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岡本隆司『世界史とつなげて学ぶ 中国全史』

中国の通史。語り下ろしの講義をもとに書かれており、とても読みやすい。力点は近代までにあり、清朝以降の現代中国については弱い。特徴は、中国の動きを世界全体の流れに置くこと。人によっては、外的な要因で中国史が動いているような印象を持つかもしれない。構造的な見方を好む私にはしっくりくる内容だった。


黄河文明の誕生から話は始まる。文明の誕生は、農耕民と遊牧民の境界地域で生まれたとされる。農耕民と遊牧民はそれぞれ湿潤地域と乾燥地域に住み、文化も習俗もまったく対照的な民族である。そのため、それぞれが産出するものも必要とするものも異なる。そこで、交易が生まれたとする(p.15-24)。


こうした交易はシルクロードへ発展していく。シルクロードが漢の国力を支えた。当初は金銀が中国から流出したが枯渇し、その代わりに絹が増える。蚕の養殖を中国は初めて可能にした。シルクロードという名前はそれを象徴するが、中国が貿易の中心地であったというより、中国には絹くらいしか出せるものがなかったと考えた方がよい。当時の中国はシルクロードによる交易の中心地というよりは、その最東端と考えたほうが良い(p.39)。


しかし3世紀以降、気候の寒冷化が進む。その影響は植生の乏しい草原地域の方が顕著だった。こうして遊牧民を中心に4世紀、5世紀の民族大移動が起こる。西ではローマ帝国に、東では漢に異民族が入り込み、それぞれの帝国を崩壊させる。東西世界はシルクロードでつながっており、寒冷化という同じインパクトを受けたため、パラレルに歴史が進行している(p.42-46)。こうした外的環境の変化による東西世界の並行的な動きは、本書の特徴。


気候の寒冷化による生産性の低下は労働力の集約を生んだ。人々を権力によって徴用し、農業に従事させる動きが生まれる。屯田制だ。官僚や軍隊による支配、すなわち律令制が成立する。寒冷化による生産性の低下は自給自足を生み、商業は停滞する。そのため、政治的・経済的に地域に分立した邨が広がる。中国では城郭と村落がなす、複合的、多元的な社会が生まれた(p.49-51)。多民族や多地域によるきわめて多元的な社会と、それを統治するための苦労がその後の中国史のポイントとなる。


その最初の試みが唐。唐は突厥を併合するなど領土を拡大した。特に中央アジアの商人であるソグド人を取り込んたことで、多様性がさらに拡大した。ソグド人経由で仏教も取り込まれた(p.71-80)。中国には前から儒教があった。儒教は漢人の生活習慣に基づいていたため、漢では統治原理として機能した。しかし多民族から構成される唐では儒教は有効ではなく、当時の世界宗教である仏教が採用された。唐の後期において則天武后の施策を否定して仏教を統治原理から除くと、多元的な政治状況をうまく束ねられなくなり、唐の解体が始まる(p.82-88)。唐が解体すると五代十国時代で小国乱立の時代へ。それは一方で、小国でも生きていけるように環境が変化したことを意味する。気候は温暖化し、農業生産性が向上したのだ。並行してこの10世紀、中央アジアではウィグルを始めとするトルコ系の遊牧民国家がソグド人に取って代わる。ウイグルの移動と定住民化は、こうした温暖化が可能にした側面がある(p.94-97)。


唐から宋にいたる時期は大変動の時代(唐宋変革)として位置づけられている。変動の中身は4つ。(1)エネルギー革命。木材から石炭への移行によって大きなエネルギーが獲得された。これは工具や武器の進化を促した。(2)水田化と人口増大。低湿地の農園化により生産量が増大した。(3)貨幣経済の成立。エネルギー革命の金属生産力の向上によって宋銭が普及する。マネーサプライが増大したことにより、経済が拡大する。宋代では人類初の紙幣が登場するが、政府の信用が薄く失敗する。(4)商業化の進展。特に一部地域でのみ生産できる塩の流通と徴税。(5)都市化の進展。城郭都市でも村落でもない鎮、市といった、市場を中心とする商業都市が生まれた(p.98-108)。多元化社会で経済が発展した中で、宋では文化が花開く。朱子学の誕生、文体の復古、歴史、文学、中華料理の原型といったものがここで見られる(p.118f)。


モンゴルの支配では商業の重視が書かれる。そもそも世界各地におけるモンゴル支配の拡大は、中央アジアのオアシス都市のウイグル商人たちが商業の保護と拡大を求めて、モンゴル軍を水先案内していった側面がある(p.135f)。中国においてもクビライは商業の発展のため、銀と塩を準備金とした紙幣の信用保証を行っている(p.139-143)。モンゴル支配の拡大はこうして、経済圏の拡大と見るのがよい。元寇も軍事侵略というより、経済圏の拡大、現代風に言えばグローバリゼーションの一環と言える。日本の元寇への反応は、当時のグローバリゼーションへの対抗である。元寇と並行したものとして、ヨーロッパではポーランドのワールシュタットの戦いがある(p.146)。


モンゴルの衰退の一原因にも、気候変動がある。14世紀以降、モンゴル帝国の崩壊の大きな原因となるのは気候の寒冷化。寒冷化で疫病(西洋でのペスト)が流行り、シルクロードなど経済交流が分断される。またモンゴルの経済を支えていた南宋の生産力が低下する。シルクロードなど東西の交易が縮小するに連れ、東西が分断されていく。中央アジアはイスラム化が進み、東西の架け橋というより障壁になっていく(p.147-151)。


