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今谷和徳、井上さつき『フランス音楽史』

460ページにほどに及ぶフランス音楽の通史。9世紀のカロリング・ルネサンスから、1980年頃までを扱っている。特にフランス革命以前の中世、ルネサンス、ロココの時代などはあまり類書がない。本書には譜面は登場せず、楽理的な議論は控えられている。代わりに、フランス社会の動きと関連させる形で記述される方針となっている。音楽を孤立させた形でではなく、社会の動きの中で見ている。とはいえ音楽史を通覧した本なので、それでもどうしても人物名や作品名の羅列になるところも見られる。単にその時代で有名な人や作品がいるといったことではなく、なぜそれが有名になったのかの記述が欲しいところだが、この分量で1200年ほどを通覧するには無い物ねだりだろう。

ヨーロッパの音楽は聖歌から始まる。ヨーロッパの音楽を伝える楽譜の最古のものは、9世紀の終わり頃(カロリング朝フランク王国の後半の時代以降)に筆写された聖歌の楽譜である。これらの写本はフランク王国内で見られる(p.11)。こうした初期の聖歌は単旋律を全員で歌うもの。こうした単旋律の聖歌に対して、13世紀には元の聖歌の一つ一つの音を長く保持している間に、上声部にあたる対旋律の音を多数当てる形のものが現れる。これはオルガヌム様式と呼ばれる技法である。オルガヌム様式による聖歌は、ノートルダム新大聖堂などで見られた(p.14-18)。

オルガヌム様式に見られるポリフォニーは、オルガヌムから発展してモテトゥスとなる。モテトゥスが盛んになったのは教会外、13世紀に成立したパリ大学だ。モテトゥスは当初は典礼で用いられるものだったが、世俗的な楽曲へと移行していく(p.28-33)。14世紀にはフィリップ・ド・ヴィトリやギヨーム・ド・マショーの作品を見ると、モテトゥスは単に仲間うちの楽しみだけでなく、政治的・儀礼的な役割を持った楽曲も多くなってくる(p.45-50)。この時代はなかなか面白い展開があるようだ。14世紀は教会大分裂の時代。フランス側の教皇庁が置かれたアヴィニョンでは、アルス・スプティリオルによる知的遊びを含んだ歌曲が生まれている。ボード・コルディエによる同心円やハート型の譜面が残っている(p.60-63)。これらはまるで現代音楽のようだ。

15世紀にはフランス音楽の舞台はブルゴーニュへ移る。百年戦争をきっかけとするイギリスの影響を受けて、ギヨーム・デュファイ(ca. 1397- 1474)やヨハンネス・オケゲム(ca. 1410-97)が活躍した(p.73-78)。16世紀になるとフランスのアンジュー家が支配していたナポリ王国の奪還を目指してイタリアに侵攻した副産物として、イタリア・ルネサンス文化がフランスに流入する。単旋律の俗謡を元にして庶民的な題材による歌詞に対して作曲されたものが目立つ。その後もミラノ公国を巡る争いや、神聖ローマ帝国のカール5世とフランソワ1世の間のイタリアを巡る争いが続いた。フランソワ1世はイタリア文化に憧れ以上のものを抱き、音楽でも王室の音楽組織に大きな再編を行った(p.79-90)。こうしてこの辺りの時代では、教会音楽と庶民音楽の2つの線で記述が続く。どちらも王宮で好まれていた。王宮の世俗音楽では踊り(バレ)がたいへん好まれたことも、フランス音楽の特徴である。

17世紀半ばにはイタリアから帰化した枢機卿ジュール・マザラン(1602-61)がイタリアオペラの導入を進める。だが踊り好きな国王ルイ14世は、むしろ前王からのバレ・ド・クールを重視。その作曲家としてジャン=バティスト・リュリ(1632−87)が現れる。またこの時期からリュート音楽に代わってクラヴサン(チェンバロ)の独奏曲が愛好されるようになり、その作曲家としてルイ・クープラン(ca.1626-61)が出る(p.130-142)。フランスオペラはイタリアオペラの導入で成立したのかと思いきや、フランスオペラはマザランとは別に、別のイタリア舞台芸術であるパストラーレから生まれる。中心はモリエールの筋書きにリュリが音楽をつけたもの。モリエールと仲違いしたリュリは王の許可を得て1672年に王立音楽アカデミーを設立。ここがフランスオペラの中心的な舞台となる。リュリが確立したオペラの要素は19世紀のグランドオペラまで受け継がれていく(p.152-161)。

