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シッダールタ・ムカジー『遺伝子 下』


ホメロス『オデュッセイア』のメネラオスの言葉とはちがって、私たちを見ても、私の父の血筋がまざまざとうかがえるということはないし、幸運なことに、父たちの弱点や罪が私たちの中に残っているということもない。これは悲しむべきことではなく、ありがたいことだ。ゲノムとエピゲノムは類似点や、遺産や、記憶や、歴史を記録し、それらを細胞から細胞へ、世代から世代へ受け渡すために存在する。突然変異や、遺伝子の混ぜ合わせや、記憶の抹消はこうした力を相殺し、相違点や、多様性や、奇形や、天才や、改造をもたらす。そして、どの世代にも、新たな出発点という光り輝く可能性を与えるのだ。(p.222)

下巻では1970-2005年、2001-2015年、2015年-という3部に分かれて、ゲノムを読むことと書くことに関する研究の動向を追う。現在に近くなってくること、話が遺伝型から表現型へ移ってくることにより、身近な話題が増えていく。そこでは遺伝子の選別による新しい優生学の動きが並行して見え隠れする。

話は遺伝子疾患の解明から始まる。羊水穿刺による出生前診断は、早くも1966年春に始まる。1973年の中絶の権利を認めたロウ対ウェイド事件以降、遺伝子診断の結果による中絶が拡大していく。こうして遺伝学は実用的な価値を持ち、遺伝子診断は医療産業になっていく。新しい優生学の誕生である(p.28-33)。しかしながら、この時代の遺伝子診断で分かるのはダウン症など明らかな染色体の異常に限られる。例えば癌や統合失調症などでは、家系調査から何らかの遺伝的側面が関わっていることが分かるものの、染色体上に原因遺伝子を特定できるわけではない。遺伝学者たちは遺伝病の原因遺伝子を長い時間をかけて追跡・特定してきた。しかし、癌と統合失調症の発生メカニズムの理解には遺伝子ではなく、ゲノム全体の理解が必要であることが1980年代を通じて分かってくる(p.68-75)。

こうして記述は遺伝学の大きな達成点の一つである、ヒトゲノム解読へ進む。1984年夏、ヒトゲノム解読の技術的な実現可能性について専門家会議が初めて開かれる(p.77)。ほぼ無名の神経生物学者だったクレイグ・ベンターと、ワトソンとジンダー率いるヒトゲノム計画の間のレースが始まる。このあたりの記述は意外にもあっさりしていて、DNAの二重螺旋構造の発見をめぐるレースとは対照的。まず1993年冬、ベンターのゲノム科学研究所(TIGR)がインフルエンザ菌の全ゲノムを解読する(p.88)。ヒトゲノム計画側では1998年12月、サルストンとウォーターストンなどが線虫C.elegansの全ゲノムを解読(p.92)。対して1999年9月、ベンターのセレーラ社がキイロショウジョウバエの全ゲノムを解読(p.96)。最終的にはクリントン政権のホワイトハウスの仲介のもと、2001年2月、セレーラ社とヒトゲノム計画はそれぞれ、ヒトゲノム解読の論文を発表する(p.103)。

ヒトゲノムが解読されたことの意味を著者は簡潔に特徴づける。それは、異常の研究から正常の研究への転換だ。医学はそれまで疾患、すなわち異常から人間を把握してきたが、ヒトゲノムが解読されて初めて、正常からヒトを探索するようになった(p.115-118)。ここからヒトの間に存在する様々な違い、すなわち性別、人種、性格、性指向などについての研究が扱われる。

1980年代には、アラン・ウィルソンが人類の起源を巡ってミトコンドリアのゲノムの研究を始めている。1995年にかけてウィルソンとその弟子たちが突き止めたのが、有名なミトコンドリア・イヴである(p.121-127)。人種については、遺伝学の研究は人種内の遺伝的多様性のほうが人種間の多様性より大きいため、人種は明確な特徴を示さないお粗末な概念であることを示している。だが、ハーンスタインとマレーの『ベル・カーブ』(1994)における一般的な知能の因子(g因子)の遺伝性の議論のように、人種差別的な議論は根強く残る(p.131-140)。性的アイデンティティに関しては、ディーン・ヘイマーの1993年の研究。特定された遺伝子Xq28が決定因子かどうかは確証はないが、性的アイデンティティのいくつかの決定因子がゲノムに存在することは確か(p.173-184)。

