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山口周『ビジネスの未来』

資本主義社会の次に向けた提言と行動の書。最近、類書にもみるように脱成長をうたい、人間性に根差した衝動で人々が活動する社会を志向する。人を動かすような調子で書かれている。基本的な考え方に同意できる人は、謳われる未来像に共感して読んでいけるだろう。どうも同意できない人は、現状の表かと指摘に引っかかるし、未来像は美辞麗句が連ねられた誇大広告に見えよう。

本書は見田宗介の議論の枠組みに基づいている(p.20)。物質的豊かさから精神的豊かさへという、30年前からよく聞かれる議論の現代版だろう。本書のポイントは3つある。経済成長が終焉しつつあることを受容すること。変化率でなく、これまで成し遂げてきたことの量で考えること。意味的価値を巡る新しいゲームが始まりつつあること(p.13-20)。

まず、昨今の世界において経済成長率が頭打ちになっていることを、危機ではなく喜ぶべきこととする。私たちは経済成長とテクノロジーによって物質的社会基盤を整備し、飢餓や貧困から脱却してきた。そしてこれらは、達成されつつある。低成長はその証である。よって低成長は喜ばれるべき事態だ(p.12f)。こうした社会基盤の整備は、文明化の過程だった。 私たちは紀元前5世紀に始まった文明化が終焉する時代にいる。ここから幸福な今が循環する社会へ向かうという、2500年ぶりの大変革期にいる(p.73-77)。

経済成長しなくてもよいということの論拠の一つは、生活満足度との関連に求められている。日本が経済成長を遂げ、停滞し始めた1990年代から生活満足度は上昇している。経済成長で満足度が伸びているわけではない(p.29-34)。ちなみに私にはこれは、時間差で効いてくるのだと思う。ここからの低成長が満足度にどう反映するかはよく分からない。また、経済成長としてGDP成長率が議論されるが、GDPは実態がなく、為政者によって操作できる指標だ。そんなものに頼って経済成長を考えているのはよくないと言う。GDPはもともと、どれだけの物を生産できるのかを表す指標として開発された。物が満ち足りた現代の社会を測る指標としては適切でない。それなのにGDP延び率を国のランク付けに用いている。どんな社会を目指したいかがあり、その理想とのキャップを測る指標はどうあるべきかを考えるべきだ、と(p.46-53)。ただし、成長が飽和しているという本書の議論そのものも、一貫してGDP成長率に依拠してなされている。

経済が低成長に入る社会を悲観的にみるのではなく、見田宗介にならって「幸せな高原社会」と呼んでいる。ビジネスは無限の成長を前提としているので、需要が減っていく幸せな高原社会とは基本的に相性が悪い(p.38)。高原社会に到達するということは、従来のビジネスは役割を終えるということでもある。問題は経済成長ではなく、経済以外に何を成長させればいいか分からないという社会構想力の貧困、心の貧しさである(p.85f)。

経済成長はイノベーションによってなされるとよく議論される。だがインターネットを始めとする現代のテクノロジーイノベーションは、GDP成長率を拡大させていない。こうしたイノベーションは既存の市場の中で富を移転しているだけて、社会問題を解決するどころか格差を拡大させている。(p.99-101)。例えば facebookは広告から収益を得ているが、広告業界全体の市場は拡大していないし、facebookを使わない場合でも生活満足度は減らない(p.105f)。

格差のような社会問題は、経済合理性曲線の外側にある問題である。これらの問題は市場原理、人々の金銭的報酬によっては解決できない(p.108-120)。そもそも経済そのものでさえ合理性によってではなく、衝動、ケインズの言うアニマルスピリッツにより駆動するものだ(p.122-124)。この辺りは経済合理性を狭く捉えており、藁人形と戦っている感がある。経済的合理性は金銭的報酬に限定されるものではないし、市場原理といってもすべてが規制なく自由に行われるわけではない。アニマルスピリッツはたしかに経済を駆動する要因となるが、それだけではスケールしない。必要なのは、アニマルスピリッツを共有しない人でも経済を駆動できるような適切なメカニズムデザインだろう。炭素税などよい例だと思う。

ということで、文明のために自然を犠牲にする文明主義、未来のために現在を犠牲にする未来主義、成長のために人間性を犠牲にする成長主義からの脱却が必要だ(p.95)。文明と技術によって牽引される経済から、文化とヒューマニティによって牽引される経済への転換(p.174)がなされる。そうして到達する高原社会には、残された活動は二つある。(1)社会的課題の解決、ソーシャルイノベーションの実現。(2)文化的価値の創出、社会を生きるに値するものにする物事を生み出すこと(p.190)。

後半では、この「生きるに値するもの」に社会を変えていくということがキーワードになる。それは、何か別の目的のために行われるものではなく、それ自体が愉悦的価値を持っていてそれ自体を享楽されるものだ。生活に必要なものの消費と、他人に優越するための消費(衒示的消費)という二項対立をゾンバルト、ヴェブレン、ケインズは説いている。一方バタイユの至高性という概念からは、人間性そのものに根ざした衝動による消費が考えられる。これは自分のためにではなく、他者に開かれていて、人生を生きるに値するものとする消費のこと。大聖堂の建設が例に挙げられる。高原社会においてメインになってくるのはこの衝動に基づく消費だ。前2者が将来のための手段的instrumentalな消費だが、後者はその場で効用が消費され消尽するconsummatoryなものである、という区別をタルコット・パーソンズから引く(p.146-166)。だがしかし、他人より優位に立ちたいというのも、人間性そのものに根差していないだろうか。それは人間というよりも広く、特に有性生物一般にみられる特徴だろう。何の役に立つでもなく、ただ他人に優位性を示すだけの消費だって、consummatoryではにだろうか。人間性とはなにか、人間とはどうあるべき、何が生きるに値する生なのかを、著者の好みであらかじめ前提していないだろうか。

