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デイヴィッド・クォメン『生命の〈系統樹〉はからみあう』

カール・ウーズ(Carl Richard Woese, 1928-2012)という微生物学者の評伝を中心とした一冊。B5版くらいのサイズに400ページ弱詰まっており、なかなか分量は多い。だが細かな学問的内容というよりは、個々の学者の人となりや研究の経緯に多く振れているので、読みやすい。本書はウーズが口火を切った生物学における大変動、すなわち生命についての定説に対する種、個体、系統樹を巡る三つの異議を扱う(p.358f)。

ウーズでもっとも有名な業績は、分子系統学の発展。なかでもアーキアを細菌から区別し、細菌・アーキア・真核生物からなる生物の3ドメイン説を唱えたことだろう。ウーズはこの考えを基に、原始生物について理論的思索を深めた。革新的で挑発的な言動から多くの毀誉褒貶があるが、親しい人にはとても良好な印象を残している。


ウーズの評伝と並んでもう一つの本書のテーマは、系統樹について。特に、遺伝子の水平伝播が広範に存在するという事実が明らかになり、親から子孫へと垂直に伝播していくというダーウィン的な系統樹(生命の樹)への疑念が提起される過程。ちなみにウーズはこの点について微妙な態度を取っており、このために本書の記述は後半でやや明確さを欠いているように思われる。題名にもあるように、系統樹の話だけでも良かったのではないかと思う。


そもそも生命の樹という言葉はダーウィンに結び付けられているものの、この言葉は昔からある。しかもダーウィンが取り立てて印象的に用いたわけでもない。遡れば、聖書やアリストテレスにその初期バージョンが見いだせる。18世紀の博物学者シャルル・ボネまでは、アリストテレスの「自然の階段」(scala naturae)由来の、生物を直線的に並べる階段モデルがあった。しかしそのアプローチは18世紀末から19世紀初頭にかけて廃れていき、自然哲学者たちはより複雑な二次元的表象である樹を用いるようになった。その背景には大航海時代以降に爆発的に増大した、生物学的知識がある。ただこれらの樹形図は進化という観点を含んでいない。神の創造物を類似性に基づいて二次元配置しただけだった。進化という観点を含んだ最初の系統樹は、ラマルク『動物哲学』(1809)に現れる(p.22-32)。1866年には、エルンスト・ヘッケルがすべての生物を系統樹に描いている(p.171-175)。


しかしこれら系統樹は、外見や機能上の類似性を頼りにしていた。現代的な、生物種間でアミノ酸配列を比較して祖先関係を探るという、分子系統学のアイデアを示したのは、クリックの1958年の論文だ。ただ、実際に手掛けたのは1960年代のズッカーカンドルとボーリングである。彼らは分子時計という論争的なアイデアを出した(p.51-55)。


この延長線上にウーズが登場する。科学界のアウトサイダー、一匹狼であるウーズは、クリックとの手紙のやり取りの末に、リボソームRNA(16S rRNAと18S rRNA)を系統を探っていく分子的化石記録として使うアイデアに1969年、たどり着く。しかし、この時代のRNA分子の読解、シークエンシングは膨大な時間と労力を必要とした。非常に労力のかかる地道な作業によりウーズ(と研究室のメンバー)は、分子系統学を深めていく(p.59-65)。


1975年頃からウーズは研究対象を、当時の微生物学者たちが分類に頭を悩ませていたメタン生成菌に移す。この当時、生物は真核生物と原核生物に分けられてきた。ウーズはあるメタン生成菌のリボソームRNAの観察から、1976年にこのメタン生成菌が真核生物・原核生物のどちらでもない第三の生命形態であることを発見する。この第三形態は古細菌、のちにアーキアと名付けられる(p.76-78, 84-88, 93-97)。こうして系統樹の一つの集大成が、1980年のウーズやジョージ・フォックスらによる、(筆頭著者を巡る争いを経た)論文に得られる。ここでは生物はリボソームRNAの分析によって細菌、アーキア、真核生物の3つのドメインに整理され、一つのビッグ・ツリーとして描かれた。しかし実は著者たちは進化がこの樹のように進むとは考えていなかった(p.188-195)。


