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藤垣裕子『専門知と公共性』

しかし、科学技術の知識(科学的合理性)だけで問題が解決できない場合、専門家(科学技術者)の知は、従来のように、市民(素人)の知に対して常に優位に立てるとは限らない。専門家の思いも寄らない現場の知識が、意思決定のための根拠の提示に役立つということもありうる。また、実は現場の意思決定においては、市民の側の「現場知」が大事であるケースもありうる。そして社会的現場条件での知識蓄積は必須である。専門家まかせの意思決定ではもはや解決できない。(p.190)

科学技術社会論についての優れた論考。同時に、入門書でもある。この本は著者の研究を導いてきた問いへの答えでもある。科学者について、自身の研究領域にとどまり、その研究領域の物の見方でしか判断せず、結果として現実に起こっている問題にうまく寄与できないという批判はよく聞かれる。しかしなぜそのような事態が起こり、どうすればよいのか。この本は著者が20年来問い続けてきた一つの回答である(p.222)。


現在には科学者の助けを必要とする問題が多く起こっている。こうした現代において科学技術と社会の接点で起きている問題の特徴は、不確定的要素を含み、科学者にも答えられない問題だが、今現在、社会的合意が必要であるということである(p.7f)。ワインバーグのグレーゾーン(科学に問うことはできても科学には答えられない問題)だ(p.70)。こうした問題に対して、科学、そして社会はどのように向き合えばいいのか。


本書はそのタイトルの通り、まずは科学者の専門性について科学社会学的な視点から解明を行う。次いで、社会において科学的知識をどのように生かしていけばいいか、科学技術社会論的な検討を行う。まず科学者(研究者)の専門性の解明の議論の中心となるのは、ジャーナル(研究論文誌)と、ジャーナルを読んだりジャーナルに投稿したりする人々からなるジャーナル共同体である。研究者は論文を論文誌に投稿し、ジャーナル共同体に参入しようとする。この過程でその分野の問題設定を暗黙の前提にするようになり、また後続の論文の書き方を同様に教育するようになる。この繰り返しにより研究者の専門分化が行われ、専門分野はタコツボ化していく。レフェリー制度によって保たれているジャーナル共同体の知識の審判機構こそが、現代科学者の専門主義の源泉である(p.23)。レフェリー制度によって、そのジャーナルが対象とする論文の境界が作られる。すなわち、ジャーナルに掲載できる/できないの妥当性の境界が生まれる。


研究者は、自分の分野において業績を蓄積していく上で、ジャーナル共同体が妥当性境界を形作る妥当性要求基準を内化し自分のものとする。それにより、他分野の妥当性基準を評価できなくなり、異分野摩擦が生まれる(p.36)。例えば、精神医学誌における妥当性境界の変遷が挙げられる。1978年と1990年で、DSMなど操作的診断基準の普及に伴って掲載論文がどう変化したかが描かれている。とくに研究デザインにおいて、記述系の論文が減少し、患者対照研究が増えている(p.54-60 )。ただしかし、これは掲載許諾の判断基準が変化していることを示しているとは言い切れないだろう。分かりやすく扱いやすい基準や道具ができて、研究者の研究がシフトしただけとも考えられる。許諾の基準を問題にするなら、本来は掲載されなかった論文を見なければならない。また、研究者は一つのジャーナル共同体に属しているわけではない。掲載されるまでにいくつものジャーナルに投稿するのも普通である。ジャーナルが作り出す妥当性境界という議論は、実際の研究者の専門知をどこまで規定できているだろうか。


こうした科学の専門知が社会に出会うときに求められるのが、公共空間である。公共空間において、専門家と市民と行政と企業は、そのセクターの枠を超えて技術に関する意思決定を行う。日本では公共の概念は弱いため、利害関係の調整は未だに諸官庁、すなわち行政の場に委ねられることが多い。しかし昨今の科学技術には、このようなパターナリスティックな枠組みでは解けないものが増えてきている。その要因には、利害関係者の多様化、各セクター内における対立、国境を越えた利害関係などがある(p.78f, 92-95)。これは、公害問題と気候変動問題を比較すると分かりやすい(p.99)。過去の公害問題においては、利害関係は基本的に企業対市民であった。セクター内における対立も、例えば市民の間の対立も大きくなかった。国内、はては地域内に収まる問題だった。こうしたポイントは気候変動問題では大きく異なっている。


科学者はジャーナル共同体に基づく自らの妥当性境界を持つ。妥当する知識、すなわち妥当性境界の内側に入る知識を認めることが科学的合理性である。公共空間においては、これとは別の合理性、社会的合理性が働く。社会的合理性は、公共の妥当性境界(因果関係の証明の要求や、統計的相関としての疫学的因果関係など)が複数あるときに、社会的意思決定において選択を行う合理性である。もし科学者共同体の妥当性基準が唯一正しいものだとすると、第ニ種の過誤(偽陰性)か避けられない。科学的合理性に従って被害認定が遅れ、それにより救済が遅れてしまったという、第二種の過誤を犯したのが水俣病、薬害エイズといったケースである。逆に科学的合理性を満たす結果が得られる前に、予防原則をとって先んじて対応を行うと、今度は第一種の過誤(偽陽性)が避けられない。O157でカイワレ大根が原因と名指しされたのがこの第一種の過誤のケースに当たる(p.112-117)。


科学的合理性と社会的合理性が一致しないケースは、なんらかの計測値や集計値が出て、それを例えば安全な水準と認めるかどうかに現れる。だが、そもそも何を計測するか(何をKPIとすべきか)についても、科学者共同体における基準と現実での基準は異なる。これには、名古屋市藤前干潟における、鳥類の干潟利用率の計測基準のケースが挙げられる。事業側と市民側の異なる計測基準は、どちらか客観的で科学的かという問題ではない。計測、定量化には何を重視し何を無視するかの価値判断が含まれる。著者はこの変数の取捨選択を変数結節と呼んでいる(p.138-143)。典型的には市民側などの現場は、単に科学に無知なる大衆ではない。公共空間での熟議において、現場側を科学的蒙昧とみなす態度は適切ではない。現場には、現場において考慮すべき条件があるだけである。


社会的合理性が担保されるための要件が、3つ挙げられる(p.161-164)。(1)意思決定の主体の多様性。少数の専門家と行政官による密室での合意ではなく、より多くの利害関係者に開かれていること。(2)意思決定に必要な情報の開示と、選択肢の多様性。特にジャーナル共同体の知見だけでなく、現場のローカルナレッジに基づいた情報や選択肢が提示されること。(3)意思決定のプロセスの公開性、透明性と、手続きルールの明確化。こうした要件を実現するために、いくつかの実践的な方法が紹介される(p.164-173)。意思決定主体に市民を組み込む参加型TA(テクノロジーアセスメント)。デモグラを代表するように参加主体を選ぶコンセンサス会議。専門家が作った選択肢からの選択を迫るのではなく、市民を含む利害関係者がともに選択肢を構築していくシナリオワークショップの技法など。


とてもまとまりもよく、分量としても読みやすい一冊。本の題名からは科学技術社会論の優秀な入門書や実践書とは見えないのが少し残念か。私ももっと早くこの本を手に取ればよかった。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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