発想は科学の成功の謎を解明することであり、科学の成功に疑問を呈することではなかった。科学的知識の真偽は、確固とした世界の在り方によってテストできると考えられ(ポパーの反証主義)、そのテストが正しく行われるために科学者コミュニティーはどのように組織され、どのような価値観を持つべきかが論じられていた(マートンのCUDOs)。このような第一の波に対して1962年のクーンの『科学革命の構造』は最大級のインパクトを与え、科学論は第二の波へと変化した。科学革命の考え方がもたらしたポイントは、科学革命によって科学者が世界について考える仕方が変わり、何が真であるかも科学者の生きる場所や時代によって変わるということ。1970年代前半の科学的知識の社会学SSKは、第二の波の中心をなす。ブルアの対称性の原理は、偽なる科学的事実と同じように真なる科学的事実も社会的に説明されるべきだとした。第三の波はこの第二の波を受けて、科学をどう捉え直すかを考える現在進行形の議論だ。


第一の波では、科学は理論とその反証によって真理に近づいていっていると考えられた。だが科学の教科書によく掲載されているこうした歴史は、おとぎ話、神話に近いものだ。例えば、マイケルソン=モーリーの実験と相対性理論の話は有名だが、その実験の解釈は1930年代まで定まっていないし、アインシュタインの相対性理論の構築にほとんど何の影響も与えていない。こうしたおとぎ話は、科学の教育のためには有効。科学者は研究を続けていく中で、科学がこうしたおとぎ話ほど単純でないことに気づくので害はない。だが政策立案者たちがこうした科学の単純な像を信じてしまうと弊害となる(p.31f)。


何世紀もの間、哲学者や思想家たちの想像力の中にあった科学の姿、現象を精緻に説明し予測するような姿は、実は統計的には非常にまれな姿である。私たちが日常的に出会うのはむしろ、現象にうまく対処できず失敗する科学の姿である。科学は雑然とした複雑なものにはうまく対応できないが、私たちの世界は雑然としていて複雑である。さらに、タバコ産業、気候変動支持者たち(クライメイトゲート事件)、石油産業などがそうしたように、科学は利権によってすぐに操作されることも明らかになってきた(p.12-14)。


こうして20世紀の半ばから、科学は栄光の頂点から滑り落ちており、科学に対する市民の考え方も変化している。いまや有名人や運動家が提示する議論が、科学者たちの議論と競合することも可能になっている。科学者もただの人であり、特別な知識を持った権威ある存在ではないと考えられるようになっている。科学技術は間違っているのだから、一般の市民にも科学と並ぶような専門知(=デフォルト専門知)があり、判断する権利があるという感覚が広がっている(p.20f)。


SSKの初期の研究では科学論の研究者自身に科学の理解が求められた。しかし現場の科学を理解するのは、かなりの困難を伴う。そこで研究者たちは、文芸批評や記号論という形で科学を記述し始めた。つまり科学的発見を記述した文が受け入れられるかどうか、という文学的なアプローチをとった。1980年代の中盤頃までにこうした傾向はますます見られるようになり、科学はどんどん特別ではなくなっていった。それにより第一に、科学的結果には科学外の広範な社会の理解関心が組み込まれていることが主張された。第二に、科学の成果が実践的使用に供されるとき、科学者たちは経験に基づく専門知を考慮に入れていないことが示された。私たちみんなが科学の専門家だというアイデアはこうして広まっていった(p.51-59)。


私たちはみんな科学の専門家だという考えを好む分析家は、専門家とは何かを知っている人ではなく、その人が何かを知っていると他の人たちが考えている人だと主張する。これはある人の専門知は、その人と他の人たちとの関係性の中で作られるという、専門知の関係説である(p.61)。だが、専門知の関係説には二つの問題がある(p.68f)。(1)関係説は競合する専門家のどちらを選んだらよいかについて指針を与えてくれない。ある専門家を他の専門家より優れたものとして選ぶ理由を与えられない。(2)関係説は日常生活の経験をうまく説明できない。何かを学ぶことに失敗した時には、専門知を持っていないという経験が(幻想かもしれないが)得られている。


