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松尾陽編『アーキテクチャと法』


人々の行動を規制する方法としてアーキテクチャがレッシグ以来、注目されている。本書は法学者(なぜか憲法学者が多い)や法哲学者が、アーキテクチャと法のかかわりについて寄せた論文から編まれている。総説的なものもあり、細かな論点に及ぶものもあり、記述のレベルは様々。


法学からアーキテクチャー研究に寄せられる課題が三つに整理されており、参考になる(p.15-30)。(1)代替性。アーキテクチャーは法を代替するのか。特に法機能の消極的側面(行動の制約)と積極的側面(行為の選択肢を可能にし促進すること)の両面から考えられるべき。多くの議論は消極的側面のみに注目している。(2)正当性。どのようなアーキテクチャーが望ましいのか。自由や平等といった、近代の法システムが実現してきた価値・利益をアーキテクチャは促進/毀損するのか。(3)正統性。誰がどのようにアーキテクチャを形成すべきなのか。権利論(誰がアーキテクチャを形成する権利を持っているのか)、民主政論(意志的な決定と説明を基調とする民主政との調和)、専門家の役割、競争原理の導入、ゲートキーパー(問題が発生したときに公平な評価を行う第三者)の存在、変化する社会との責任(誰がアーキテクチャを改変していく責任を負うのか)が挙げられる。


続いて、アーキテクチャの議論でつねに参照される二者、レッシグとサンスティーンの位置づけの違いについて(p.52-57)。サンスティーンがよりよい選択肢やナッジの設計について論じるのに対して、レッシグは選択肢の提示がつねに他の可能な選択肢を排除するとして、むしろ制度を組み替えていくようなハクティビストの視点から論じている。もちろん、自由は一定の選択肢の中から選択する自由だけではなく、新たな選択肢を作り出したり、既存の選択肢に異論を唱えるところにもあるということを、サンスティーンは選択アーキテクチャは不可避であると論じて認識している。


我々の自由を構成し、かつ制約するアーキテクチャーをいかに統御するかについて(p.58-62)。(1)アーキテクチャーは一般の個人にとって不透明で構造的であるがゆえに、個人の権利の行使や、訴訟による事後救済は困難である。したがって、客観法による構造的な統御、つまりアーキテクチャの設計の設計が求められる。(2)アーキテクチャの設計および設計の設計には誰もが携われるわけではないのだから、絶えざる再構築を可能とする脱構築の権利の確保が必要である。ある一定の範囲においてハックする権利の検討が求められていく。


ヒューマニズム(人間中心主義)を脱して事物を考察に積極的に取り入れていく、ラトゥールやフェルベークの発想を刑法学に適用しようという論考は示唆的。刑事法は基本的にヒューマニズムに基づいて人間の責任を問うとするため、特に過失犯の場合でその影響が大きいと想定される、技術的人工物は規範的評価の対象にできない。事物そのものに刑罰を適用することができない。それゆえ過失犯に対する法的責任追及は、技術的人工物を統御できなかった使用者に対する非難であるか、設計者・製造者に対して統御可能な事物を作るべきだったという非難のいずれかになる。ここには、事物の存在様態そのものへの責任追及は関心の外に置かれる。こうしたヒューマニズムの問題は、(1)行き過ぎた人間の標準化(既存の社会秩序や人間観を堅持することになり、個人の創造性や多様な価値観を阻害する)であり、(2)技術的人工物をより望ましい形で存在させる術を持たないことである(p.102-108)。


ヒューマニズム刑事法の問題を克服する立場から言えば、統御できない危険がある技術的人工物であっても、それが(単なる社会利益ではなく)より善い人間存在のあり方の実現という目標からして望ましいものであれば、「許されるべき危険」として考えることができる。DPAやNPAと呼ばれる、開発企業に設計手続きの改善を求める手続きが処罰に代わる(p.123-126)。


技術的保護手段(DRMなど)によるユーザの複製の制限は、著作権を守るためのアーキテクチャによる法の私物化かという問いは、もともとレッシグが警鐘を鳴らした(特にデジタル)アーキテクチャの問題に近い。しかしこれを巡る論考は、ドイツの著作権法の改正を中心とした細かな議論となっていて、全体的な問題提起が追いにくい。続く、ビットコインと法の話も、まだ全体として議論が煮詰まっているような感を覚える。金融機関は法によって、ビットコインはプログラムのコードによって制定される違いがあり、その他の違いとして誰がルールを制定するかという点もあるという論点がある(p.190-193)。


アーキテクチャと法の大きな違いとして、アーキテクチャは物理的あるいはデジタル的な何らかの手段を用いて、当該の行為が起こることをそもそも不可能にするのに対して、法は罰則などを定めるものであり、当該の行為自体は実行可能であるという点がある。比較憲法論において、無能力化(incapacitate)というアーキテクチャに似た議論があるのは興味深い(p.207-209)。これはアーキテクチャのような、当該行為が不可能になるような仕組みを法的に規定する。予防的規定であり、最初から権限を制限し、それが拡大することを防ぐ手立てを憲法典に組み込む。日本国憲法第9条の非軍事化が無能力化に当たる。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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