読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
本書は前半が自叙伝風に経緯を追うもの、後半が主要トピックについて今後の展望を述べるものとなっている。前半は著者のCERNでの研究からHTTPの開発、W3Cの立ち上げ、ブラウザ競争を経て、XMLやApacheの登場くらいまで。後半はプライバシー、協同編集、Semantic Webといったトピック。
Webの背景にあるのは何よりも、すべての事物は潜在的にはすべての事物と関係があるというビジョンだ(p.10)。著者が働いていたCERNは、各国から研究者がそれぞれの任期の期間で滞在する研究所だ。1980年代にすでにCERNではインターネットは使われていたが、FTPやeメール程度。それぞれの人のファイルはフォーマットもそれぞれ用いているツールに依存しているし、バラバラな場所にそれぞれ管理されていた。この環境で協同作業は難しい。そこで、HTMLという統一したフォーマットを、URIで指示されるユニークな場所に、HTTPという方式でアクセスするWebが生まれる。ある人がテキストや画面を準備したら、使用許諾の範囲内でどのような人もアクセス可能であること、そして他の人が見つけられるためにリンクを作ることが、Webの背景をなす基本的原理。その実現のために必要な要素が、URI、HTTP、HTMLだ(p.52-54)。このうち、URIこそWebにおけるもっとも根本的な発明である(p.56)。
1980年、著者がCERNに参加した際、Enquireというプログラムを余暇で書いていた。Enquireは個々のページとリンクを持ったローカルの文書管理システムだった。1984年に世界中にいるCERNの研究者をつなぐために、遠隔プロシージャ呼び出しRPCを作った。そののち、RPCとEnquireと組み合わせるヴィジョンを描く。1989年にCERN内のシステムとして企画するが、反応はなかった(p.20-35)。1990年後半には、テキスト内のリンクから他のテキストへ飛ぶためのHTTPをNeXTで開発し、CERN内に初のWebサーバを構築した。ここでWebがどういうものかを人に見せられるようになった(p.43f)。しかし原子核研究をメインとするCERNでは、相変わらず反応は薄かった。
Webの発展はCERN外に求められることになる。1991年、パロアルトのSLAC(Stanford Linear Accelerator Center)の人々はWebを気に入ってくれた。インターネット上のいくつかのニューズグループに公開したところ、alt.hypertextが大いに反応し転換点となった(p.63-66)。HTMLを操作するためのブラウザの開発が多くの人によって行われる。1992年には、NeXT以外のブラウザが現れ始める。X Winodws上のErwiseやViolaWWW、Midas、Mac用のSamba。ただブラウザを作る人たちは誰一人として、書き込みや編集の機能を組み込んでブラウザをエディタに発展させようとしなかった。ブラウザだけではWebによって誰もが共同作業ができることが実現されなかった。これは、共同作業が行われるためには人々の働き方が変わらなければならないということと、ブラウザに比べてエディタは作るのが難しいということがあった(p.77-80, 95f)。
ブラウザ開発は学生やエンジニアが技能を発揮するのに適しており、1993年にはLynx、そしてイリノイ大学でMosaicが開発された(p.92f)。このMosaicには著者はやきもきさせられる。MosaicをWebそのもののように語るNCSAの人々や、gopherのプロトコルの利用課金を求め始めたミネソタ大学の動きに、Webが分断されてしまう懸念を覚える。そこで、Web技術はパブリックドメインとした。さらに、MITのLaboratory for Computer Science所長だったマイケル・ダートゥーゾスとともに標準化団体WWW Consortium(W3C)の設立に乗り出す。ただ、Webを管理しようとするいかなる試みにも具体的に対抗していく。W3Cが作るのは勧告Recommendationであり、基準や規則ではない(p.94-103)。
このW3Cのスタンスが示唆的。Webが汎用的な知的資源であるために、管理の中心は悪い方向に働く。管理の中心があって新しいサーバを登録したり承認したりすると、それは即座にボトルネックとなり、Webの成長を抑制してしまう(p.128)。W3Cの人々は、Webは自由な言論の場として検閲に反対する。だがWebが広まっていくと、ポルノなど不適切な内容への対処が求められるようになった。W3Cは1996年3月、法制化が進むことへの対抗として、ページの格付け記述をWeb上で提供するための言語の定義、Platform for Internet Content Selection(PICS)を定めた(p.144f)。W3Cとしてはコンテンツを選別するのではなく、選別するための仕組みだけを提供した。
他にも、Webのインフラ階層を通じた垂直的な支配を行おうとする企業が心配の種だ。Webのインフラは伝送媒体、ハードウェア、ソフトウェア、コンテンツからなる。伝送媒体を持つISPが独自のコンテンツのみへの接続を許可したり、ソフトウェアである検索エンジンが特定のコンテンツだけを表示するなどでWebが分断され、信頼性が失われる可能性がある。Webは普遍的であるおかげで豊かに繁栄し、多様なものとなる(p.163-167)。こうしてWebは中央集権的にならないように成長してきたが、DNSのルート・サーバという集中的なアキレス腱が一つある(p.159f)。
プライバシーについては、Webの概念にはすべての情報が共有化されなければならないということは含まれていないし、そうあるべきでもない(p.178)。自分が発信した情報に関して、私自身が選択権を持つべきである。Cookieの問題は、何の承諾もなしにサーバに提供されていることにある。問題はCookie自体ではなくて、ユーザがCookieに対してもっている管理権である。自分の情報がどう収集され利用されているのかを知ることができなければ、ユーザは恐怖や猜疑心に基づいて選択するしかなく、Web上に社会を構築するための安定した基盤とならない(p.178-181)。
Webには2つの夢がある(p.194, 216-219)。(1)人々の協同作業のために、より強力なツールになること。誰もが即座に直感的にアクセスでき、ブラウスするだけなく、創造することができること。インタラクティブであるとは、選択できることだけでなく、創造できることが含まれる。あらゆる種類の文章がWeb上で検索できるだけでなく、簡単に作成できるようになるべきだ。W3Cでは、ブラウザ兼エディタAmayaが使われている(p.207f)。(2)コンピュータどうしでも協同作業ができること。情報がわざわざスクレイピングせずに機械にも理解可能な形であれば、定型的なやり取りは機械どうしで処理できる。Semantic Webは後者の夢をかなえる方法だ。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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