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ハリー・コリンズ、ロバート・エヴァンズ『民主主義が科学を必要とする理由』

現代の科学技術論の主要な動機は、科学と政治との間の権力の分割をやめて、科学技術を社会的に責任あるものにすることである。それに対し、我々の関心は、権力の分割を維持して、科学技術が社会から独立に行為できるようにすることである。ほとんどの社会分析家は、民主主義は科学技術の専門家たちから守られるべきだと考えている。我々は、科学技術の専門家たちこそが、民主主義を守れるのだと主張する。(p.14)

印象的な一冊。科学とは何かを問う科学論(Science Stuidies)について。1960年代までの素朴な科学観、1970年代以降の社会構築主義的な科学観を経て、いま科学についてどう考え直すか。そして民主主義社会において科学はどんな役割を果たすのか。これまでの科学論の流れを第一の波、第二の波と位置付けて、第三の波を提唱する。

まずは科学論を三つの流れ、三つの波として整理する。(1)第一の波は、科学は卓越した知的生産の形式であることが疑われていなかった時代。1950年代から1960年代初頭にかけてもっとも影響力があった考え。むしろ一般の人の科学観はまだこうしたものだろう。(2)第二の波は、科学的真理は社会集団の中の交渉や合意形成の産物であると考えた時代。1970年代から1990年代にわたる。利害関係や優先事項が専門家の助言に影響を与えることは避けられないので、より広範囲の社会の関心を反映させた方がよいとされた。(3)第三の波における考えでは、第二の波が科学研究の本質について述べたことをすべて認めながら、その規範的結論には賛成しない。第二の波のように科学の価値観を他の社会的価値と同列に置くのではなく、科学的価値観を道徳的に擁護する(p.17-19)。

科学的価値観を他の社会的価値観と並べた際にどう扱うのか、という点が第二の波との大きな違いとなる。例えば、公共領域における技術に関する意思決定について、第二の波では「正統性の問題」が扱われる。これはどのような場合に専門家が権威を持つかという問題。第二の波は、技術的専門家はそれが要求するような権威を即座に持つものではなく、より広い範囲の視点や経験を組み入れなければならないという結論を出した。第二の波のこの結論は、誰が意思決定に参加すべきかのメカニズムを用意せず、意思決定の参加制限の基準という「拡大の問題」をもたらす。つまり何でも(誰でも)ありになる。第三の波はこの問題に対して、専門知を様々に分類することにより、(農薬のリスクの問題に対する農場作業員のように)科学者ではない専門家を含め、重要でない非専門的な貢献を排除するようにする(p.22-24)。

第一の波との区別は、科学的真理、科学的世界観を巡って際立つ。この世界観とは、科学が重視している価値に従えば、人は真理に近づくことができるというもの。ただし、実際に真理に近づいているとは限らない。それでも私たちはこの世界観を維持しなければならない。例えば、ポパーは科学は反証されていないことで暫定的な真理である、と主張したが、そうではない。反証されないことで真理に近づいているかという問題などなく、反証しようとする行為が科学を「定義する」(反証は科学の形成的意志に含まれる)。個々の科学者の私利私欲にもかかわらず科学が安定して続いているのは、過半の科学者たちの世界観が旧来のままだから(p.58-60, 63)。

つまり、科学的であるような態度や行動、いわば科学者の生活形式、本書の用語では科学の形成的意志は、たとえそうすることにより真理に近づくことができる(真理促進的である)かどうかとは関係なく、保持されるべきである。というより、おそらくこうした科学の形成的意志は、真理に私たちを近づけることはない。こうした科学の形成的意志としては、世界についての主張の基盤としての観察、確証(再現可能性)、反証可能性、マートンのCUDOS、誠実さ、科学的成果を判断するのは科学者集団であること(解釈の場所)、解釈の一義性(明晰性)、個人の判断の独立性、歴史的な連続性、終わりがないこと、適用範囲の一般性、専門知の評価、といったものが列挙される(p.64-88)。

これが本書の核となる考えで、おそらく多くの人には意外に思われるだろう。科学的な態度は真理に近づくから必要なのではなくて、それ自体が道徳的に善いことだから取るべき態度なのだ。この著者たちの捉え方は、「選択的モダニズム」(selective modernism)と呼ばれる。つまり、科学は道徳的選択の対象である。観察可能な世界に関しては、説明のアプローチとして科学を選ぶことは、(正しいとか功利主義的に有益だというよりも)善良である。我々の文化にとって中心的なのは、科学的事実や科学的結果ではなく、科学に備わる価値である(p.32-38)。

科学は道徳的に擁護される、という論点は意外ではあるが、それなりに説得力はある。科学的態度では、多面的に証拠を集めてみたり、反例と見られるような証拠が得られた場合には自説を論理的に擁護し、ときに自説を放棄する。こうした態度は、科学という学問生活を離れて一般的な社会における振る舞いとしてみれば、異論に開かれた公平誠実な態度、自分が間違っていれば認める態度として評価できよう。

科学は有用でなくても擁護されるべきである。例えば、計量経済学の予測は実際にほとんどすべて間違っている。だがそれでも、例えばインフレ率について、道を歩いているだけの人や占星術師よりは計量経済学者に聞く方が道徳的に善いことである。なぜなら計量経済学者に聞くことは、科学的価値の重要性を認めることであり、専門知という制度を維持することだからだ。インフレ率を正しく把握する点で占星術師と計量経済学者に違いがなくても、計量経済学者を選ぶ選択が維持されるのは、選択的モダニズムの下にでのみである(p.93-97)。

