現代物理学の観点から時間について述べたもの。時間をテーマとして、相対論や量子力学を平易に語っている。結論としては、相対論のもとでは時間は相対的であり、絶対的に流れる時間は存在しない。私たちが時間の流れ、物事の不可逆的な推移として見ているものは、ビッグバン以降のエントロピーの増大である。なお最後には、認知神経科学の観点から、時間意識の問題が扱われているのが異色。
出発点はもちろんニュートン力学の捉え方。ニュートン力学では時間も空間もただの形式に過ぎない。だが19世紀になって、空間は電磁気学のように場という実体として捉え直された。時間についてその役割を相対性理論が担う(p.6f)。最初にはセシウムを使った原子時計の実験の話。原子時計は、重力の影響により標高の異なるところでは異なる時間を刻む。ニュートン力学では時間は物理現象から独立しており、セシウム原子が放出する電磁波の波長が標高によってひとしなみに変わるような現象を説明しにくい。特殊相対論では時間はそれぞれの場所での物理現象によって定義される(p.25f)。光を含む電磁波は、大きな重力のもとでは速度が遅くなる。結果として空間が媒質となって屈折が起こったように見える。このことがアインシュタインを空間と時間を統一的に考える一般相対論へ導いた(p.41-44)。
ついで運動の相対性、運動と静止は絶対的には区別できないという話になっている。ここで出てくるのがエーテルの話。電磁気の法則に地球の公転運動は影響するだろうか。すべての電磁気と相互作用しない静止エーテルの考えは、ダークマターなどもあるのでこれ自体は不自然ではない。不自然なのは、地上に置かれた磁石はエーテルに対して秒速30kmで運動しているはずで、放っておいても起電力が発生するはずだ。それを完全に相殺している力の存在が説明できない(p.53-60)。相対性原理によれば、静止と運動は相対的にしか区別できない。すべてに対して静止しているエーテルを考えることはできない(p.63)。ただこのような話ではよく出てくる、マイケルソン・モーリーの実験の話が出てこない。
ここで本書の核の一つである時間の相対性の議論へ入る。つまりローレンツ対称性と光速不変性の解説。光速不変性については、光が時間と空間の界面を進み、光速が観測系によらず一定なのは電磁波にゲージ対称性があるから。しかし、そもそもなせゲージ対称性が成り立っているのかは分かっていない(p.101)。
ということで一般相対論からは時間の一様な流れは存在しないことが分かる。では私たちが時間の流れと呼びたいようなものは何なのか。それはビッグバン以降のエントロピーの増大である。特に、ビッグバンは極めて均質的な状態だった。宇宙背景放射からは、初期宇宙のエネルギー分布の揺らぎが10万分の1しかなかったことが分かる。そこで、ビッグバンの均質なエネルギー分布が崩れていく不可逆的過程として時間が定義される。時間そのものは過去から未来へと直線的に流れるわけではない(p.123-127, 132, 141f, 211f)。
未来の決定性の話に移る。ニュートン力学では理論的には、初期条件と運動方程式があれば任意の時点の位置と速度が決められる。しかしニュートン力学が実際に成り立っているとしても、巨視的な物体では大きさが合ったり変形したりして、結局は初めの位置と速度は定めにくい。微視的な物体ではなおさら、原子などでは不確定原理により定められない。結局、ニュートン力学により物体の位置と速度は求められず、確率的に求められることになる(p.149-153)。現代的に解析力学から考えれば、ラグランジアンから求められる解には、ニュートン運動方程式の解とは異なる解(非古典解)も存在する。この解の軌道も小さい確率だが取りうる。物理現象は微分方程式によって厳格に規定された唯一の軌道に沿って起こるものではなく、それ以外の軌道も包容する緩やかな法則に従う(p.154-156)。
未来の決定性は、タイムマシンのパラドクスの話で鮮明になる。タイムマシンのパラドクスは物理的に考えれば円筒形のようなループする時間として表現できる。過去における親殺しのような自由意志の問題ではない。パラドクスを生んでいるのはむしろ、過去から未来へと時間は流れるという考えである(p.178-187)。
最後に認知神経科学的な、時間意識の話になる。 時間の流れを生み出しているのは物理現象ではなく人間の意識なので、時間はなぜ流れるのか説明は難しい(p.198)。脳は独自の時間間隔を持っている。物理的に自然な時間と空間の間隔は、時間1秒に対して空間は1光秒。逆に空間の単位が1mなら、時間の単位は3憶分の1秒となる。これに対して、1mと1秒という人間の感覚は脳の働きがゆっくりであることを意味する。それはニューロンの動作機構の速度によっている(p.208-211)。
心理実験を追い、脳が実際に感覚されたものの順序ではなく、物事の順序を構成していることを見ていく。 ある時点の意識は、神経活動的には瞬間的な過程ではなく、持続したニューロンの神経活動パターンを必要とする。したがって意識の「現在」も瞬間的なものではありえず、ある程度の持続を持つ。これは映画フィルムのコマよりも、MPEG-2でエンコードされた動画に似ているという。MPEG-2フォーマット圧縮の動画ファイルには「ある瞬間の画像データ」は存在せず、0.5秒程度の動画データの集まりである(p.199f, 218)。とあるが、違和感がある。MPEG-2はフレームの最初の静止画と、それに対する動きのベクトルからなる。離散的な情報であるデジタルデータには、動画そのものはどうやっても記録できない。ここは類比が成立していないように見える。
本書でよく分からないのは、ビッグバン以降のエントロピー増大方向としての時間の流れと、脳が意識する時間の関係だ。脳はエントロピーの増大方向に事象の時間的関係を構成するとは限らない。よって別物である。では、このエントロピーの増大方向の時間の流れとは何だろうか。ある座標系における時間の話なのだろうか。あるいはエントロピーの増大方向と脳の時間意識が何らか関係するのだろうか。一つヒントになる記述は、神経ネットワークがATPような高分子化合物からエネルギーを共有されて動く。よって、神経活動としての記憶は、ATPがADPになるようなエントロピーが増える方向に行われる。時間の流れとはビッグバンからのエントロピーの増大方向なのだから、人間が過去の記憶しか持たず、未来についての情報がほとんど得られない理由はここにある(p.212)。
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