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横山紘一『仏教思想へのいざない』

仏教の目的は一つである。それは、われわれの心から、自我意識や執着をとり除き、さらにはそれらの根本原因である無明をも滅し、真理を如実に見る清らかな智慧を身につけることである。無我は事実であり真理である。その真理を、大円鏡の映像のごとく、自己の心に、ありのままに映しださねばならない。(p.54f)


原始仏教、部派仏教、大乗仏教、唯識を扱った仏教思想の入門書。きわめてよく書けている。それぞれの仏教思想にきちんと寄り添って下手に現代的に解釈することはない。しかし現代の私たちの理解の仕方に十分配慮し、分かりやすくなっている。また仏教思想としての存在論や認識論に過度に偏ることはない。なによりも実践(修行)を重んじる仏教の立場を強調し、行についても詳しく述べる。


仏教、とくに釈尊の思想は一切は苦であるところから出発する。苦とは生、老、病、死の4つ。とりわけ生、すなわち存在そのものが苦であると考える点が仏教に特徴的だ。釈尊は苦を取り除く方法と、苦の原因の追求という2つの問題を設定したのである(p.15-18)。仏教が登場した当時のインドの思想は、我(アートマン)を中心に考えられていた。リグ・ヴェーダからウパニシャッドまで変遷はあれど、みな自我を考えている。釈尊はこのインド人の常識を否定した。仏教が否定する自我は常識的に考えられる認識主体の自己ではなく、永遠に存在し続ける、輪廻と解脱の主体としての常在の自我である(p.24-33)。仏教の根本主張である三法印、すなわち諸行無常、諸法無我、涅槃寂静のうち、無我こそが仏教独自の思想。釈尊は無我の思想により、当時のインド宗教界に革命をもたらしたのだ(p.19f)。


釈尊は、輪廻説にせよ唯物論にせよ、死後の世界を概念的に追求する知的努力を無価値なものとして否定する。諸行無常であるのに、固定的なもの・統制できる力、すなわち自我を求めて執着するからこそ苦が生まれる。精神(名)と肉体(色)がたまたま縁によって寄せ集ったものが自己であり、固定的実体的自我は存在しないのである(p.44-53, 91-93, 116)。自我を求める執着を廃し、世界は諸行無常であるという真理に到達すること、特に体得する・悟ること(無上正覚)こそが仏教の基本思想である。自我とは縁によりたまたま寄せ集まったものという考えは、安易な比較は危険とはいえ、ドゥルーズ=ヒューム的なものを連想する。


仏教は他の主要宗教とは異なり、世界の創造者や導出原理のような根源的絶対者を立てない。2つの理由がまとめられる。まず、概念による固定化の否定。一切は一瞬一瞬に、常に生滅変化する。創造者や原理という形で一つに特定されるものではない。さらに、自己責任の強調。自己存在のあり方は自己の行為の結果であると仏教では考える。自己存在のあり方は、自然法則である無常力と、行為の法則である業力という2つの力から説明される(p.63-70)。このうち、業力に仏教は力点を置く。


ただ自己存在のあり方が、過去の行為の結果であるとする因縁生起の考えは、単純な決定論ではない。云々の基本的様態を備えて現世に生まれたことをもって、過去世の業は払拭されたと考える(異熟果)。業には過去世の業の他に、過去世で形成されながら現世では潜在的なものにとどまるものと、現世で形成され来世以降に影響を及ぼす業がある。仏教は自己の内部には悟りに向かおうとする力(仏性、如来蔵)が本来的に備わっており、それは他からの働きかけ(縁)により働くと考え、過去世の業による決定論を否定する(p.76-85)。


自らの業を重視する考えは、死にも現れる。仏教はキリスト教(原罪)と同じく、人間の内部に死の原因を求める。それは自業である。死には2つの原因がある。一つは過去に蓄えた自己の行為のエネルギー(異熟業力)が尽きる、自然死。もう一つは富楽の果を感じる業力(経済力など社会的に生きていく力)が尽きる。しかしその業そのものの原因は無明にある。無明こそ、自己の死を生む根本原因である(p.104-107)。自己なるものが存在すると誤認し執着し、諸行無常の真理を知らないこと(無明)が死を生む。生む、というより、自己、生命体、性といった概念を離れたところでは、例えば現代的に考えれば原子の結びつきの変化があるだけであり、そもそも死という概念が成立しない。その意味で死は存在しない。


原始仏教の思想をたどった後、部派仏教(アビダルマ、かつて小乗仏教と呼ばれた一派)の特に上座部の説一切有部の思想、大乗仏教の源となった『般若経』の思想、そして大乗仏教からやや部派仏教に振り戻した瑜伽行派の唯識思想を扱う。


部派仏教の解説では特に仏教の認識論や存在論について詳しい。認識論では、仏教は眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の6つの識を立てる。前5つの五識は感覚であり、現代で言う五感に対応する。かたや、意識は西洋哲学や心理学で言う意識とは異なる。心理学では経験内容の総体を意味するのに対して、仏教の意識は知覚、さらには五識と独立に働いて言語を用いた概念思考を行うものである(p.148-152)。むしろ、悟性Verstandに近いものと思われる。