17世紀なかば、ルイ15世の時代においては、それまで王室や教会が担ってきた音楽の場が、貴族や富裕層のサロンへと広がっていく。このサロン音楽の中心が、ジャン=フィリップ・ラモー(1683-1764)。ラモーは18世紀フランスの最大の作曲家と言ってよい(p.205-211)。18世紀後半には、ウィーンの宮廷で様々な音楽的教養を身につけたマリー・アントワネットが、その音楽教師である宮廷作曲家クリストフ・グルック(1714-87)と共に、フランスの音楽界に影響を与えていく(p.220-224)。

徐々に王室と教会を超えて音楽が社会に浸透していく。1725年に始まった公開演奏会であるコンセール・スピリチュアル以外にも、公開演奏会が新しくいくつも生まれ、好評を博していた。これと対比するように、王室における音楽活動は衰退していく。1761年にルイ15世は王室の音楽組織を財政の逼迫のため大きく改編し、人員を削減した。1778年3月にパリにやってきたモーツァルトが、ヴェルサイユの王室オルガニストを斡旋されつつも断ったのも、フランスの音楽界の中心がもはや王室ではなくパリにあることを感じていたからである(p.227-232)。

その傾向はフランス革命で大きく促進される。フランス革命による社会の変革は音楽にも大きな影響を与えた。音楽は教会や王室のためのものではなくなった。音楽は民衆のもの、特に革命歌に代表されるように民衆が歌い民衆を動かすものとなった。1789年以降、それまで盛んだったサロンでの音楽活動やコンサートは活力を失った。唯一活動続けたのは、時流に合わせた作品を生み出し続けたオペラ劇場だけであった(p.238)。革命前は大聖堂や主要な教会にあった音楽教育機関メトリーズや王立歌唱・朗唱学校は、1792年の国民軍音楽学校を経て、1795年のパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に至る。パリ音楽院は王政復古での混乱はあれど定着していく(p.248-250)。

この時期のオペラについて言えば、ナポレオンは現世的な単純明快なイタリアオペラを好んだ。イタリアを占領した際には公序良俗に反するとしてカストラートを追放し、イタリアオペラの形をも変えてしまっている。フランスではイタリア人作曲家のスポンティーニを重用し、その作品によりフランスオペラは神話を題材とする伝統から離れることとなった(p.263f)。

19世紀前半、王政復古から七月王政にかけて重要なジャンルは相変わらずオペラだ。パリに在住していたロッシーニが人気となり、ロッシーニ旋風が起こる。『ウィリアム・テル』(1829)がフランスオペラに新たな時代を開き、その後のグラントペラの路線を準備した。ロッシーニはイタリアオペラの要素を取り込んだ一方で、それまてのフランスオペラの管弦楽の様式を活かした。また次の世代のオペラ作曲家や歌手を育てた(p.267-270, 274-278, 296-298)。

19世紀はピアノの時代でもある。19世紀前半からエラールやプレイエルといったピアノ製作者がピアノを発展させた。これを背景として、リストやショパンがパリで活躍する。特にショパンの独特の様式や半音階的な和声と転調は後の作曲家に大きな影響を与えた(p.287-291)。こうした外国から来た音楽家がパリで活躍し、フランス音楽の一面となっていくのも近代フランス音楽の特徴である。

民衆に広がった音楽は広くアマチュア音楽を生み出す。19世紀にはアマチュアの合唱団や吹奏楽団であるオルフェオンが都市部、農村部を問わず結成された。1855年には300の合唱団、400の吹奏楽団があり、1870年代には7000団体に達する。フランスのオルフェオンは民衆層によって担われた点が、都市のエリート層の活動だったドイツのアマチュア合唱協会と異なっている。グノーやベルリオーズは民衆に音楽を広めるべくオルフェオンに積極的に関わった(p.322-327)。グノーについて言えば、フランスオペラの歴史の中でグノーの果たした役割は大きい。グノーのおかげで、ロッシーニ風のイタリア様式やマイヤベーア風の歴史的グラントオペラ様式から離れた、フランス独自の様式が出現した(p.356)。

