読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
さらに厳密に言うならば、たとえ誰かが行った証明であったとしても、それを理解するというときは常に「他の誰でもないこの私」が行うのであるから、「誰もが」は決して「この「私」によらずには言うことすらできないのである。「だがその「私」は誰でもいいではないか」と言う人がいるかもしれないが、「誰でもよかった」と言えるためには、まず誰かが言わなければならない。それが言われた後で、はじめて「誰でもよかった」という置き換え可能性が開かれるのである。 (p.143)
圏論的物理学と、現象学的哲学の研究者が対話して書いた一冊。圏論的な発想を背後に置きながら、哲学を紡ぎ出そうとしている。自分は圏論も現象学もそれなりに読んだので、どちらの発想にも馴染みがある。なので本書に書いてあることは分かるような気もするし、分からないような気もする。おそらくは圏論や現象学の具体的な何らかの議論を念頭に置いているけれども、紙幅もあって明確には出てこないようなものがあって、その念頭に置いているものをつかめないとなかなか難しい。
中心になるのは、現実という概念だろう。物がある、という時に我々が要請してる条件の最も重要なものは、我々が経験していない時にもそれが同じようにあるということが挙げられる。しかし、現実について考える上で決して無視することのできない現代の物理学では、例えば磁場はこうした条件を満たさない。磁場は荷電粒子と共に運動している人にとっては、その荷電粒子は停止しているため、磁場を作らない。したがって磁場の存在は観測者に依存する。これはつまり、運動しているかどうかが観測者と独立に決まらないという、相対性理論の帰結である。相対性理論のような場の現代的見方は、観測者から独立というあり方を、観測者を考慮に入れた変換規則の恒常性の一例として捉え直している(p.29-34)。かといって、粒子でなく場を現実、実在として捉えると、場そのものは実在するが我々はその様子を確率的にしか知りえないということになる。著者たちはこれを不可知論、神話であるとして退ける。取るべきアプローチは実体を追い求めるのではなく、「場が粒子となる」という現象そのものを引き受けて、どこまでもこの現象に即して考えることだと(p.42-46, 53)。場は観測に応じて粒子となるということは、状況が設定されたときに値を取りうる、不定元という数学の概念と類比的である。場は、自然の認識における不定元である(p.38f)。
そして本書の一番の鍵概念である、非規準的選択(non-canonical choice)というものが登場する(p.66-69)。例えば代数方程式$x^2 = -1$の二つの解のどちらを$i$、$-i$とするか。対称的だからどちらを選んでもよいが、決めてしまえば変更できない。この選択そのもの(名づけ)は数学理論の内部で行われるものではない。メタレベルで数学者(の団体)が決めるものだ。例えば選択公理が主張する、(非可算個の集合族に対して)選択関数は存在するが具体的には分からないかもしれないことは、非規準的選択に関わっている。選択公理が居心地悪いが使わなければならないのは、非規準的選択が不可避であるからである、と著者たちは書く。いやしかしよく分からない。虚数の話は数学的対象をどう呼ぶかの構文論的な任意性なのだろうか。であれば言語体系そのものが持っている恣意性(言語は示差的特徴だけを必要とする)のことだろう。あるいは反対圏で読み替えて議論しても同じというように、同じ(構文論的)文に対して同型な異なるモデルが与えられるということなのだろうか。また、選択公理はこうした構文論的あるいはモデル論的な論点ではなく、関数の存在と明示という数学的対象の話なので、異なるレベルの議論が混ざっているように思われる。選択公理に違和感があるのは、非可算な集合からの選択の場合なのだが、選択公理の議論が著者たちのように扱えるとしたら、そもそも私たちの思考空間は非可算なのだろうか。
この非規準的選択という事態が、数学のみならず、私たちの認知活動に大きな役割を果たしていると著者たちは主張する。これは、任意であれ何であれ、ともかく何かを選ばないと何も始められない、ということをおおよそ意味している。例えば、ともかくもどれかの行き方を非規準的に選択して、そうした異なる行き方で「同じ点」に到達できるなら空間が定めれられる(p.82-86)。数学は何らかの記号なしには行えないが、特定の記号には依存しない(p.78)。だが、再びこれは構文論レベルでの記号の恣意性を言っているのか、意味論レベルで同型なモデルの存在を言っているのか。子供の数え上げや、同値な命題の例は後者のように思えるが、ここで書いている文章は前者に見える。
