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斎藤幸平『人新世の「資本論」』

だから、グローバルな公正さというのは、抽象的で、偽善的な人道主義ではない。他者を切り捨てる前に、他者の立場に立ち、明日は我が身だということを想像してほしい。最終的に自分自身が生き延びるためにも、より公正で、持続可能な社会を志向する必要があるのだ。それが、最終的には人類全体の生存確率も高めることになる。(p.112)
硬派な思想書にしてはベストセラーの一冊。気候変動に代表される人類全体の危機に直面する現代(人新世)を乗り切るためには、現在の資本主義社会を修正するには足りない。例えば新自由主義は行き過ぎだとして、より社会民主主義的な方向へ資本主義を修正するだけでは足りない。問題を引き起こしているのは資本主義そのものなのだから、まずもって資本主義を排して新しい社会システムへ移行しなければならない(p.353)。その新しい社会システムとは、共産主義だ。ただし20世紀のソ連や中国において見られた類の共産主義ではない。新しい社会システムとしての共産主義とは、マルクスが『資本論』の続巻を書くために残した膨大な草稿、メモ書きのなかに読み取れる、別種の共産主義だ。これを著者は脱成長コミュニズムと呼ぶ。


前半の資本主義社会システムの問題を抽出するところ、そしてマルクスの遺稿の読解のあたりはとても面白かった。だがその先の、新たな共産主義を展開していくところが現実感が無く、興味を失ってしばらく読書が中断した。なにより、現在の資本主義社会についての見方が特異なように思われる。資本主義を敵に回してその全廃を訴えるのだから当然でもあるが、あまりに資本主義社会を悪し様に描いていないだろうか。資本主義は格差を生み出しているというが、本書では格差と貧困の区別も危うい。資本主義、特に近年の金融資本主義は格差を生み出しているが、資本主義が圧倒的に貧困を解消してきたことは確かである。


間違っているとか以前に、そもそもこの著者は同じ事象を見ているのだろうか、同じ社会に生きているのだろうかと疑うようなものは、新型コロナウィルスに関する記述だ。引用すれば、
先進国において増え続ける需要に応えるために、資本は自然の深くまで入り込み、森林を破壊し、大規模農場経営を行う。自然の奥深くまで入っていけば、未知のウィルスとの接触機会が増えるだけではない。自然の複雑な生態系と異なり、人の手で切り拓かれた空間、とりわけ現代のモノカルチャーが占める空間は、ウィルスを抑え込むことができない。そして、ウイルスは変異していき、グローバル化した人と物の流れに乗って、瞬間的に世界中に広がっていく。(p.279)
また、SARSやMERSといった感染症の広がりが、遠くない過去にあったにもかかわらず、先進国の巨大製薬会社の多くが精神安定剤やEDの治療薬といった儲かる薬の開発に特化し、抗生物質や抗ウイルス薬の研究開発から撤退していたことも、事態を深刻化させた。その代償として、先進国の大都市は、レジリエンスを失ってしまったのだ。(p.284)
人類と感染症のかかわりは資本主義以前からある。資本主義に特有の話題ではない。むしろ、資本主義的に利益を追求する企業によって、マスクや消毒液といった衛生商品は広く世界中に普及し、感染症による被害を現状の程度に抑え込めている。天然痘やペストといった過去のパンデミックと比較すれば明白だ。また、反資本主義の言説ではいつも槍玉に挙がる製薬企業だが、著者の記述とは違って、製薬会社はmRNAワクチン技術という成熟度が低く利益を生まない技術に投資し続けた。だからこそ現代世界は、SARS-Cov-2の塩基配列が解析された数週間後にはmRNAワクチンが試作され、一年も経たずに世界中の多くの人がワクチンを接種するという、圧倒的なレジリエンスを発揮したのだった。この驚異的なペースのどこが深刻な事態なのだろうか。著者はいったいどの世界に生きているのだろうか。


とはいえ特に前半の資本主義批判はきわめて傾聴に値するものだ。現在の先進国のライフスタイルは、先進国以外の「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、しかもその負荷を不可視にしてしまう外部化社会である。このようなライフスタイルは、社会学者ウルリッヒ・ブラントとマルクス・ヴィッセンによって「帝国的生活様式」と形容される(p.27-35)。この帝国的生活様式をもたらしているのが資本主義であり、その収奪と負荷の外部化には3パターンがある。(1)技術的転嫁。環境危機を技術発展によって乗り越えようとしても、それは新たな資源を消費して新たな環境問題を起こす。(2)空間的転嫁。世界システムの中核部で不足した資源は、周辺部を暴力的に収奪することで補われる。(3)時間的転嫁。環境危機が起こる何十年にも及ぶタイムラグを利用して、すでに投下した資本から今のうちに多くの収益を上げようとする(p.42-49)。


しかし資本主義社会が世界中に拡大していけば、負荷を転嫁できるような外部、周辺部は無くなってしまう。それが現代社会の直面している問題だ。ウォーラーステインが述べたように、外部が消尽して外部化が不可能になった今こそが歴史の分かれ目である。この分かれ目は、資本主義が崩壊して混沌とした「野蛮」(ローザ・ルクセンブルク)となるか、別の安定した社会システムに置き換わるかである(p.55f)。


