読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
ともすると科学的に見えながら科学ではない、疑似科学の対比でもって、科学とは何かを語る異色の一冊。異色ではあるが、あるものが何なのかを考えるには、どういう点で他のものと区別されるのかを考えることになるため、まっとうなアプローチとも言える。なお本書の結論的には、科学と疑似科学の間に明快な分割線は引けない。科学も変化するものであるし、明快な分割線が無いからといって意味のない試みではない。
対立するものとして置かれているのは、進化学に対抗する創造科学、天文学に対抗する占星学、超心理学、代替医療。どれも内実をしっかり調べていて、これら疑似科学のサーベイとしても読める。賛成派・反対派に分かれて冷静な分析が難しこうした話題を、よくまとめたものだ。
創造科学を巡っては、公立学校で教えられるべきかを巡ってアーカンソー州で違憲裁判が起こった。その裁判の証言者の一人に、科学哲学者のマイケル・ルースが登場した。ルースが主張した、科学の5つの特徴が本書の議論の出発点となる。(1)自然法則の探求、(2)自然法則による経験的な世界の説明、(3)経験的な証拠と比較されテストされること、(4)反証不能ではないこと、(5)理論は一時的なものであり、理論に反する証拠が挙がってきた場合には、理論を変える余地があること(p.18)。
ダーウィンの進化論のポイントは二つある。それは、様々な生物が少数の共通祖先から分岐してきたという説(共通先祖説)と、その分岐の主要なメカニズムは自然選択であるという説(自然選択説)の二つ。共通先祖説は生物学者の間で短期間に受け入れられたが、自然選択説はその後大きな批判にさらされた。自然選択説が広く受け入れられるようになったのは、進化総合説の成立した1930年代以降のことである(p.14, 40f)。進化論には、検証や反証が可能なのかという問いが向けられる。反証主義には仮説そのものの反証可能性に基づくものと、否定的な証拠に対して理論を変更しようとする態度や証拠の量を考えに入れた方法論的反証主義(ラカトシュ)がある(p.48-56)。どちらにしても創造科学と進化論を区分するのは難しい。まともに科学理論とされるものであっても、過少決定(デュエム=クワインテーゼ)があるために、単純に反証されたり反証を受け入れたりするものではない。このことは二つの反証主義、すなわち仮説そのものにせよ仮説に対する態度にせよ同じ。例として、1781年に天王星が発見されたときに、その動きはニュートン力学の計算結果に反した。だが科学界はニュートン力学への反証とは扱わず、未知の惑星による影響とされた。ルヴェリエはその未知の惑星の軌道を予測し、1846年に予測された場所に見つけた(海王星)。一方、水星の近日点がニュートン力学の計算結果に反するという現象に対しても、ルヴェリエはヴァルカンという未知の惑星を仮定した。この場合は未知の惑星は見つからず、結局は一般相対性理論がニュートン力学を否定する形で決着したのだった。
占星術は近代的天文学が確立される以前は、立派に科学の一部だと見なされていた。そこで科学であるかの扱いが変わる要因の議論として取り上げられる。なかでもクーンのパラダイム論は、科学の合理性を批判したり疑似科学を支持するために利用されてきた(p.88-91)。だがクーン自身は例えば占星術について、占星術は一度として「通常科学」としての営みを行ってきていないので、科学でないと論じている。占星術の予測から外れた事象が起こったとき、占星術はデータの不備に期するだけで、例外事象を解消するための理論改変などの努力をしていないのがその理由。一方、ラカトシュのリサーチプログラム論では、リサーチプログラム(クーンのパラダイムに当たるもの)はプログラムの中心となる主張である「固い核」と、補助仮説や初期条件からなる「防御帯」からなる(p.97-100)。不利な証拠はリサーチプログラムが維持される限り、防御帯を変更することで対処される。リサーチプログラムの良し悪しは、防御帯の変更によって新奇な予測が生み出せるかどうかにあるとされる。しかし理論の選択に当たって必ずしも新奇な予測が求められるわけではないこと、固い核の特定が多くの場合困難であることという難点が指摘されている。
超心理学の話題は、科学的実在性の文脈で議論されている。超心理学は学会が組織され、学術誌のシステムが整っている。また1969年から現在に至るまでアメリカ科学振興協会に加入している。こうした制度的整備の点では、超心理学は創造科学や占星術とは一線を画しており、疑似科学として同列に論じることには議論の余地があるという(p.110)。これは意外なポイントだった。科学的実在論の中心的な主張によれば、成熟した科学が措定する対象は実在する。超心理学が成熟しているかについては、否定するのはそう簡単ではないという(p.134-138)。(1)制度的成熟。超心理学は大学の専門学科、学会、学術誌を持ち、制度的には整っている。(2)方法論的成熟。超心理学は多くの批判を経て、初期の実験が失敗だったことを認め、コンピューターを使った洗練された実験へ移行している。社会科学や行動科学のある分野よりはよほど洗練されてきている。(3)理論的成熟。普遍的法則として全称命題で表現されるような理論なら、超心理学は持っていない。しかしそうした理論を持つのは物理学や化学くらいで、科学一般の描像とするには都合が悪い。また超心理学はそれが主張する現象が働くメカニズムについて、モデルを作ってはいない。しかしそれなら、神経科学だって意図から運動までのメカニズムを明確に持っているわけではない。(4)再現性については、多くの場合満たされていない。そこで超心理学は疑似科学というよりは、もっと科学に近くところ、「病的科学」のカテゴリーに入るかもしれないという。
代替医療は近代医学的には認められなくとも、なにがしか効果があって社会的に必要とされているように見える、ということで、科学と社会の関係から論じられる。科学知識社会学のような相対主義的科学観への、合理主義からの批判のポイント(p.180-185)。(1)事例分析の問題。科学知識社会学が提示する事例の分析は、その事例を十分に説明していないために、社会的要因が重要な要素として働いたように見えているだけであろう。(2)科学が過少決定などの問題を持つからといって、合理的な思考だけでは科学は説明できないということにはならない。単純な規則で表せない複雑な規則かもしれない。(3)科学における社会的要因は、すべて非合理的な要因であるわけではない。個々の論文について方法論的前提やそもそもの科学的続きを疑わないことによって、逆に科学は合理的に進められている。(4)科学も価値判断を行うが、その価値判断はどのように知識を得るべきかという認識論に属する問題であって、どのように生きるべきかといった社会的価値判断とは問題領域が異なる。
最後には、私たちの認知バイアスと統計的思考について。事前確率と予測確率という概念を持つベイズ主義からは、過少決定について事後確率による区別が可能で、ある程度客観的な評価ができる(p.240-242)ということで、ベイズ主義的な発想を持ち込むことが有用と論じる。ただ、ヒュームやポパーからすれば帰納的推論からは確たる結論は得られず、判断の正しさは得られない。とはいえ、私たちは帰納的推論なしでは生きられない。よって、ベイズ主義かどうかにかかわらず、帰納主義の考え方はどうしても必要である(p.255f)。観察の理論負荷性については、ベイズ主義の観点から言えることはあまりない。ただ理論負荷性と言っても、観察が思ったように変えられるわけではない。具体的に即して考えても、観察の理論負荷性は科学と疑似科学の間の本質的な問題ではない(p.256f)。
中身はしっかり科学哲学の話なので、一読して理解するのは難しい。ただ疑似科学を具体的に論じていることで、科学とは何かが見えやすくなっている良書。どこかで章ごとに読み直すか。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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