五識では、感覚が自分の意志とは無関係に、必然的に起こってくる。感覚は与えられるものであり、修正不可能である。こうした必然的に起こってくることを、法性と呼ぶ。意識は言語を用いる概念的思考であり、それは必然的ではなく、言語を用いてある事象を2つに分けるもの、すなわち分別をつけるものである(有分別)。仏教では有分別という語によって、意識の働きに否定的な価値を与えるところがポイントだ。言葉を用いる概念的思考によって、ひとは自己存在、存在全体の本質を誤認する。その誤認(アビダルマの倒想力、大乗仏教の所知障)が生死輪廻する動因の一つであると考える。意識による存在の誤認(特に固定した自己実体が存在するという誤認)と、誤認したものへの執着こそ無明であり、苦の原因である。しかし一方で、迷いから悟りへと導くのも、意識による正しい思考(如理作意)であることは確かである(p.156-159)。


存在論では、仏教は物質(色)について、2つの性格付けをする。一つは同一空間に二者が共存できないものという捉え方であり、これは西洋哲学の延長のような捉え方だ。それとは別に、変化し壊れゆく(変壊)もの、諸行無常・有為転変という捉え方がある。また特に肉体については、欲望に悩まされるもの(欲壊)という性格付けもある()163-167, 192f)。さらに説一切有部では、心でも物質でないもの(不相応行)も考える。これはよく分からないが、形式(トロープのようなものに見える)、概念が挙げられる(p.186-189)。


存在と並んで虚空も仏教の存在論において大きな位置を占める。虚空、涅槃、無為とは何かを巡り各派は分かれ、部派仏教になった(p.194-199)。説一切有部は、虚空はその中に事物が現れるもの(絶対空間のような考え)として存在するとした。部派仏教の中でもこの虚空の実在論には多くの批判があった。説一切有部のなかでも経量部は唯名論的傾向をとった。部派仏教の外で虚空の実在論に強く反対したのが『般若経』の作者たちであり、龍樹を祖とする中観派の人々だった。宗教的観点から見た場合、心のなかから汚れを払拭した先に虚空は具体的に体験される、と著者は解している(p.204-208)。理論的細部に拘泥するのではなく、それを導いている実践的体験を捉えることを強調している。


『般若経』の大乗仏教について、小乗仏教との違いを7つ挙げ、そのうち3つを詳説している。(1)大乗は他利、他者救済を重んじる。小乗は教理に関する煩瑣的思弁が中心を占め、他者救済という理念が後退したと批判する。大乗が説く真理(真如)では、自他の区別がない。自己も他己も無いのだから、他利は自利に通じる、あるいは自利と同じである。(2)小乗のように生まれ変わってからではなく、この世界で涅槃を得ることができる(生死即涅槃)。般若の智慧によって照らし出された存在の真相は空であり、なんらの表象を持たない無相。そこには生死の区分もない(相即の論理)。これは概念的理解ではなく、空の体験により理解されるもの。(3)大乗では人無我(固定的、実体的自己は存在しない)に加えて法無我を説く。法、すなわち物を物たらしめる要素は実在しない。一切は捉え方、概念に過ぎないとするところから、むしろ自由闊達な世界が開ける(p.218-232)。


部派仏教は真理を言葉で表現できると考えた。これに対し、『般若経』の著者たちは、語られた真理の奥にある語られない真理にまで到達することを目指した。それは釈尊が体得された無上正覚の世界であり、この世界に立ち返ろうとする運動が大乗思想を生み出したのだ(p.245-247, 256)。ローマ・カトリックと東方キリスト教の発想の違いが思い起こされる。


ただ、般若の思想は言語や概念理解を絶したものや、空をあまりに強調するために、虚無主義に陥る可能性がある。それに対して、部派仏教のなかで特にヨーガの実践行を重視した人々は、少なくとも心は存在すると考えた。むしろ心しか存在しないとした。それが唯識思想であり、唯識思想ては般若思想が否定した部派仏教の概念をいくらか復活させている。しかし何よりも唯識思想は、唯識観と呼ばれるように、一つの観法であり実践行であることを忘れてはならない。唯識思想を担ったのは瑜伽行派、すなわちヨーガ(瑜伽)を実践する人たちだった(p.270-274)。


唯識思想の瑜伽行派は、感覚を抑制するというヨーガの実践に基づき、六識の底に存在し、それらを生み出す根源的な心としてアーラヤ識(阿頼耶識)を発見した。アーラヤ識は、表層の心が働かなくとも、身体を生理的に維持していく深層の活動であり、生命力である。ヨーガでは身体と心を調和させ、心身からなる自己存在が真理と結合することが究極の目的としている。ヨーガという語はもともと統御、結合の意味をもつ。身体と心は根底でアーラヤ識により有機的に関係しており、身体を整えることは心を整えることである(p.284-291)。


唯識ではアーラヤ識と並んでマナ識を立てる。マナ識も心の深層にあるとされるが、マナ識は自我意識である。ひとが無意識に持つエゴ意識のこと。寝ても覚めても自己として統一する作用をいう。瑜伽行派では、このマナ識はアーラヤ識が自我であると誤認し執着すると考える。私たちが無我の境地にたどり着かず、無我という根本心理を悟り得ないのはマナ識の作用による(p.298-301(。マナ識を廃し、自己でも他己でもない存在そのもの姿、アーラヤ識にたどり着くのが唯識の実践である。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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