資本主義を新たな社会システムに置き換えるのではなく、あくまで修正して維持していこうという議論として、気候ケインズ主義と旧世代の、著者とは異なる脱成長論が批判される。気候ケインズ主義は、環境対応技術に積極的に財政支出したりや投資することで、経済成長と環境対策を両立させようとする。しかしまずデータとして、先進国での二酸化炭素排出量の削減は、外部性として新興国の排出量の増大に繋がっており、世界全体としての削減につながっていない。これを「オランダの誤謬」(オランダ自体はクリーンでグリーンでも、その分の負荷が後進国にかかっている)と呼ぶ。また、資本主義にはそもそも生産性の罠がある。労働生産性が上がって経済規模が同じなら、失業者が出てしまう。そのため、資本主義では経済規模を拡大せざるを得ない。さらに、効率化で化石燃料の消費量が単位当たりで減っても、効率化で製品はより安価になるので、かえって消費が増えて化石燃料の消費量全体の増大につながる(ジェヴォンズのパラドクス)。再生可能エネルギーが安価になって化石燃料の価格競争力がなくなれば、シェールオイルなど従来は採算が取れなかったものも製造され、ますます排出量は増える(p.68-80)。環境対応技術への投資はたしかに不可欠だ。しかし経済成長を維持しようとする限り、環境負荷の削減には至らない。気候ケインズ主義が目指すべきはむしろ、経済のスケールダウンとスロータウンだ(p.95)。


従来の旧世代脱成長論も、資本主義自体の問題に立ち入らない点で気候ケインズ主義に似る。しかし資本主義そのものが外部化と転嫁に依拠しているのだから、グローバル規模での資源の公正な配分は望むべくもない。その結果として人類全体の生存確率が下がっている(p.111, 116f)。こうした脱成長論は日本にも多く見られる。資本主義的市場経済を維持したまま、社会民主主義的な福祉国家政策によって、行き過ぎた資本主義を修正しようと考えるものだ。しかし利潤追求も市場拡大も、外部化も転嫁も、労働者と自然からの収奪も資本主義の本質である。だからスティグリッツが言うような、経済成長なき資本主義の構想は、空想主義でしかない。資本主義自体の批判が必要だとする新しい脱成長論が求められる(p.127-133)。


つまるところ、気候変動のように社会の基盤が大きく揺らぐ危機には、政府が市場に介入する程度の対策では不十分なのである。気候ケインズ主義のように政府が大規模な財政出動で重要産業に資本を注入するのでは不十分だし、北欧型福祉国家に持続可能性を加えた脱成長資本主義は空想である。こうした中途半端な解決策は、長期的にはもはや機能しない。選択肢は野蛮状態に戻るか、さもなければ脱成長コミュニズムという新しい社会システムへ移行するかである(p.286f)。


そして脱成長コミュニズムという新しい共産主義の着想は、晩年のマルクスから来る。1868年以降の自然科学研究と近代以前の共同体の研究からマルクスが到達した最晩年のコミュニズムは、持続可能で平等な循環型社会であり、すなわち脱成長コミュニズムである。ただしこれは単なるノスタルジーではなく、西欧においては、あくまで近代社会の成果を大切にしながら「原古的な類型」である定常型社会をモデルとして、コミュニズムへと転換することだ。このコミュニズムは若き日のマルクスの生産性至上主義とは真逆の立場である(p.191-196)。もともと、マルクスは生産手段(労働力、知識、自然環境、そして地球そのもの)を資本家が収奪するのではなく、生産者たちがコモンズ(共有財)として共同で管理する社会をコミュニズムとして描いていた。それは部分的に福祉国家として制度化されてきたとも言える(p.141-145)。


人々が生きる上で必要とするもの(電力、食料、果ては生産手段そのもの)は、共有財として、<コモン>として管理されるべきだ。それがコミュニズムである。しかし資本主義はこうした共有財を私有財産として私財の蓄積を可能にすることによって、資源の効率的な活用を導き、全体としての経済成長を駆動してきたのだった。よって共有財として管理すれば、効率は落ちるだろう。そこは脱成長として認めようと、脱成長コミュニズムは捉える。だがしかし、共有財とならないものはどうするのだろう。本書はこの点にはあまり何も述べていないように思われる。従来通り私財とするのでは、資本主義が温存されてしまうだろう。脱成長コミュニズムは資本主義そのものの撤廃を目指しているのだから、資本主義とは共存できない。もしくはすべてが共有財なのだろうか。


