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イマニュエル・カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』

カントの歴史哲学、政治哲学周りの小論を集めたもの。「啓蒙とはなにか」「世界市民という視点から見た普遍史の理念」「人類の歴史の憶測的な起源」「万物の終焉」「永遠平和のために」の5編を収録している。昔に一度どれも読んだことがあるはずだが、久々にカントなど読むととても面白い。話題が純粋な哲学よりも分かりやすいから、まだしも取っつきやすい。逆説的な議論の展開など、さすがに深く考えられている。


「啓蒙とはなにか」からは、ハーバーマス的な公共性、輿論の空間における理性の公的な使用について目に留まる。理性の公的な使用の自由のみによって公衆は啓蒙できる。個人が独力で理性を使用するようになる、自分で考えるようになるのは極めて困難だ。しかし公衆のうちには周囲に広めていく人がいる。理性の公的な使用とは、公共体の一員として、世界の市民社会の一員として、つまり学者として公衆に語りかける場合であり、この場合に自由に議論することが許されるべきだ。これに対して、ある地位や職業についているものとして議論するのは、理性の私的な使用である。例えば公務員は、政府が機能するためには受動的に振る舞うことが求められるため、理性の私的な使用は認められない(p.13-16)。


「世界市民という視点からみた普遍史の理念」では、人間の意図とは異なって動く、自然の意図を推定している。人間の意志の自由の働きは個々人でみると規則的に発展しているとは見えない。しかし、個人の結婚や死亡が一個人についてはいつ起こるか決定できる規則は存在しないように見えながら、統計的には法則が見出されるように、人類全体としてみれば意志の自由は徐々に発達してきていることがわかる。その発達は、それ自体としては認識できない自然の意図に従っている(p.32f)。ここでは自然の意図を、統計学的な思考によって推定している。こうした自然の意図とは、人間の理性が定められた目的を実現するように発達することだ。目的なく存在する素質や器官はありえない。理性の目的は、自らの動物としてのあり方に関わらず、理性によって獲得できる幸福や完璧さだけを目指すこと。理性は、個人のレベルではなく、人類全体のレベルにおいて発展していく(p.36-38)。この辺りはヘーゲルの世界精神につながる発想が見える。同様に、ヘーゲルらしい弁証法的思考もみられる。それは、人間の間の対立が、理性の発展を導くという点だ。人間は集まって社会を形成する傾向を持つが、他方で利己心など非社交的な社交性をもつ。他人に対抗しようとする傾向によって、人間の能力は覚醒する。すべての文化や芸術は、こうした人間の非社交的な社交性の成果である。お互いの自由を最大限に実現するような、立法的な市民社会の秩序も、こうした非社交的な社交性の成果である(p.40-42)。ホッブス的な万人の闘争から、秩序が創発する。


「人類の歴史の憶測的な起源」は奇妙なテキストだ。ここでも弁証法的な、逆説的な論の運びが見られる。課せられた制限として人は嘆くが、実は逆説的に理性の展開の条件となっているものがある。戦争、死、不平等といったもの。国家間に戦争の脅威があるために、国内ではある程度の自由や人間性を尊重せざるを得ない。いまのところ外敵を恐れる必要のない中国では、自由が跡形もなく根絶されている。人間の寿命が長ければ、それだけ日々の糧を得るための労苦が費やされる(人口が増えれば食料争奪となる)。他人を凌駕しようとする非社交的な社交性をもつ人間は、平等には耐えられない。そうして発生する不平等そのものが、平等を目指す動きを起こす(p.97-101)。このテキストが書かれた当時(1786年)の中国は清の乾隆帝の治世だが、自由が無いというのは何を指しているのだろうか。