次の転機となるのは普仏戦争の敗北である。1870年、普仏戦争でプロイセンに負けたフランスのショックは大きく、様々な分野の至る所でナショナリズムの波が広がる。1871年の国民音楽協会の結成も、こうしたナショナリズムの流れにある。国民音楽協会は、それまでドイツの領分と思われてきた管弦楽や室内楽などの、オペラ以外の作品作品でフランスの作曲が書いたものを多く取り上げた。国民音楽協会のコンサートでフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルなどの楽曲が多く初演され、フランス室内楽の時代を創っていく(p.341-344 367f )。フランスの室内楽の再生に決定的な役割を果たしたのがフランクとフォーレである。彼らの作品の特徴は、頻繁に転調し、大胆な半音階主義を見せるところにある(p.370)。

1894年にフランクの弟子のダンディたちによって、総合的な音楽学校のスコラ・カントルムが設立される。この学校はパリ音楽院のライバルとなっていく。一方、パリ音楽院は1905年、ラヴェルがローマ大賞の予選で落選したことに端を発するスキャンダルによって、デュボワが院長を辞任し、フォーレが就任して大きな改革を行う。20世紀初めのフランスの音楽界の主導的な立場を競い合っていたのは、ダンディのニコラ・カントルムと、ドビュッシーのパリ音楽院一派。ラヴェルが1909年にダンディの率いる国民音楽協会から脱退し、師のフォーレを核とする独立音楽協会を旗揚げした。1910年から35年にかけて、伝統を重んじる国民音楽協会と、前衛的な独立音楽協会が並列することになった(p.378-381, 388, 395)。

ナショナリズムの流れは、続く第一次大戦でも大きな要素となる。第一次大戦を受けてサン=サーンスは、フランスのオペラ劇場からヴァーグナー作品を追放するべきと主張した。1916年にはフランス音楽防衛国民同盟が結成され、著作権の消滅していないドイツとオーストリアの作品の演奏を禁じることを提案し、広く賛同者を集めた。しかし、ダンディ、ラヴェル、フォーレらは反対した(p.398-400)。

20世紀初頭、いくども行われたパリ万博で音楽は重要な位置を占めた。これに伴って、音楽には政府から公的資金が投入された。第二次大戦、ナチスドイツのパリ占領下であっても、主要な4大オーケストラであるコンセール・パドルー、コンセール・コロンヌ、コンセール・ラムルー、パリ音楽院管弦楽団に対する政府の助成は増大した。ヴィシー政府とドイツ占領軍は、文化政策上、フランスの音楽文化が戦争によって質が低下してないことを示す必要があった(p.418f)。

第二次対戦後もパリが音楽の中心地として地位を保ち続けたのは、メシアンの存在によるところが大きい。メシアンは1947年にパリ音楽院で分析のクラスを受け持ち、1966年には作曲の教授になる。このメシアンのクラスで、20年以上にわたって様々な傾向持った優れた作曲家が輩出された。なかでもブーレーズは1950年代以降、フランスの前衛音楽の作曲家として頭角を現した(p.426-428)。ブーレーズはセリー音楽を推し進めるが、それに対する反発も生まれた。戦後のフランス音楽では6人組の系列に連なる新古典主義的な作曲家が、無調やセリーの音楽に対抗して、より協和音的で表情豊かな音楽を追求した。1960年代以降、セリアリス厶の信奉者とフランス的新古典主義の信奉者の間には深い溝ができた。ブーレーズとランドゥスキの対立は非常に激しい容赦のないものだった。どちらにも属さない独立派と呼ばれる作曲家(メシアン、ジョリヴェなど)も存在した(p.431-433)。

1977年にはランドゥスキとの権力抗争の結果フランスを離れていたブーレーズが、IRCAM(音響/音楽の探求と調整の研究所)を設立してパリに復帰する。この組織でブーレーズは、科学による最新のテクノロジーと、作曲の新しい技法の二つの探求を目指した。コンピュータによる録音テープやシンセサイザーを用いた音楽が制作される。IRCAMは1970年代以降のフランス音楽を特徴付けるばかりでなく、20世紀に作られた現代音楽のもっとも注目すべき組織である。その特権的立場を巡って論争は尽きないが、フランス人に限らず様々な作曲家が現在に至るまでIRCAMで作品を生み出し続けている(p.442-447)。

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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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