読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
東方キリスト教について、いくつかの論考を集めたもの。専門的な、細かい事項を扱ったものもあれば、文化習俗の紹介のような軽めのものもある。著者はスラヴ学者なので、ロシアやポーランドといったスラヴ世界の記述が多い。原著は1991年刊とソ連(の最後の)時代なので、政治情勢への評価や、東方キリスト教の研究状況への評価には古さが見られる。この点は、文庫化にあたって付けられた解説に適切な指摘がある。
まず東方キリスト教は、東方正教会(ギリシャ正教)と、その他の東方諸教会からなる。東方正教会とは、同じ教義と典礼を共有するいくつかの独立教会の総称であって、ひとまとまりのものではない。東方正教会は、カトリック教会におけるローマ教皇のような中心的権威を持たない。コンスタンティノープル総主教がそうした中心的権威に相当するように思われるかもしれない。だが、政治的区分と教会管轄区域の一致という古代教会以来の原則に従ってきたため、ビザンツ帝国が崩壊してスラヴ諸国が独立するにつれ、コンスタンティノープル総主教の権威は失われていった(p.34)。
東方正教会以外の東方キリスト教には、カトリック教会、アルメニア教会、ヤコブ派などがある。シリア、特にアレッポはエジプトと並んて古代教会の最も重要な中心地だ(凄惨な内戦を経て、いまはどうなっているのだろう)。東方正教会、カトリック教会、アルメニア教会を三大勢力として、ヤコブ派教会が続く。カトリック教会は、十字軍以降にローマ教皇が行った教会合同運動の際に、それぞれの典礼と教会慣行の保持を認めたので、6つに分かれている(p.15-18)。この教会合同運動は、オスマン帝国に攻め込まれるコンスタンティノープルが、西方の軍事支援を当てにして、東方キリスト教も自身の影響下に組み入れたいローマ教皇側が提示する不利な条件に乗ったものだ(だが、軍事支援が行われる前にコンスタンティノープルは陥落した)。
西方キリスト教と東方キリスト教は1054年の東西教会分裂において、分かれたとされる。だがそれ以前において、ローマ教会が西方教会全体を統括していたわけではない。ヒスパニア、ガリア、フランクなどの教会があり、ローマ教会はむしろ西方と東方の中間的立場に立たされ、両者を仲介する役割を担うこともあった。東方教会との論点となったfilioqueの挿入もフランク教会による提案で、トレド公会議で付加された。こうした聖霊論は古代教会の時代に徹底的に議論されなかったつけが中世以降に持ち越されたもの。分裂以降、聖霊論に加えて教会慣行仕様の違いも表面化した(p.25-31)。
東方正教会、特にロシア正教で目立つのは、聖像画(イコン)である。東方正教会では彫像とか浮き彫りの像を用いることはなく、平面のイコンを用いる。イコンは平面であるがゆえに偶像崇拝の一歩手前に踏みとどまっていると考えられる。だが、聖堂ではイコンに熱心な祈りを捧げるような、イコンそのものと礼拝すべき対象をはっきり区別しているか疑わしいとの評価が見える(p.334)。
他にも、宗教的実践を重視ししてあまり論理的に考え詰めない、といった傾向も東方キリスト教の特徴。例えば、西方カトリック教会は、人間の犯す罪を大罪と小罪の2つに分け、小罪は死後贖う事ができると考えた。そこで、小罪を犯した人が最後の審判で天国に導かれるまで滞在するところとして、煉獄が考え出された。一方、プロテスタントの諸教会では、煉獄は聖書に記載がないとして否定している。東方正教会でも、人間の魂が死後どうなるかは聖書や教父文書に明示されていない以上、あえて詮索する必要はないと考えられた(p.301-303)。
こうした傾向は、かの有名なバルアラムとグレゴリオス・パラマスのヘシュカスモス(神秘思想)論争にもみられる。ヘシュカスモス論争は、皇帝や摂政といった国の支配者も神学上の立場を明らかにしたので、政治的問題でもあった。1341年のハギア・ソフィア聖堂での公会議でバルラアムの立場は弾劾され、これによりビザンツ帝国はルネサンスの精神を拒絶することとなった(p.118)。
政治権力との距離感も、東方正教会では微妙なものとなる。特にロシアの教会はビザンツ教会の保守的な体質を受け継いだ。教会は体制に組み入れられていくが、権力志向と反権力の両義的な性格を保った。17世紀初頭には総主教ニーコンの典礼改革に対する反動で分離派が生まれた。18世紀のピョートル大帝は総主教制を廃止して、国家の管理に組み入れた。18世紀後半のエカテリーナ女帝は修道院の所領を国有化した。正教会は政治権力によって弱体化させられていったように見えるが、この中でも、帝政を支える役割を正教会は担っていた。最終的に、19世紀末には正教会は国家の発展を阻害する一員と考えられた。ボリシェビキ政権に反対する立場を取った正教会に対し、ソビエト政府は徹底した政教分離、所領や建物の国有化により活動の基盤を奪った(p.349-353)。
他には正典・外典・偽典を巡る論考や、西方と東方の巡礼の違い、ボスニアやポーランドにおけるキリスト教についての論考がある。巡礼については、旅することを中心に捉えられた西方の巡礼に対して、東方の巡礼は聖遺物崇拝が中心だった(p.128-133)。ボスニア教会については異端としてローマ、ハンガリーから多くの干渉にあっているが、資料が少なく実態が分からない中、慎重に論がまとめられている。この異端はカタリ派(パタレン派)であろうとの結論を得ている。中世東方における異端としては、極端な二元論的な見解を取った、ボゴミル派も論じられる。ボゴミル派は、7世紀アルメニアのパウロ派という異端運動から始まり、10世紀前半にブルガリアで生まれる。この世をサタンにより創られたものとして否定し、反体制運動の背景を支えた(p.321-325)。
ポーランドのキリスト教についての記述も、まとまりよく貴重なものだろう。14世紀においてキリスト教の西方典礼と東方典礼の境界はだいたいリトアニアのヴィリニュスと、ポーランドのルブリンを結ぶ南北の線だった。ポーランドは西方典礼を用いていたが、東へ勢力を拡大するに至って、さらにリトアニア大公国との合邦によって正教徒を版図に取り込むことになった。人口の40%が正教徒だったと推定される。ポーランドは当然、宗教的寛容を取らざるを得なくなった(p.215-220)。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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