読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
現代の科学技術論の主要な動機は、科学と政治との間の権力の分割をやめて、科学技術を社会的に責任あるものにすることである。それに対し、我々の関心は、権力の分割を維持して、科学技術が社会から独立に行為できるようにすることである。ほとんどの社会分析家は、民主主義は科学技術の専門家たちから守られるべきだと考えている。我々は、科学技術の専門家たちこそが、民主主義を守れるのだと主張する。(p.14)
印象的な一冊。科学とは何かを問う科学論(Science Stuidies)について。1960年代までの素朴な科学観、1970年代以降の社会構築主義的な科学観を経て、いま科学についてどう考え直すか。そして民主主義社会において科学はどんな役割を果たすのか。これまでの科学論の流れを第一の波、第二の波と位置付けて、第三の波を提唱する。
まずは科学論を三つの流れ、三つの波として整理する。(1)第一の波は、科学は卓越した知的生産の形式であることが疑われていなかった時代。1950年代から1960年代初頭にかけてもっとも影響力があった考え。むしろ一般の人の科学観はまだこうしたものだろう。(2)第二の波は、科学的真理は社会集団の中の交渉や合意形成の産物であると考えた時代。1970年代から1990年代にわたる。利害関係や優先事項が専門家の助言に影響を与えることは避けられないので、より広範囲の社会の関心を反映させた方がよいとされた。(3)第三の波における考えでは、第二の波が科学研究の本質について述べたことをすべて認めながら、その規範的結論には賛成しない。第二の波のように科学の価値観を他の社会的価値と同列に置くのではなく、科学的価値観を道徳的に擁護する(p.17-19)。
科学的価値観を他の社会的価値観と並べた際にどう扱うのか、という点が第二の波との大きな違いとなる。例えば、公共領域における技術に関する意思決定について、第二の波では「正統性の問題」が扱われる。これはどのような場合に専門家が権威を持つかという問題。第二の波は、技術的専門家はそれが要求するような権威を即座に持つものではなく、より広い範囲の視点や経験を組み入れなければならないという結論を出した。第二の波のこの結論は、誰が意思決定に参加すべきかのメカニズムを用意せず、意思決定の参加制限の基準という「拡大の問題」をもたらす。つまり何でも(誰でも)ありになる。第三の波はこの問題に対して、専門知を様々に分類することにより、(農薬のリスクの問題に対する農場作業員のように)科学者ではない専門家を含め、重要でない非専門的な貢献を排除するようにする(p.22-24)。
第一の波との区別は、科学的真理、科学的世界観を巡って際立つ。この世界観とは、科学が重視している価値に従えば、人は真理に近づくことができるというもの。ただし、実際に真理に近づいているとは限らない。それでも私たちはこの世界観を維持しなければならない。例えば、ポパーは科学は反証されていないことで暫定的な真理である、と主張したが、そうではない。反証されないことで真理に近づいているかという問題などなく、反証しようとする行為が科学を「定義する」(反証は科学の形成的意志に含まれる)。個々の科学者の私利私欲にもかかわらず科学が安定して続いているのは、過半の科学者たちの世界観が旧来のままだから(p.58-60, 63)。
つまり、科学的であるような態度や行動、いわば科学者の生活形式、本書の用語では科学の形成的意志は、たとえそうすることにより真理に近づくことができる(真理促進的である)かどうかとは関係なく、保持されるべきである。というより、おそらくこうした科学の形成的意志は、真理に私たちを近づけることはない。こうした科学の形成的意志としては、世界についての主張の基盤としての観察、確証(再現可能性)、反証可能性、マートンのCUDOS、誠実さ、科学的成果を判断するのは科学者集団であること(解釈の場所)、解釈の一義性(明晰性)、個人の判断の独立性、歴史的な連続性、終わりがないこと、適用範囲の一般性、専門知の評価、といったものが列挙される(p.64-88)。
これが本書の核となる考えで、おそらく多くの人には意外に思われるだろう。科学的な態度は真理に近づくから必要なのではなくて、それ自体が道徳的に善いことだから取るべき態度なのだ。この著者たちの捉え方は、「選択的モダニズム」(selective modernism)と呼ばれる。つまり、科学は道徳的選択の対象である。観察可能な世界に関しては、説明のアプローチとして科学を選ぶことは、(正しいとか功利主義的に有益だというよりも)善良である。我々の文化にとって中心的なのは、科学的事実や科学的結果ではなく、科学に備わる価値である(p.32-38)。
科学は道徳的に擁護される、という論点は意外ではあるが、それなりに説得力はある。科学的態度では、多面的に証拠を集めてみたり、反例と見られるような証拠が得られた場合には自説を論理的に擁護し、ときに自説を放棄する。こうした態度は、科学という学問生活を離れて一般的な社会における振る舞いとしてみれば、異論に開かれた公平誠実な態度、自分が間違っていれば認める態度として評価できよう。
科学は有用でなくても擁護されるべきである。例えば、計量経済学の予測は実際にほとんどすべて間違っている。だがそれでも、例えばインフレ率について、道を歩いているだけの人や占星術師よりは計量経済学者に聞く方が道徳的に善いことである。なぜなら計量経済学者に聞くことは、科学的価値の重要性を認めることであり、専門知という制度を維持することだからだ。インフレ率を正しく把握する点で占星術師と計量経済学者に違いがなくても、計量経済学者を選ぶ選択が維持されるのは、選択的モダニズムの下にでのみである(p.93-97)。
科学というものを特別な生活形式として維持するためには、科学者は、反省的に考察する分析家たちの言っていることを断固として無視しなければならない。つまり、社会構成主義を信じていては、善い科学を遂行することはできないのである。 社会科学者たちが、重要なことを最終的に決定しているのは社会グループであるといくら主張していても、科学者一人一人は、自分は真理を探究しており、それを発見できるかもしれないと信じていなければならないのである。さらに、もし、本書の鍵概念である、科学の形成的意志が頑健なものであるべきならば、科学者は、社会構成主義を無視していなければならないのである。もし、すべてが社会的構成物なら、科学的高潔さをもって行為する理由などなく、何らかの政治的目的に向かって進めばよいことになってしまう。(p.123)
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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