系統樹を乱す話については、まず細胞内共生が取り上げられる。1967年3月、非常勤講師のリン・マーギュリスは、真核細胞は細菌の細胞内共生によって生まれたという論文を発表し論争を呼んだ。そのアイデアはウィスコンシン大学院時代の先生、ハンス・リスが細胞質内にも遺伝子が存在することから導き出した(p.112-118)。細胞内共生説の起源はさらに遡ることができる。ロシアの無脊椎動物学者(どうやら児童性愛の疑いのある)コンスタンティン・メレシコフスキーがその一人。彼は1905年の論文で(アンドレアス・シンパーの論文からアイデアを得て)植物の葉緑体について共生説を唱えた。ミトコンドリアの細胞内共生は、1920年代にイヴァン・ワーリンが唱えた。ただしこれらの細胞内共生説は1960年代までにはほぼ忘れ去られていた(p.122-125, 128-131)。


細胞内共生を確かめたのはウーズの手法だった。1973年、ウーズの実験助手だったリンダ・ボネンを採用したフォード・ドゥーリトルは、マーギュリスの細胞内共生説を検証し、紅藻の細胞質のリボソームRNAとその葉緑体のリボソームRNAがまったく異なることを指摘した(p.137-140)。ではミトコンドリアはどうか。こちらはウーズたちの研究だった。ミトコンドリアに近い細菌は1985年、ウーズたちの研究で突き止められた。彼らは、ミトコンドリアの始祖は紅色細菌(プロテオバクテリア)の下位分類アルファに属する細菌たちだと発表した(p.150-152)。


系統樹を乱すもう一つのテーマ、遺伝子の水平伝播の可能性が最初に示されたのは、1928年のフレッド・グリフィスの肺炎連鎖球菌の研究。そこでは異なる型の細菌の間で、一方の残骸(実はDNA)で他方の型の転換が起こること(形質転換)が示唆された。だが、その認識が爆発的に広がったのは1990年代(p.206-209)。遺伝子の水平伝播のメカニズムは形質転換、接合(細菌の直接接触による遺伝子の転移)、形質導入(感染性遺伝)の3つが考えられている。接合と形質導入の発見は1952年、当時21歳の研究者ジョシュア・レーダーバーグの功績だ(p.217-221)。そのメカニズムの追究に、日本人が顔を出す。1960年前後、渡邊力(とその共同研究者スチュアート・レヴィー)は、細菌が多剤耐性を急速に獲得する過程を探った。コードされた形質は染色体とは独立に複製し、細胞内を自由に動き回る遺伝物質であるエピソーム(のちにプラスミドと呼ばれる)によって、接合や形質導入により種を超えて伝播することが明らかにされた(p.222-225)。


こうして1980年代から、遺伝子の水平伝播やそれを受けた非ダーウイン的な網状進化のアイデアの証拠は積み重なり、広まり始めた。ただ、原理的にありえないと拒否する生物学者も多かった。細菌以外でも水平伝播が確認されていった。ワムシという小さな動物は、細菌、藻、植物以来の外来遺伝子を持っている。ワムシは乾燥耐性があり、乾燥時に断片化したDNAが復元するときに異質なDNAを取り込む。また、ショウジョウバエの核ゲノムには、ボルバキア属の細菌のDNAがほぼ丸ごと取り込まれている。さらにヒト細胞の癌化の一つの原因は、細菌のDNA断片がヒト体細胞のゲノムに取り込まれる水平伝播だと考えられる(p.242-249)。


1999年6月26日号の『サイエンス』におけるドゥーリトルのレビューは、遺伝子の水平伝播を取り上げ、生命の樹としてダーウィン的な、枝分かれしたら合流しない樹ではなくて、網状の樹を描いた。この論文は画期的で、突如として遺伝子の水平伝播が主流派の考えとなった。また、ドゥーリトルが16S rRNAによって生命の樹を描こうとするウーズと決定的に仲違いすることにもなった(p.267-270)。ウーズは、30億年前から10億年前の細胞生命体の起源(リボソームが形成される以前のRNAワールドにおける原始生命)においては水平伝播は決定的だが、それ以降は系統樹が成立すると主張した(p.281-284, 310-312)。


この辺りはウーズの単に思弁的な主張を描いているように見え、水平伝播が広範な生物で見られることが分かってきたなかでは、すでに旧世代の研究者のように見える。実際、2008年のセドリック・フェショットによる転移因子(トランスポゾン)の研究(それは1940年代のバーバラ・マクリントックによる先駆的な研究に遡る)では、大陸をまたぐ異なる種で転移因子が認められることを明らかにした(p.316-322)。ヒトゲノムには、レトロウイルス由来の部分がある。ヒトゲノムに組み込まれたレトロウイルスの一部(ヒト内因性レトロウイルスHERV)はヒトゲノムの8%を占め、実際にヒトの遺伝子として機能している。たとえばsyncytin遺伝子は胎盤形成と胎児に対する母体の免疫抑制に不可欠の役割を果たす(p.329-336)。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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