数学ではともかくも何かが措定されて(非規準的選択の遂行)、その選択の非規準的な性格が消えることにより、もろもろの項の普遍的な「置き換え可能性」が成り立つ(p.79)。これは全称導入の推論だろう(あるいはラムダ抽象かも)。例えば、ともかくも何らかの関数$f$を不定元(束縛変数)として導入して、最後に全称導入することで一般的な性質が証明される(p.72f)。
そしてこれらが、圏論的に捉えられる。何らかの物事が理解されるときには、具体的な例を出すなど、何でもいいがともかく何らかのものを措定して(非規準的選択)考えることになる。つまり理解するとは操作しやすい圏への関手を構成すること(p.122f)である。ゆえに、非規準的選択で(ともかくも何かが措定され)何らかの現れが生まれることは関手の構成であり、置き換え可能性があって非規準性が消去できることが自然変換である(p.129f)。
さらに、非規準的選択で個々の特異なものを選び、自然変換を考えることで最終的にその非規準性を消去することは、個々のものに固着しないが、個々のものをおろそかにしない。これは、個別も普遍をおろそかにしない思考であり、現実に即し続けようとする思考によって求められる根源的な思考原理である、という(p.130-135)。これが個別をおろそかにしない思考なのだろうか。非規準的選択における個別的なものは、ともかくなんでもいいから満たすものを、として要請されてくるものであって、やがて抽象化されて得られる普遍のもとに眺められているものに過ぎない。例えば、男性の一例としてしか私について論じられないなど。それは特殊であって、個別ではないだろう。
カント的な道徳律の普遍性も、非規準的選択における置き換え可能性から考えられるという。それは多数の人を一律に規制する規則の一般性ではないし、自分自身の利害でもない。道徳律は、私は殺されたくないという個人的な事実と、置き換え可能性により成り立つ。私は私の視点からしか世界に関わることはできないという置き換え不可能な個体性そのものが、他人と置き換え可能である(p.148-152, 156f)。だが、非規準的選択の置き換え可能性ってそんなに豊潤な概念だろうか。単に任意の$x$や$f$として置かれるものは、個別として捉えられているとはどうも理解しにくい。この先には、個々のものに固着しない思想として、ナーガールジュナの空論が論じられたりするが(p.183f)、さすがに理解の程度を超える。
個別の論点としては、決定論と因果性は異なるという主張が目に留まった(p.199-202)。決定論は「Aがあれば、必ずBがある」という主張で、因果性は「Aがなければ、Bはない」という概念だと捉えている。Aを種、Bを芽とすれば、「種がなければ、芽はない」という因果的主張は自然に認められるが、「種があれば、必ず芽がある」という決定論的主張は多くの例外があり認められない。決定論と因果性は異なる概念であり、自由と決定論は両立しないが、自由と因果性は両立するとsれる。これはつまり「A→B」と「B→A」の違いとして説明しているのだが、これでいいのだろうか。
さらに非可換確率論の発想はまだよく分からないが、面白そう。アンケートにおいては、質問の順序に応じて答えが変わってしまう。つまり回答の選択肢からなる確率空間は、条件付けの順序によって変わると捉えられる($P(X_3 | X_2, X_1) \neq P(X_3|X_1, X_2)$)。このありかたは、確率空間があらかじめ確定していない、すなわち選択肢やその確率が確定していないと考える量子確率論、非可換確率論の構造をなしている。確率空間は、古典確率論ではあらかじめ与えられた実体的なものとみなされるが、非可換確率論はより一般的な、質問の順序が交換不可能なものを包括する。量子論の数学的構造が、人間の認知レベルのモデリングにも役立つことは、現実が量子場から人間のレベルまで「不定元としての現実」、「問いが無ければ答えが無い」という構造に貫かれていることを表す(p.211-221)。要するに、「決定論的な世界のなかに量子論で描かれるような奇妙な「例外」があり、その知られざる効果によって生命性や意識というやはり特殊なものが可能になっている」といった現実観よりも、「現実の一般的な構造が非可換確率論で描かれるような性質をもっているので、それが量子現象にも生命現象にも意識現象にも妥当する」という現実観の方がより自然である(p.221)。
非規準的選択ということでなんとなく言いたいことは分かるものの、それがかくも一般的に展開できる概念なのかはあまり納得できなかった。私にはむしろ、なぜ非規準的選択が可能なのかのほうが気になる。それは、私たちが事象や事物を単にそのものとしてではなく、いつも何らかの普遍的概念の一例として、つまり個別でなく特殊として眺めているからだろう。つまり概念構造が埋め込まれたものとして、世界を認知している。それが非規準的選択を可能にするものだろう。非規準的選択に先立って、ラムダ抽象のような思考があるのかもしれない。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
別館:note
コメントの投稿