科学というものを特別な生活形式として維持するためには、科学者は、反省的に考察する分析家たちの言っていることを断固として無視しなければならない。つまり、社会構成主義を信じていては、善い科学を遂行することはできないのである。 社会科学者たちが、重要なことを最終的に決定しているのは社会グループであるといくら主張していても、科学者一人一人は、自分は真理を探究しており、それを発見できるかもしれないと信じていなければならないのである。さらに、もし、本書の鍵概念である、科学の形成的意志が頑健なものであるべきならば、科学者は、社会構成主義を無視していなければならないのである。もし、すべてが社会的構成物なら、科学的高潔さをもって行為する理由などなく、何らかの政治的目的に向かって進めばよいことになってしまう。(p.123)
もし既存の社会が好ましいものなら、その社会の要請に科学技術は応えるべきだろう。しかし社会が不正にまみれて悪いものになっていると思うのなら、科学技術は独立性を保ち、道徳的リーダーシップ・指針を発揮すべきだろう。科学の存在理由の中には、善い行為が含まれているため、科学は道徳的リーダーシップを提供できる(現代ではほとんど唯一の)制度である(p.14f, 35f)。科学的価値は民主主義的価値であり、科学は民主主義の存在の仕方の見本である(p.231f)。
ただし選択的モダニズムは、観察可能なものについてのみ科学を推奨するにすぎない。論理実証主義とは違って、観察不可能なものについては選択的モダニズムは何も述べていない(p.100-102)。観察不可能なものを非科学的・非論理的で意味をなさない言明だと排除するものではない。また、選択的モダニズムによって科学を称揚することは、テクノクラシーではない。選択的モダニズムは、科学的事実と民主主義的価値を分けて、科学や技術的専門知を擁護しているのではない。選択的モダニズムは、事実/価値の区分ではなく価値/価値の区分、すなわち科学的価値と民主主義的価値を区別している。そして、公共領域での科学技術に関わる意思決定には、そのどちらもが必要だと主張する(p.110-112)。
私たちの民主主義社会においては、あくまで民主主義的価値が上位に立つ。民主主義は常に科学技術よりも上位にあるのだから、社会は、意思決定の仕上げとして科学的知識を使ってはならない。しかし、科学技術から出てきた明確な政策的含意を社会がくつがえそうとする場合には、民主主義社会はそれを明示的で説明責任を伴った仕方でやらなければならない。民主主義社会は、政策決定を受け入れやすくする目的で、科学を無視したり、科学の主張を曲解したりしてはならない。政治的領域が科学技術を支配するべきであるが、その支配は、毅然とした政治的責任の引き受けと、有権者への説明責任を果たすことに裏打ちされている。科学の出す調査結果の曲解によって、有権者への説明責任が薄められることがあってはならない(p.231)。
この、科学と政治の微妙な関係は、フクロウ委員会という考え方で語られる。自然科学者のほとんどは、科学をどのように行うかは知っているが、科学の本質についてはほとんど何も知らない。そのことによって、科学的価値は維持されているのだから、これは善いことである。科学者は、前方以外の方向をほとんど見ることのないワシに例えられる。なかには、自然科学者であって、科学の社会的分析を適切に理解している、二つの異なる方向を見ることができるフクロウもいる。科学原理主義者である鋭い爪をもつタカもいるし、それに迎合する自然主義哲学者であるハゲタカもいる(p.125-129)。ちなみに科学にまつわる様々な態度を著者たちが鳥類に例えているのは、「鳥類額が鳥類にとって役に立たないように、科学哲学は科学にとって役に立たない」と評したファインマンへの意趣返しである。
フクロウ委員会とは、公共領域における科学技術の導入について、著者たちが提唱する新しい制度だ。フクロウ委員会は、フクロウ的な社会科学者とフクロウ的な自然科学者からなる。フクロウ委員会は、何が現行の科学的コンセンサスであるかを判定する。この仕事は、何が科学的真理であるかを決めることではない。誰が善い科学を行っているか、誰が経験に基づく専門知を持っているかを判定することである。この仕事は科学の形成的意志によって行われるが、自然科学のみで遂行できるものではなく、社会科学的な仕事である。フクロウ委員会の仕事は専門的な知識の現状を調べて、政治家に自分たちの意見を結論を伝えることである。その結論を採用するか覆すかは、政治家の決めることである(p.136-142)。フクロウ委員会の役割は単に政府が何をすべきかを診断するだけのものではない。フクロウ委員会は技術的問題と政治的問題を区別する。専門家に委ねることのできる問題は何であり、専門知を完全に拒絶したとしても純然たる政治的議論として残るものは何かを明らかにすることである(p.176)。
フクロウ委員会のモデルは、アメリカ議会技術評価局(OTA)のような、テクノロジーアセスメント機関だろう。何が科学的真理であるかではなくて、科学者集団において何がどこまで合意されていて、どこから先は政治的決定の領域なのかを腑分けする。フクロウ委員会は、テクノクラシーにならないが科学を尊重する仕方だ。科学的態度は真理のためではないのだから、科学的結果を正しいものとしてそのまま採用する(テクノクラシー)ことはできない。かといって、それは道徳的に善い行為の結果なのだから、私たちの価値観として尊重されるべきだ。
フクロウ委員会には、もどかしさが伴う。例えば、日本の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議などは、専門家自体が大衆へのコミュニケーションを行ったり、厚労省の官僚とともに政策を立案したり、文言そのものを起草していたりする。これはフクロウ委員会の役割からはみ出しているだろう。政治が様々なコンフリクトのなかでどうにも動けないとき、フクロウ委員会は科学者集団の合意内容について、ただ分厚い報告書を作成するだけでいいのだろうか。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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