この状況から明が立ち上がってくる。明こそが現代中国の出発点である。現代中国の特徴は多元化と上下(官民、商業層と農民層)の乖離だが、その特徴は明朝で作られた。分水嶺は14世紀にある(p.245)。明はそもそも、多民族・多国家による混一を旨としたモンゴル帝国に対抗して、農耕民族による中華の純化と夷狄の排除を存立理由とした(p.155)。中華思想に基づき他の国家を認めないような状況は、むしろ例外的である。大抵の中国王朝は他の周辺国家を対等者と認め、共存を図るような多元的な見方をしていた。しかし理念としての中華思想はあるため、例えば宋の時代の評価は弱腰、情けないとして中国内では低い。特に南下してきた女真族の金と和睦した南宋時代の秦檜など(p.112-117)。明は明確に中華思想を実現させる。例えばそれは朝貢一元体制に見られる。朝貢そのものは古来あったが、すべての外交を朝貢に限定した朝貢一元体制は、朱元璋が確立したものだ(p.157f)。


また、商業の軽視と農業の重視も明の特徴だ。これはモンゴルへの対抗もあるが、そもそも寒冷化で農業生産性が低下しており、対処が必要だったからでもある。モンゴル帝国の崩壊で商業は壊滅的な打撃を受け、経済は物々交換に戻った地域もあった。明は現物経済を初期条件として、農業生産の回復に注力していく。明の紙幣はモンゴルの鉄や塩のような裏付けを持たない。兌換紙幣ではなく、金銀が国外に流出するのを防いでいる。発行量も少なく、明は貨幣経済を否定している(p.159-162)。 貧しい華北と豊かな江南を調和させるために、明はなんと江南を貧しくする政策を取った。連座制に基づく激しい疑獄事件の連続と虐殺は、その一環と思われる。それは華北を豊かにするだけの力を持たない状況で、国内をまとめなければならない事情があった(p.163-165)。これは後で見る文化大革命の展開に似ているようにも思える。


しかし商業を軽視する明の政策は、経済が発展するにつれ現実と乖離していく。江南デルタでは綿花・生糸の生産が盛んになり経済が発展する。それに伴い、貨幣が必要になる。明は認めなかったが、ローカルな私鋳銭として銅銭が、広域流通するものとして銀が広まっていった。経済がさらに発展するにつれて、世界中から銀が中国に集まる(p.170-179)。この中には、日本やメキシコで産出された金銀がある。 こうして明では官民が分離していく。都市の類別で見ると、民間の経済都市と行政単位が相即していない。この傾向は現代中国に続く。明での官民の乖離は中国社会の土台となる。それ以前の中国とは、まるで違う国になったといってもよい(p.184, 188-193)。国家の政策に縛られずに生きるという現代の中国人の考えは、民間経済と政府の鎖国政策が乖離した明に由来する(p.181)。


明には清が続くが、断続性よりは連続性を見ている。清は明時代に作られたシステムが量的に拡大したものと考えられる(p.196)。しかし明と比べて清ははるかに多民族である。それは満洲人、漢人からモンゴル人、チベット人、さらには東トルキスタンのムスリムを含んでいる。そこで清朝は支配した各地の統治体制を変えずに、それぞれの地域に任せた(因俗而治)。明時代の行政も官民分離も変えるつもりはなかったし、変える力もなかった(p.201-204)。


清は困難な経済状況から出発している。17世紀初頭には日本が金銀を採り尽くして名実ともに鎖国になった。ヨーロッパは火山噴火による気候の寒冷化により不況になった。それによりアジアへの銀の供給が途絶え、17世紀後半の中国は一大デフレに陥る。しかし、17世紀末以降からはイギリスの紅茶需要による銀の流入でインフレが起き、経済は活性化し、人口が増える。しかし人口増大に伴って行政規模は拡大していない。清の政府は極端な小さな政府で、徴税と治安維持くらいしか役割を持たなかった。日本では行政サービスと考えられるものは民間が提供している。民間から見れば、政府は徴税を行うだけでろくにサービスを提供しない、敵でしかない。この体制は現代中国に続いている(p.208-212)。


清の地方自治と弱い集権力は日清戦争の敗戦を経て展開する。清は領土(この単語は日本語からの流用)を確定して国民国家を目指す。中国という呼称もこの頃生まれる(p.224f)。だが時すでに遅しの感があった。中国の国民国家に向けた運動は、孫文、そして蒋介石が担っていく。蒋介石の支持基盤は、沿岸先進地の都市部の商人層だった。これに対して、毛沢東は内陸後進地の下層の農民層を重視する対抗策を取った。共産主義のイデオロギーはむしろ、農民層を取り込むための手段に過ぎないと見た方がよい。毛沢東の共産党により、政治権力は初めて基層社会まで浸透した(p.233-239)。


文化大革命は農民層を重視しすぎた結果とみられる。明の時代のように農民層を基準に、その他を貧困化させた。その反動が鄧小平の改革開放政策だ。しかし改革開放で富裕層は増えたが農民層はさほど豊かにはなっていない。明的政策の毛沢東と清的政策の鄧小平として整理できる。だがなお下層の農民層のコントロールに現代中国も苦労している(p.240f)。多元化した中国社会に国民国家モデルを適用することが、そもそも無理がある。しかし中国はそれしかグローバリゼーションを乗り切る策はないと判断した。それが現代中国の苦悩の出発点。チベットでも香港でも国民国家イデオロギーが苦悩を生んでいる(p.249-253)。




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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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