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長谷川愛『20XX年の革命家になるには』

刺激的な一冊。スペキュラティヴ・デザインという現代アートの潮流に基づく様々な試みについて書かれている。スペキュラティヴ・デザインそのものを全面的に論じたものというよりは、著者自身の体験や作品を踏まえて、スペキュラティヴ・デザインが体験できるように書かれている。「革命家」とは物騒な感じがするかもしれないが、社会変革家ということだ。本書では、社会を変革する手段と方法をアートやデザインの発想から見出す。自分の中にある固有の価値観や世界から脱却し、新たな別の視点を持ち、理想の世界を夢想し、そのためあらゆる手段を使って実践する(p.2)。


本書にはスペキュラティヴ・デザインとは何かについて明確な記述はさほど見られない。むしろその言語化にはあまり成功していないようにも見える。具体的なアートや取り組みをもって知るものだということだろう。スペキュラティヴ・デザインは、近年発生したデザインの新たな潮流である。これは、SF小説におけるスペキュラティヴ・フィクションという言葉と関係している。スペキュラティヴ・フィクションは、1947年にSF小説家ロバート・A・ハインラインが用いた言葉とされる。大衆娯楽向けだったSFに、社会事情や哲学的要素を取り入れたものだ。ユートピア文学・ディストピア文学とも関連している。スペキュラティヴ・フィクションの代表作は何といってもジョージ・オーウェルの『1984年』。一方で、スペキュラティヴ・デザインはテクノロジーを中心に据えていることも特徴の一つ。ナノやバイオなど先端的なテクノロジーを一般人やアーティスト、デザイナーが使い始めたら何が起こるのか、文化や意識の変革に視野を広げて問いを生み、考えさせるものである(p.87f)。おそらく、この現実とは異なる世界を提示するために、現実的でないという意味を込めて思弁的speculativeという形容詞が与えられているのだろう。


芸術家が抱いた既存の価値秩序への課題感を、テクノロジーを用いて極端な形で具現化することにより、人々が前提としている価値観を顕著な仕方で明るみに出し、揺さぶること。著者の作品から見れば、同性愛をテーマとし、同性カップルの遺伝情報から子供二人の顔をシミュレーションして合成家族写真を作成した"(Im)possible Baby"(2015)。人工胎盤でイルカを育てて出産したら、というテーマで作られた"I  WANNA DELIVER A DOLPHIN"(2013)。著者の作品のみならず、人間と動物の境界、人間の身体、権力、資本主義、ジェンダーなどに疑問を呈する作品が紹介される。スペキュラティヴ・デザイン自体は新しい潮流だが、こうしたアートの機能は昔から存在する。千利休、マルセル・デュシャン、ココ・シャネル、オノ・ヨーコといった名前も挙がる。


スペキュラティヴ・デザインの提唱者は当時ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートに在籍していたアンソニー・ダン。著者はその指導を受けており、入学試験からの詳細が語られる。ついで東南アジアにおける芸術家の試みと、著者と何人かの対談。興味深いのは中国。中国では、テクノロジーによる現実の実現のほうが早く、スペキュラティヴ・デザインがなかなか広まらないという(p.124f)。共産党批判を許さない国家体制のもと、スペキュラティヴ・デザインの試みにも苦労する。


また対談では、物事を批判的に考える試みとしての哲学の重要性が語られている(p.147)。アートは確かに、フーコーが言う関係的自由、すなわち社会と私の別様の関係を想像させる(p.148)。アートは先鋭な形で既存の価値観への批判を提示するが、そこでなぜ違和感が生まれるのか、価値観のどのような要素が揺さぶられているのか、価値観はどうあるべきなのかを語るのはアートというより哲学的営みであろう。『ゲド戦記』で有名なファンタジー作家、アーシュラ・ル=グウィンの言葉が引かれている。ディストピア文学が暴力的で残忍な未来像を描くことは、ときにその絶望は単なる恐怖の反応を呼び、消費されてしまう。それは提示されるものを考えることなく単に消費される、現実逃避である点でポルノと似ている。芸術は「いかに」と「なに」を示すだけでなく、「なぜ」を問わなければならない、と(p.93f)。しかし私にはそれは芸術の役割ではなく、むしろ哲学の役割のように思われる。


最後にはスペキュラティヴ・デザインの実践として、カードを使った発想法が書かれている。これは巻末についているSDGsカード、テクノロジーカード、フィロソフィーカード、アウトプットカード、革命家カードから一枚づつを取って、その組み合わせから発想する。そうしてできるシナリオを具現化し、アートとして実際に作成するまでのステップ。なおドゥルーズの分人主義(dividual)という概念が、ドゥルーズが肯定的に述べたように扱われているのが気になった。ドゥルーズにおいてdividualは、現代の権力は個人individualを分人として管理しているといったように、批判対象が取っている方法として語られており、ドゥルーズ自体が称揚したものではないだろう。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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