性別については興味深い議論が展開されている。Y染色体が雄化を決定するというXYシステムが発見されたのは意外に古く、1903年のネッティー・スティーヴンスとエドマンド・ウィルソンの研究。Y染色体は対になっておらずコピーを持たないので、突然変異に対して脆弱である。突然変異と遺伝子喪失により、Y染色体は全染色体の中で最小のサイズとなっている。ヒトのもっとも複雑な形質の一つである性別は、危なっかしいY染色体の上にあるのだ。1989年には、ピーター・グッドフェローが雄化を決定するマスタースイッチ、性決定遺伝子SRYを発見する。SRYが変異した人は染色体パターンはXYで男性でも、解剖学的にも生理的にも女性となる(スワイヤー症候群)。逆にXX遺伝子を持っていて染色体パターンは雌であるマウスにSRY遺伝子を一つ余計に導入すれば、解剖学的にも生理学的にも雄のマウスとなる(p.155-161)。

挿話的にエピジェネティクスの話が入る。そもそも一卵性双生児では、遺伝子が同じでも形質は異なる。そのことは遺伝子の発現を調整している因子が存在することを意味する。遺伝子の活性・不活性をコントロールするものとしてのDNAのメチル基付加、ヒストンの化学的修飾などのエピジェネティック・マークが扱われる。そしてこのエピゲノムが、広い意味では獲得形質を次世代に遺伝させていくことになる。著者はこれを、1944年のナチスドイツによるオランダ封鎖により低栄養状態と発達遅滞となった子供たちの孫の世代において、1990年代に肥満や心疾患が高頻度に発生するという印象的なエピソードで描く。一方、エピゲノムの研究は2006年の山中伸弥のiPS細胞の実験へ至る道でもある(p.207-220)。

遺伝学の研究の話はやや後方に退く。代わりに遺伝子治療、また広く遺伝子工学の話がメインとなっていく。まずADA欠損症患者の血液から取り出したT細胞の遺伝子を改変し、患者の体内に戻す試みが1990年9月に行われる(p.242-251)。ついでOTC欠損症に対して、体内にベクターを導入して肝細胞を直接改変する試みが1999年9月に行われる。しかしこの治療は拙速であり、ベクターとして用いたアデノウィルスに対する過剰反応により患者が死亡する。これを受けて2000年には遺伝子治療の全般的な一時停止に至る(p.251-261)。この間、ベクターの見直しなどの改善が行われ、2014年、血友病の遺伝子治療の成功に至る(p.300-303)。

遺伝子治療と並行して扱われるのが遺伝子検査。特に着床前診断(PGD)だ。遺伝子検査には3つの原則があるという。浸透率の高い遺伝子であること。その遺伝子の変異により大きな苦しみが生まれること。強制ではなく、正当化できる介入であること。推進者たちは、こうした3原則があるから積極的優生学の復活ではないとの論戦を張る。しかし何が大きな苦しみであり、何が強制ではなく正当化できる介入なのかを決めるのは私たちである。そしてその基準は揺らぐのだ(p.288-295, 325)。

最終章に向かって、生殖細胞の遺伝子を改変したポストヒューマンの可能性に話が及ぶ。ポストヒューマンに向けた3つのハードルが遺伝学にあると言う。そしてこれらのハードルは近年超えられつつある。第一に、信頼できるヒトの胚性幹細胞(ES細胞)を樹立すること。それは体外受精クリニックからの供給でなされる。第二に、ゲノムの狙った場所を変化させること。ここでのブレイクスルーがCRISPR/Cas9だ。ただし、CRISPRを1987年に古細菌から発見した石野良純の名は本書には出てこない。2000年代なかばに、デンマークのダニスコの社員が発酵菌のなかから発見したとの記述。第三に、遺伝子改変したヒトES細胞を子宮に直接移植するのではない方法で(これは倫理的に不可能)、ヒト胚に組み込む技術。ES細胞を生殖細胞に変換させることが、ヒトの生殖細胞系列への遺伝子導入のもっともアプローチしやすいやり方と書く。ヒトES細胞から始原生殖細胞を作るこのアプローチは、2014年冬にケンブリッジ大学とワイツマン科学研究所のチームが成功している(p.303-314)。

ヒトES細胞の改変を巡る倫理的問題、社会の反応について、2015年春の中国の黄軍就による試みが挙げられる。CRISPR/Cas9によるES細胞の改変だが、遺伝子改変の精度は低く実験は中止された(p.318-320)。本書(2016年刊)の執筆時期からして、2018年11月の賀建奎による遺伝子を改変した双子の女児の誕生についてはカバーできていない。しかし明らかにその方向へ向かっていることは黄の研究を巡る記述からうかがえる。

最後に、人類遺伝学を待ち受ける大きな三つのプロジェクトがあると言う。第一に、ヒトゲノムにコードされている情報の正確な性質を見極めること。イントロンやジャンクDNAの役割とはなにか。また、ヒトゲノムのそれぞれの要素が時間と空間の中でどのように組み合わさって、それぞれの表現型や解剖学的な部分を発生させているのか。第二に、ヒトゲノムをもとにして疾患を予測すること。ゲノムとそのすべての表現型の対応関係をつけること。第三に、ヒトゲノムを意図的に改変すること(p.328-334)。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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