脱成長コミュニズムに移行するためには、5つの構想があるとされる(p.299-316)。(1)使用価値経済への転換。交換市場における商品価値ではなくて、使用価値、すなわち有用性や危機への適応に必要なものを優先する。GDPの増大ではなく人々の基本的ニーズを満たすことを重視する。(2)労働時間の短縮。社会の再生産にとって本当に必要な生産に労働力を配分する。二酸化炭素排出量を削減するために生産が減速することを受け入れるしかなく、そうして落ちた生産力は使用価値を生まない仕事の削減に割り当てる。(3)画一的な分業の廃止。労働者の自律性を認めない画一的な作業としての仕事を廃止し、労働をより創造的な自己実現の活動に変えていく。(4)生産過程の民主化。生産手段は共有財として民主的に管理する。生産する際にどのような技術を開発し、どう使うのかを民主的な話し合いによって決める。(5)労働集約型のエッセンシャル・ワークを正当に評価する。これは使用価値を重視することでもある。


脱成長コミュニズムに向けた、様々な財を共有財として管理する試みは、すでに各所で始まっている。例えば、電力は現代では誰もが必要とするものだから、共有財として管理されるべきだ。市場に任せていては、貨幣を持たない者には電力の利用権が与えられない。だが共有財として管理するとは、国有化することではない。国有化されると原子力発電のような閉鎖的技術が導入されてしまう。そうではなく、市民が参加しやすく持続可能なエネルギーを市民が管理する。いわば「<市民>営化」だ。太陽光や風力は無限で無償な開放的技術である(p.258-260)。しかし太陽光や風力は無限かもしれないが、必要としているところで生産できるとは限らないだろう。山の中の雪国は、冬の間は電気無しで過ごせと言うのか。太陽光自体は無償でも、必要な規模の電力を得るためには太陽光発電パネルは山の斜面のようなところにも設置せざるを得ず、それが森林伐採や土壌崩壊を招いている。


また、閉鎖的・開放的技術と言われるのは、マルクス主義者アンドレ・ゴルツの区別だ。開放的技術は他者との交流を促進し、閉鎖的技術は財やサービスの供給を独占する技術であると言う。原子力発電は閉鎖的技術の代表格とされる。セキュリティの観点から、一般的な人々から隔離されて独占的に管理されなければならないからだ。原子力発電は民主的に管理できない技術である(p.226f)。しかし、専門家の関与が必要という点では太陽光であれ風力であれ同じだ。太陽光や風力が、本当に市民だけで管理可能だろうか。あるいは、小規模原子力発電は当然、こうした見方からは排除されてしまう。自分が嫌いな技術にラベルを振っているだけではないか。専門家なしには現代ではどんな技術も<市民>営化できない。そして専門家のリソースは限られている。


人間は生きるために食料を必要とするから、食料も共有財でなければならない。資本主義的な農業ビジネスから食料主権を取り戻さなければならない。その例として、中南米の農業団体を中心とする国際農民組織Via Campesinaや、南アフリカの市民による南アフリカ食料主権運動が挙げられる。これらは、伝統的農業を復興させ、遺伝子組み換え作物や化学肥料からの脱却を目指している(p.338-344)。


共有財としての生産手段については、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同管理する「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」の試みが挙げられる。ワーカーズ・コープは、衰退する福祉国家に対するオルタナティブとして再評価が進んでいる。労働の現場に民主主義を持ち込んで競争を抑制し、開発や教育についての意思決定を自分たちで行う。もちろん、ワーカーズ・コープは資本主義市場での競争に負ける。それゆえ、最終的には資本主義システム全体を変えなければならない(p.261-265)。


こうして、帝国的生活様式ではなく、外部を収奪する資本主義社会システム、帝国的生産様式の改革が必要だ。旧来の脱成長論のように、消費の場面での「自発的抑制」を求めるのは不十分である。エシカル消費では不十分だということだろう。労働と生産の改革こそが必要なのである。しかもそれを国家のトップダウンの解決策で行おうとする政治主義は、民主主義や人権の軽視に至ってしまう。社会運動からの強力な支援が必要である(p.290-297)。政治学者エリカ・チェノウェスの研究によれば、既存の様々な社会革命の成否は、非暴力で立ち上がる人が3.5%を超えるかどうかに拠っているという(p.362)。全員でなくとも、3.5%というわずかな人々で社会は変えることができる。


しかしこれは国家によるファシズムでないとしても、究極の同調圧力だろう。脱成長コミュニズムは、抑制された範囲で資本主義的生活様式・生産様式を続けたいという人の自由を認めず、資本主義社会システムの全面的転回を迫るのだから。国家ファシズムは民衆の社会運動によって熱狂的に支持されたことを忘れてはならない。


また全般的に気になるのは、共有財の管理を市民に任せることが全面的に可能かどうかである。管理の仕方を民主的に決定するとは言え、人々の技術への理解は共通レベルにはならないのでまず無理だろう。現代の技術は複雑すぎて、全員には認知負荷が高すぎる。例えば市民の管理団体が似非科学に嵌ったら、救えるのは誰か。結局は、一部の判断できる人への委譲、中央管理、そして専制になるだろう。一部の熱心な人々がいて、多少管理が不十分でもリソースが豊富で問題にならないような場所では、市民による共同管理は可能だ。しかしそれはスケールするだろうか。一部の市民(エリート市民と呼ぶのであれ、プロ市民と呼ぶのであれ)による寡頭制的管理にならざるを得ないだろう。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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