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八木雄二『神を哲学した中世』

哲学の理解にとって大事なことは、結果の真理ではなく、中途の鍛錬なのである。本書ではこれから、中世を代表する神学者たちの思索をいくつか紹介していくが、彼らの哲学的な議論の本質を見ようとすれば、たとえ結論は中途半端に過ぎないものに見えようとも、むしろその思索の過程にこそ、哲学としては大きな意味があることを念頭に置く必要がある。(p.33)
中世哲学について、やや詳しめの入門書。中世哲学が成立する時代背景から、アンセルムス、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、そしてあまり知られていないヨハニス・オリヴィという思想家を扱う。話題も神の存在論的証明、普遍論争、天使の堕落と自由意志など典型的な哲学的問題から、日常生活まで幅広い。ドゥンス・スコトゥスの章では、私生児への相続、勤勉による商業的金儲けの正当性、貸借(所有より使用を重視、単に時間を売るだけの手形決済や先物取引の不正性)といった話題もある(p.112-137)。また、中世の特異性について何度も触れ、近代以降に属する私たちの考え方との違いや、中世を源流とする西欧の捉え方と日本の捉え方の違いに注意を促している。


哲学を理解するのに、補助輪として働く概念対が3つあるという。「より大」と「より小」、「全体」と「部分」、「一」と「多」だ(p.30-33)。プラトン『パルメニデス』に発するこの概念対は、中世哲学の考え方の基本となる。例えば、アンセルムスの神の存在論的証明は、「より大」と「より小」という論法によっている。どんなものに対しても、それより大きなものが考えられる。新プラトン派的には、より小さなものはより大きなものに支えられて存在する。より小さなもの、この世界のものが実在する以上、それを支えるより大きなものである神は、実在しなければならない。もちろんこれは厳密な証明ではない。しかしキリスト教信仰の世界の内側、神の実在感覚を持つ人々には、真実として受け取れるものだった(p.66-68, 175)。中世哲学とは、こうした信仰内容、神の実在感覚を古代ギリシャ哲学によって説明する営みであった。


そうした信仰内容の核に含まれるのが、人間は神ともっとも似ているように作られているというものだ。そして、人間と神との類似点は理性であると考えられていた。そのため、理性による抽象認識は「目に見えない上位の世界」(イデア世界)と完全に結びついていると考えられた。抽象的なものは理性による勝手な構築物ではなく、具体的なものとは別の性質を持った実在とみなされた(p.45-49, 164-173)。普遍論争とはこの点を巡るものだった。普遍論争は、目に見える個別的な存在の他に、目に見えない普遍的な存在を認めるかどうかという論争であった。中世において目に見えないものの実在・非実在の問題は、神という目に見えないものの実在に関わる、キリスト教信仰の根幹に関わる問題だ(p.25, 152f, 158-161)。


そしてヨーロッパの思考からすると、人間存在は理性にこそある。人間が人間らしくあるのは、まさに理性を持つからだ。よって、理性こそその人の自我であり、主観的なものである。私たち日本の感覚からすると、理性は客観的なものだ。理性を用いれば誰もが同じ結論に達し、理性に主観性は無いように思われている。しかし西欧的には理性こそ主観的なものである。そして、主観はそれぞれ外からの刺激に対して情(受動)をもつ。ゆえに、感覚や身体ではなく理性レベルの欲求や情動がある。理性が喜びや怒りを持ったりするし、罪深く不正な理性もある。それら主観的な理性をもつ個々人が議論して、客観的真理を理解するのだとされる(p.155-157)。こうした理性の情はおそらく、プラトンがエロースを理性的探求を支える感情と捉えたところに始まり、アリストテレスでは美徳に伴う情が理性と結び付けられた(p.193-196)。


理知的なスコラ哲学に対して、オリヴィの話は神秘主義的発想に近く、本書をバランスする。スコラ哲学が舞台としたヨーロッパ中世における大学の学術研究は、日常世間の風を浴びた学びであった。多くの信仰指導者が修道院での神学研究を疑っていたのは、その研究が信仰に生きる実践を軽んじ、実践の障碍となってしまう可能性があったからだ。大学での学術研究にもそうした目が向けられる(p.237-243)。オリヴィは俗世の大学において教授を行わなかった。真実の理性はキリスト教信仰によってのみ得られ、信仰によって人間理性は初めて哲学する力を得るとされる(p.291)。信仰と理性のバランスを取ろうとした神学者で、中世神学の精神の広がりと複雑さに触れるには最適であり、オリヴィはもっとも中世らしい神学者(p.261)。オリヴィは宗教的真理を捉える特別の器官としての霊的な味覚を論じている。味覚や発語、つまり舌や口といった肉的イメージを喚起させる言葉で特有の神秘感覚を表している(p.254-260)。


中世末期に神学が衰退した根本的な理由は二つある。一つは、神があまりに崇高で無限の存在であること。もう一つは、神が人格的であり自由で偶然的であること。目に見える存在の上位に崇高な存在を認める実在想定が失われ、人間の経験に基づいて必然性や法則を探求する学問や科学が求められるようになった時、神学は学問としての信頼を失っていった。しかし神学は、世界の全体を完全に把握することがえできない人間が、鏡として求める客観的な完全な存在を扱っている。現代において本当に必要としないのかは問題となりえる(p.57f)。


トマスとスコトゥスにも中世の終わりが見える。トマスは摂理と偶然の議論で、神学の信仰内容と哲学的思考を整合的に考えようとする。神の摂理は絶対であり、人生の諸問題や天使の堕落といった聖書内の出来事は、偶然に見えるだけだとする。神は一つだが、それぞれの人への現れ方(主観的対象)は異なりうる。しかしこの考えは、信仰は人それぞれでよい、特に教会の説く信仰内容と違っても良いという考えを導く。中世の終わりが見える(p.92-103)。また主意主義のスコトゥスからすれば、理性はただ認識するだけであり、自由に振る舞うのは意志による。神は自然の必然性・法則性には拘束されず、自然法則を自由に利用できるとする。この考えは自然法則を自由意志により利用して社会を変えていくという近代思想を準備している(p.108f)。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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