読んだ本をひたすら列挙。読書のペース配分とその後の読み直しのためのメモ。学而不思則罔、思而不学則殆。
他方で、国際連盟が、満州事変、エチオピア戦争、ソ連・フィンランド戦争と大国が行った戦争に対して、「正邪」の判断を下したことは忘れてはならないであろう。 戦争を防ぐことはできなかったが、侵略戦争を認めることなく、加盟国全体が日本を非難し、イタリアに制裁を科し、ソ連を除名したのである。このようにみれば、国際連盟は原則は貫いたがその原則の実行は困難だったと評価することもできる。(p.266)
国際連盟の成立から、国際連合への移行までを扱った歴史書。歴史的事項をしっかり具体的に押さえながら、国際連盟がどのような活動をしていったのかが書かれる。内部の交渉の様子も多く触れられており、国際連盟の意思決定がどのようになされていたのかが知られる。
私は国際連盟の創設過程に興味を持っていたので、創設に向けた動きが分かったのは良かった。国家間の国際組織については、まず17世紀の30年戦争期のエメリック・クルーゼに始まり、18世紀にベンサム、カントなどの思想家が議論している。19世紀にヨーロッパやアメリカで一部の平和運動家が提議し始めた。しかし特にアメリカでは、南北戦争という国内情勢の変動もあり、平和運動としての世界会議への関心はやがて薄れていった。19世紀後半になると、国際連盟の成立に向けて大きな足掛かりとなる二つの動きが起こる。すなわち国際仲裁裁判制度と国際法が発展していく。平和を達成する手段としてまず仲裁裁判に期待が寄せられていった。このことは、国際問題を考える上で司法的・法律的な見方が優勢であったことを意味する。この考えの根底には、法制度への信頼や、裁判の結果に応じる合理的理性的な主体といった見方があった(p.5-9)。後者がそうでもないことは、後に日本やドイツの国際連盟脱退に明らかになることになる。
国際連盟に先立つ国家間の組織として、1899年と1907年の二つのハーグ平和会議は、ヨーロッパ諸国だけでなくアジアや南アメリカ諸国を含んだことや、常設仲裁裁判所の事務局設立に至ったことなどで画期的なことだった。しかし19世紀までの国際システムは主に機能していて、国際連盟のような組織体の必要性は感じられていなかった。各国はまず近代国家形成に向けた国家としての統一の過程であった。また、ヨーロッパは海外植民地の獲得に向け、帝国主義的な拡張の時期であった。このときには、国際システムには根本的な疑念はまだ提出されていなかった。したがってハーグ会議を支持する人々は、裁判の結果を強制する武力制裁は国際的には不要と考えた(p.11-14, 22f)。国際システムに対して根本的な疑念が持ち上がるのは、第一次世界大戦に直面してからである。
各国政府が国際組織設立を政策として取り上げる前、大戦中からすでに米英の民間団体を中心に構想が練られていた。特にイギリスのプライス卿を中心とした国際連盟ソサエティは政治家の支持を得て、後に重要な草案につながった。イギリス国内ではアメリカは中立国として、利己的でなく戦後構想を作れるとしてアメリカがリーダーシップを取ることへの合意ができつつあった(p.28-30)。一方アメリカでウィルソン自身は、国際組織の具体的内容は各国政府と討議して決めることとして、十四か条の平和原則の時点では構想を示さなかった。平和強制連盟などアメリカ国内のグループはこの態度に失望した。ウィルソンがハウスと作った草案は、加盟国相互の領土保全を約束し、制裁力もあるというものだった。ハーグ方式ではないことを意味する(p.32f)。
第一次世界大戦を受けた国際システムの立て直しに、民間団体を中心に機運が上がっていた構想が採用されたということだろう。第一次世界大戦のような大きな損失を負っていなかった日本では、国際組織設立に向けた議論は高まっていなかった。むしろ第一次世界大戦は日本に損失ではなく、経済的利益をもたらした。近衛文麿は、大国の論理で小国を支配するものと警戒した(p.55-58)。この創設の過程は、国際連合と比較するとよい。国際連合は国際連盟と違って、1943年から、米英ソを中心に前もって創設の意見交換が行われた(p.259-261)。
