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馬場靖雄『ルーマンの社会理論』

われわれは常に、諸現象の「背景」、「根底」、「起源」を探ろうとする。 これこれの現象が成立している。成立しているからには背後でそれを支える一般的なものが、あるいは何らかの根拠が存在するはずだ、と。一方ルーマンは、そのつど成立している事実的な事態を超えるような何かを、さらにはその事態の「起源」を想定することを、徹底的に拒否する。この態度を、徹底的な内在性の立場として性格づけることもできるかもしれない。一般的なもの、根底にあるものは、事後的な観察によってはじめて見いだされる。根底にあるもの、起源に位置するもの、媒介される以前の純粋なものは、遡行的にのみ構成され発見されるといってもいい。DK[ダブル・コンティンジェンシー]の空虚な円環とその上に無媒介にかぶせられる具体的な社会秩序との間のギャップを隠蔽した後でのみ、媒介・起源・発生・生成 について語ることができるのである。(p.82)

ルーマンの社会理論について。ルーマンの理論自体がかなり難解なものであるので、分かりやすく書かれていると言っても読者に要求するレベルは高い。この本では、ルーマンの理論に向けられる典型的な三つの批判に応えていく形で、ルーマン社会理論の特徴を明らかにしようとしている。


本書ではルーマンの理論展開を三つの時期に分け、それぞれにおける批判を中心に検討する(p.2-9)。(1)1960-70年代半ばの、複雑性の縮減を中心とした初期。あらゆるシステムは外部の複雑性を縮減する機能を持っている点で正当であるというルーマンの考えは、既存の制度や体制の存在を正当化する極めて保守的なものであるという批判。(2)1970年代半ば~1980年代前半までの、自己言及概念が導入された時期。特にルーマンのコミュニケーション論は、コミュニケーションの成立を何も説明していないという批判。(3)"Soziale System"(1984)刊行以降の、オートポイエーシス概念が導入された時期。ルーマンの社会理論は、複数の自律的なシステムの間の相互作用について説明できていないという批判。


既に存在するシステムを無批判に正当化しているという論点に対しては、そもそもルーマンの議論の出発点がどこにあるかが確認される。ルーマンの議論は、システムと環境を区別するところから出発する。いかなる議論も、何らかの区別から始めなければならない。その区別の正当性は別途問いに付されてもよいものの、区別なく議論を始めることはできない。またルーマンにとってシステムの存在は、分析的なもの(分析者が任意に設定したもの)ではなく、事態そのものとして成立している。システムが事実存在するところからルーマンの議論は出発している(p.12-20, 44)。ゆえに、既に存在しているシステムがどうあるべきかという妥当の問題は、事実の問題から出発しているルーマンのスコープに無いということだろうか。もちろんそれでよいのか(という妥当の問題)は向けられるだろう。


コミュニケーション論も、同じようなポイントが確認される。コミュニケーションはそれ自体としての存在を問いうるものではない。ある出来事が、情報/伝達の区別が可能なものとして観察されるとき、それはコミュニケーションとして理解される。すなわち、事実確認的constativeな側面と行為遂行的performativeな側面が区別され、情報をただ受け取るだけでなく疑ったり容認したり拒否したりといった言語行為が可能であるときに、コミュニケーションとして理解される(p.50-53)。


コミュニケーションの成立要件として議論されるダブル・コンティンジェンシーの問題、すなわちお互いに言語の意味を理解していることを確認(していることを確認する、etc)するという問題も、そもそも問題ではないとして扱われる。コミュニケーションとその条件として考えられたダブル・コンティンジェンシーの解消は、ルーマンにおいてはすでに解消され成立した形で現れる。自他のコンティンジェンシーを解消してはじめて、コミュニケーションが生まれるのではない。コミュニケーションがそもそもそのような、自他の間主観性を可能にするものである。コミュニケーションはダブル・コンティンジェンシーを解消したものとして創発するのであり、自我と他者に還元できるものはない。これは任意のところから恣意的な決断により始まるということではない。意識的な操作が不可能なところでコミュニケーションはすでに始まっており、その後のコミュニケーションに接続していく限りで、根拠として機能する(p.68-79)。


最後の批判である機能分化については、一段と難易度が上がっているように感じられた。機能分化した現代の社会における様々なシステムは、ルーマンによれば自己の論理にのみ即して動いていく。システム外からの声に応える否かを決定するのは、そのシステム自身である。こうした議論は、機能分化したシステムの運営は専門家に任せておけば良いという結論を導く。こうしたシステムの捉え方では、外的な刺激からダイナミックに自己を変革している可能性を奪われてしまうという批判が寄せられる(p.114f)。


しかしこの自己の論理にのみ即して動くという論点は否定される。システムは何らかの区別によってシステムと環境を区別するところに成立する。自己準拠したシステムにおいては、その区分は空虚なものとなる。例えば法システムにおいては、法は法であるという空虚な定式化がなされる。こうした空虚な区分による決定の困難さは、外的な契機によって偶然的に解決される。コミュニケーションがダブルコンティンジェンシーを偶然に解決したところから始まるように、機能分化したシステムは、自律的であるために他のシステムによる偶発的な契機に依存している。機能分化したシステムは外部から独立して自己の論理のみで動けるわけではない(p.119-123, 134, 144f, 164)。すると、他のシステムとの相互作用は予見できるものでもなく制御できるものでもなく、そもそも相互作用が起こってしまい自己準拠システムに変化が加えられた後で、そのシステムはそうした変化に対処していくということだ。


たしかにルーマンの社会理論の特徴は、システムの動作がつねにすでに始まってしまっているところから始まるものとして明らかにされているだろう。ただそれでよいのかという、批判者が批判したかった点については肩透かしの感じがある。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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