「万物の終焉」はいまでも通用しそう。万物というかこの世の終わり方を、3つに分けて考察している。自然的、超自然的(神秘的)、反自然的終焉。自然的終焉は、理性の目的である最高善が達成された状態で、もはや変化は起こらず、無時間的な永遠が到来する。自然の意図がすべて達成された状態で、そうした意図を仮定しない現代の私たちはちょっと感覚が薄い。超自然的終焉では、人間がまったく理解できないところで世界が消滅する。巨大な隕石の衝突とか、ガンマ線バーストの直撃とか、全球凍結とかを考えればよいだろうか。最後の反自然的終焉は、自然の目的を誤解した人間がもたらすものだ(p.124-132)。核戦争や気候変動がそんな例かもしれない。


「永遠平和のために」は言わずと知れた、国際平和のための要件を記した有名な論文。平和が実現するための前提条件(予備条項)として6つが挙げられる(p.149-159)。(1)将来の戦争につながるような原因が排除された平和条約の成立。(2)国家を継承したり交換したりして、他の国家の所有物とみなさないこと。国家は人間が集まって結成したものであり、他の人が自由に支配したりはできない。これは民族自決の考え方だ。結婚によって領土を拡大していたヨーロッパ的国家観への批判。(3)常備軍の全廃。常備軍は他国への脅威であり、軍拡競争を引き起こす。ただし国民が祖国防衛に備えて武器を取り、定期的に訓練するのは常備軍とは異なる。自衛隊はよいが軍隊はダメという。(4)軍事国債の発行禁止。(5)武力による内政干渉の禁止。ただし内戦が起こったときに対立グループがそれぞれ国家を自称していれば、どちらかに介入することは内政干渉ではない。(6)将来にわたって相手を信頼できなくなるような、卑劣な敵対行為の禁止。暗殺、降伏条約の破棄、相手国内の暴動の扇動、スパイなど。これらのうち、1,5,6は即座に厳密に適用されるべきものという。


前提条件を満たすために、具体的にどうすればいいのかの案(確定条項)が記される(p.164-188)。(1)共和的な国家体制であること。共和政を構成する条件は、すべての社会の成員が自由であり、法にのみ従属し、平等であること。ここで普通の政治学の概念とは違って、共和政は統治方法の分類であり、専制政の対立概念。すなわち、行政権(統治権)と立法権が分離されているかどうかを意味する。他方、国家形態の違い(支配者の数)をカントは君主制、貴族制、民主制に分けている。そうすると、民主制は行政と立法が分離されていないので専制政である。共和政では国民に主権がありつつも(社会契約の担い手としての国民の立法権)、実際の国家運営は代議士により行われる。つまり結局は、現在の民主主義的国家だということになる。(2)国際法は、自由な国家の連合に基礎を置く。国際的に統一された単一の国家となるべきではなく、それぞれの民族からなる国家の国際的な連合であるべき。国際連合の発想のもととしてカントが引かれるのはここ。(3)歓待を受ける権利。外国人は他国に訪れただけで敵として扱われない。この権利は訪問して交流を試みる権利であって、客人として扱われる権利ではない。この権利により、世界の遠く離れた国々が平和な関係を結び、やがて人類が世界市民となることが期待される。西欧の植民地化の政策は歓待の権利の悪用であり、不正である。最後の歓待の原理も、何人かの論者が注目しているポイント。歓待とはいえ、客人としてもてなされる権利ではない。ただ出入りが自由なだけで、その人がもてなされるかは、その人次第。


永遠平和を保証するのは、偉大な芸術家である自然、すなわち<諸物を巧みに創造する自然>だという。自然の機械的な流れからは、人間の意志に反してでも人間の不和を通じて融和を作りだそうとする自然の目的がはっきりと示されるのである(p.191)。つまり、永遠平和はかの「自然の意図」に含まれる。戦争はその意図の実現のために、逆説的に必要な事柄である。これは共和政についても言える。共和的な体制は、樹立するのが最も困難であり、維持するのはさらに難しい体制。しかし自然は、人間の利己的な傾向を通じて、各人の力を互いに対抗させ、共和的な体制の国家が組織されるように導くのだ(p.205-207)。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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