高原社会は待っていればひとりでに到達するのではない。世界が大きく変わるときは目立つリーダーによる大きなリーダーシップというより、市井の個々人の小さなリーダーシップであることが多い。黒人解放運動の始まりなど。誰かリーダーが社会を変えてくれると思わないこと(p.179f)。たとえばビジネスに携わっていてもその捉え方を変えうることができる。ビジネスをアートプロジェクトとして捉え、社会を生きるに値するものに変えるもの、社会変革として捉えることができる。「社会彫刻」(ヨーゼフ・ボイス)としてのビジネス(p.185-189)。

高原社会へ変化させるための行動を起こす、3つのイニシアティブが挙げられる。やりたいことを見つけて取り組む。応援したい物事にお金を使う。ユニバーサルベーシックインカムの導入(p.177)。特に、consummatoryな消費を増やすには、確かにベーシックインカムが必要だろう。その財源やインフラの維持はどうするのだろう。


応援した物事へのお金の使い方は、売り手と買い手の関係ではなくではなく、アーティストとパトロンの関係だ。買い手は金銭をもたらすだけでなく、売り手を支えて次なる活動を駆動するリソースとなる(p.235-242)。バリューチェーンのように上流から下流の消費者に流れて終わりではなく、売り手にリソースがフィードバックされるバリューサイクルへ。このサイクルを、近いところで、小さく、美しく(というかethicalな消費として)回す(p.249-252)。


より具体的に踏み込んだ提言は補論にあって、ここが一番面白いし読みごたえがある。補論では四つの提言がある(p.275-304)。(1)社会構想会議の創設。小さなアメリカ(新自由主義)を目指すのではなく、大きな北欧型社会民主主義国家を目指す(p.134)。(2)ソーシャルバランストスコアカードの導入(本書はバランススコアカードと書いている)。GDPのみで社会の評価をせず、トレードオフのある複数の観点での評価を行うこと。この評価はフローとストックの両面を含んでいるべきであり、GDP、生活満足度、貧困率、失業率などの組み合わせとなる。(3)租税率の見直し。増税で国民負担率が高まれば、寄付文化の醸成、金銭的報酬がメインの仕事の減少、政治的コミットメントの増大が見込める。本当に人々はそんなに賢いだろうか。。。(4)教育システムの再設計。教育システムそのものというより、その出口としての就職市場の改革が必要。ここでは新卒一括採用についての著者の罵倒が続いている。


研究者ではないので、細かなところはあまり突っ込む価値がない。織田信長は領土を巡るゼロサムゲームを茶器に置き換えることで終わらせたという議論が傍証なくある(p.197f)。信長は家臣団に獲得した領土の割譲を行っている。茶器は人間性の愉悦ではなく、家臣にとってはステータスシンボルだ。家臣に与えられたのはそれが信長から認められた証だからだ。茶器を評価するマーケットが立ち上がるのは信長より後の時代である。また、instrumentalな思考が悲劇をもたらす例として、水俣病のリスクの指摘に対して池田勇人が経済を優先させて無視したような話(p.225f)は後知恵に過ぎない。当時の科学者たちも水俣病については意見は一致していない。もちろん、イタイイタイ病への対応などその後の公害問題はそこから学んだ側面がある。


さて、私たちの社会は生活の基本条件を満たして高原に到達したというより、環境資源の制約によってこれ以上が望めなくなってきたことだろう。おそらく数百年後の人々から見れば、私たちはいかに条件が整っていない不便な生活をしていると見えるだろう。生存の基本条件が整備されたというのは近視眼的な見方に思える。社会の発展のこうした段階は、歴史的に何度か見られている。古代ギリシャ、ローマの最盛期、江戸の文化文政時代などが典型。


また、高原社会はおそらく多くの人にはいま以上に辛いだろう。自分がやりたいことを、ただし著者の言う人間性に根差しした衝動に基づいた、生きるに値する社会とする活動を行うといっても、多くの人は何をやればいいか分からない。自分がやりたいことは人生を浪費し、偶然によってしか見いだせない(p.216f)。試行錯誤ののち、それでも見つかるかは運でしかない。ベーシックインカムが整備されれば、ほとんどの人の人生は徒労に終わるということだ。役に立つことよりも、意味があるもののほうが格差が大きい。高原社会では生み出す価値の格差が大きい。これは高原社会の課題である(p.256- 260)。

もしかしてやりたいことが無く、日々の生活に耽溺してinstrumentalな消費を送る層と、やりたいことを実現しconsummatoryな消費を送る層に分化するだろうか。ちょうど古代ギリシャの奴隷と市民のように。というよりも、いま現在、9割近くの人が幸福感受性を摩耗させており、つまらないと言いながら貴重な人生を浪費している(p.211-215)ということは、社会が構造的に要請することかもしれない。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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