すなわち、「国際連盟は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で初めて考案された組織ではない。第一次世界大戦の勃発後、欧米の知識人や民間団体が戦争の防止を求めて、さまざまな構想を提示し、その理念を広める運動を展開した。 国際連盟の設立は、当時の平和運動の到達点でもあったのである。そのような運動を基盤に、アメリカ大統領ウィルソンが政治家としてこの政策を推進した。この間には戦争中から、民間団体や英米の政治家を中心として、意見の交換や議論が交わされていた。そして、パリ講和会議の連盟規約検討委員会が始まると、一九名の一四ヵ国代表が議論を重ね、最終的に連盟規約が起草されたのである。」(p.79)
国際連盟が考えていた紛争の予防と解決には3つの手段があった。軍縮、仲裁裁判や連盟理事会による調査・勧告・制裁、国際法の整備だ(p.116f)。1920年代には上部シレジア問題を典型的として、国際連盟はヨーロッパ内を中心として多くの紛争に関与している。1926年のドイツの国際連盟加盟から、1931年の満州事変勃発までの期間は、国際連盟が最も安定し発展した時期である(p.141f)。
民間で始まった国際連盟構想は、設立後もその理念や活動を広める民間団体の運動を呼んだ(p.147f)。国際連盟側もこれに呼応する形で、一般社会への啓蒙活動に力を入れている。国際連盟の情報部は、当初から一般国民への宣伝活動を重視している(p.139-141)。この宣伝活動に大いに寄与したのが、初代事務次長と情報部長を兼ねた、新渡戸稲造だ。世界中で国際連盟の意義を説いた新渡戸は、多大な努力をして大きな成果を挙げている(p.170-174)。本書は国際連盟事務局で活躍した日本人を一人ずつ取り上げている。
ヨーロッパ内の紛争に関与してきた国際連盟は、やがてヨーロッパ外にも関与する。その典型例はリットン調査団に結実する満洲問題だ。日本は国際連盟の創設当初より、日本の中国における権益に国際連盟が関与することを警戒していた。日本は戦争を禁止する国際的枠組みにもずっと消極的だった。日本は、戦争は国策を推進する重要な手段と認識していた。日本が満州事変を起こす以前から、戦争禁止に消極的な姿勢は国際連盟に知られていた(p.162f)。
国際連盟の規約第16条には制裁が定められている。しかし経済制裁が初めて行われたのは、1935年のイタリアによるエチオピア侵攻に対してである。それ以前に、日本もドイツも離脱してしまっている(p.229f)。もちろん例えば国際連盟としてリットン調査団のような独立した調査を行い、ともかくも満州国を認めない決議を行うなど、意思を示している。しかし大国、特に日本やドイツなど常任理事国が決議に反する行動をとった場合、国際連盟として確固たる手段は取れなかった。それがさらなる離反を招き、そして加盟国側も国際連盟ではない枠組みでの解決を図っていくことになる。
1930年代なかば、世界各地の戦争にも経済恐慌にも国際連盟は無力だった。しかし、女性の人身売買や、保健、知的分野(のちにUNESCOになる分野)の領域で成果を上げている。これらは大規模な公式の会議形式でなく、非公式な合意を公式に提議する形を取った。保健衛生、難民、知的協力などの面で国際連盟は具体的な成果を残したことは評価されるべきことだ(p.238-246, 267)。
私が興味あった創設に向けた話は第一章のみ。あとはいまの私の興味にはやや細かい歴史的記述と感じられた。具体的な姿は知られるが、最終的には国際連盟はおおむね失敗したわけで、その原因がどこにあったのかが明示的に書かれるとよかった。国際連盟の最後の総会における、セシルの演説が紹介されている(p.264)。それによれば国際連盟は、加盟国の協力が足りなかったので失敗した。平和の維持には強制力が必要である。他方、各国が自国の安全保障は軍備によって確保されると考える限り、最終的な平和はない。したがって教育や世論喚起により、各国が軍備によらない安全保障の姿を希求していかなければならない。
これはセシルの評価だが、歴史家としてはどうなのか。国際連盟のそもそもの仕組みに課題があったのか。あるいは創設に向けた民間の議論に課題があったのか。短い国際連盟の歴史のうち、どこかがターニングポイントだったのか。そしてその課題と解決策がどう国際連合に受け継がれていったのか。こうした点は私の読んだ限りではあまりうかがえなかった。
Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。
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