これらは、専門知ということで実は様々なことが考えられているからこそ起こる混乱である。著者は専門知を3つに大別し、さらに細分化する(p.72-80)。(1)ユビキタス専門知。特定の社会や文化において育つことによって、暗黙的に誰もが獲得する習慣など。この専門知はその文化の人なら誰もが持っている。個人的にはこれを専門知として分類するのは混乱の素だと思う。(2)スペシャリスト専門知。私たちが専門家とみなす人々が持っている知識。科学者や、職人、ある業務に一定期間従事している人が持つ暗黙知や感覚、コツなど。(3)メタ専門知。専門家を判定し、様々な専門家の中から優れた人を選び出すための知識。これは科学的業績の評価方法から、その人物が信頼に足るかどうかを直感的に判断するスキルまで幅広い。


そしてコリンズが強調するのは、スペシャリスト専門知を獲得する過程における暗黙知だ。これが専門家と素人を区別するものとなる。これはつまり、専門家としての育成を受けたかどうか。すなわち、専門家のスペシャリスト専門知と、素人が獲得できるスペシャリスト専門知が区別される。私たちが専門家とみなす人たちが持つスペシャリスト専門知は、(徒弟的訓練によって得られる)経験やスペシャリスト暗黙知に基づいて獲得される。これらは、専門家の暗黙知に基づかない、本を読んで得られるスペシャリスト専門知とは区別される。スペシャリスト暗黙知に基づくスペシャリスト専門知は、特定の専門知の領域に貢献をする貢献的専門知と、そうした意図的貢献はしないものの、専門家コミュニティの会話に参加できるだけの知識としての対話的専門知がある。対話的専門知は、実行を伴わない浅い知識に見えるが、豊富で重要な概念である。対話的専門知は隣接分野との協働やピアレビューを可能にしている。対話的専門知の概念は、著者自身がずっと行っている重力波物理学でのフィールドワークから得られている(p.86-98)。著者自身は物理学者ではないが、現場の物理学者と対等に議論し合える対話的専門知を持っている。


一般の人々は貢献的専門知も対話的専門知も持っていない。だから、専門的判断ができる立場にはいない。一般の人々に実質的に可能なのは、通常の科学プロセスが歪められていないか、倫理的であるかなどの警笛鳴らしwhistle-blowingだ(p.137f)。後者は、誰が専門家なのかを見分けるメタ専門知を用いて行われる。


たしかに素人であってもそれなりに勉強すれば、科学論文を読むことができる。科学者コミュニティーに属して暗黙知を獲得しなくても、得られる専門知は存在する。科学論文は、それ自体で説得力を持つように書かれている。しかしある科学者が異端であって信頼性がなく、その論文をそれが書かれているままに読んではいけないということは、科学者コミュニティーの「口承文化」のメンバーになって暗黙知を得るしか、分かる方法はない。重力波物理学ではJoseph Weberという科学者がいて、異端の説を唱えているが、彼が異端であることは科学コミュニティに属していないと分からない。ちなみに、科学は進歩するためにいつでもこうした異端説を必要とするので、異端説の存在自体は何ら問題ではない(p.124-128)。ここれはやや疑問だ。その説が科学者コミュニティーでどう受け止められているかは、被引用数とか、サーベイ論文における扱われ方とか、どんな雑誌に出ているかで、ある程度分かるように思われる。


ということで、私たちみんなが科学の専門家であるわけではない。例えばワクチン反対運動のようなものは、この点を誤解している。運動家や一般市民にワクチンの有効性について専門知は無いし、医師免許を持っている人物であっても自動的に専門知として扱えるわけではない。ワクチン反対運動のような運動が本物の危険性に基づいているか判定するには、まず運動家たちの述べる専門的主張を真面目に受け取ってはいけない。運動家たちは専門的主張の基盤をまったく持っていない。そうではなく、私たちは自分自身のメタ専門知を使って判断しなければいけない。つまり、運動家たちは本物の謀略を暴くのにふさわしい仕方で、根拠となる情報を提示してるかどうかを問うことになる。反対運動家たちはジャーナリストがウォーターゲート事件の疑惑追及のように謀略を追求する辛抱強い調査を行わなければならないし、そうしたジャーナリストが仕事を公開するように、自分の仕事を公開しなければいけない。現在のところワクチン反対運動はこの水準に達してはいない(p.148-151, 157-160)。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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