

遺伝学の歴史を描いたもの。こうした学問の発展の歴史は錯綜したものだが、本書ではそれらをかなり整理して見通しよく書いている。ある課題が解決されることで別の課題圏が拓け、それを解決するように挑戦がなされる、といった様子。よく見れば年代的には戻っていたりするが、うまく筋が通るようにしている。なお、著者の家系には精神病の遺伝があるらしく、その話がたまに出てくるがあまり本筋には関係ない。
話はピタゴラスとアリストテレスから始まる。精子が身体中を巡ってその時の形質を集めてくるというピタゴラスの話は、ラマルク主義を思い起こさせる。アリストテレスは精液がコードされた情報を運ぶというアイデアを出している。生殖細胞が情報を物質へとコードしているというのは遺伝子の考えのもっとも原型。DNAの発見したのはアリストテレスと言っても過言ではないという話もある(p.41-45)。
そこから時代は飛び、メンデルとダーウィンが前半のメインになる。メンデルの不遇な人生と評価されない研究。ダーウィン(とウォレス)はマルサスから自然選択のアイデアを得る(p.61-65)。ダーウィンとメンデルのすれ違いは面白い。ダーウィンは植物の交雑に関する本を読みながら、メンデルの論文に言及したページは(前後のページには膨大に書き込みをしているものの)深く考察していない。メンデルの考察を読み飛ばしたダーウィンはパンゲン説という誤った仮説にたどり着く。パンゲン説は、両親の特徴が混じり合う融合遺伝(父母から1/2づつ、祖父母からだと1/4づつといった連続量)を主張する(p.74f)。メンデルが発見したのは、遺伝とは連続量の混ざり合いではなく離散的で単位があり、単独の形質が遺伝したりしなかったりするということだった。
19世紀末には遺伝という問題はフェルマーの最終定理のように、神秘的とも言える魅力を放っていたという。ダーウィンは遺伝の謎を解き明かしたと宣伝していた。しかし、遺伝理論は明らかではなかったし、ダーウィンも結局、理論を明らかにしないままだった(p.90)。1900年春には三人の研究者、ド・フリース、コレンス、フォン・チェルマクがメンデルの業績を再発見する。分割できない遺伝情報、遺伝の単位というメンデルの業績(p.93-95)。このメンデルの考えが認められていくにしたがって、学術界には衝撃が広がっていく。1905年にはベイトソンがGeneticsという命名をなし、1909年にはヨハンセンが遺伝単位にgeneという名を与えた(p.97-99, 110)。
遺伝学の勃興は優生思想を生み出す。それは影のように遺伝学の発展に寄り添う。ゴールトンの記述はちょっとかわいそう。いとこのダーウィンと張り合おうとして空回りしている感じ。優生思想といえばナチスが有名だが、それ以前にはアメリカで隆盛する。アメリカで精神異常を理由にした断種手術が行われる。メンデルの最初のエンドウマメ実験から、アメリカの裁判所による断種手術の認可の間には62年間しか経っていない。この間に遺伝子は植物学の抽象概念から、優生学として社会を統制するための強力な道具へと変貌を遂げた(p.129)。
遺伝情報をコードする単位が存在することが明らかになり、遺伝学が誕生する。しかしその物質的基盤は不明のままだった。1905年頃からアメリカのトマス・モーガンがショウジョウバエを使った研究を始める。ショウジョウバエはその後、遺伝学においてモデル生物として大きな役割を果たす。そしてモーガンは、遺伝子が染色体に存在することを突き止める(p.139-145)。1930年代にはドブジャンスキーが、野生のショウジョウバエの変異体を根気よく観察し、表現型は遺伝型だけで決まるのではなく、環境、誘因、偶然が要因としてあることを見出した。これによりドブジャンスキーは、ダーウィンが魅せられていた謎の中の謎、つまり種の起源の謎を解くことになった(p.154-160)。
そしてこの1930年代にはナチスが優生思想を取り入れる。ナチスは大量虐殺という自らの政策を実行に移し、正当化し、維持するために、遺伝子と遺伝学の語彙を用いたのだ(p.183)。ナチスが遺伝学に残したものは二つある。一つは、双生児研究。双生児には一卵性と二卵性の区別があることを明らかにした。また、双生児研究では同じ形質を持つ確率である一致率を見ることを定式化した。ただしもちろんながら、メンゲレの残酷で無意味な実験を忘れてはならない。二つには、ユダヤ人追放による諸外国への科学者の供給、特に物理学者の生物学転向がある。シュレーディンガーの『生命とは何か』が与えた影響は大きい(p.187-193)。そもそも優生思想を危険なものとして明らかにしたことが遺伝学へのナチスの遺物かもしれない。
核酸の存在や、DNAとRNAの区別、塩基の種類はすでに1920年代初頭までに分かっていた。これは個人的に意外だった。こうした研究はありつつも、それらの構造や機能は不明だった。1940年、エイヴリーが核酸が遺伝情報を担うことを突き止める。それまで研究者たちではタンパク質が遺伝情報を担うという仮説が大勢を占めていた(p.196-201)。酵素などを見れば分かるようにタンパク質は多様な機能を担えるわけで、仮説としては自然なものだっただろう。
そして次に、クリックとワトソンによるDNAの二重螺旋構造の発見に話が及ぶ。ここは特によく書けている。1950年から1953年にかけて、DNAの構造の発見に至るまでのレースが描かれる。ロンドンのウィルキンズとフランクリン、ケンブリッジのクリックとワトソン、カルフォルニアのポーリングを追っている(p.206-230)。DNAの構造発見についでは、クリックのセントラルドグマ発見に至る研究が扱われる(p.238-249)。ただし遺伝子からタンパク質に至る中間のメッセージ分子(mRNA)があるはずだとの仮説が、そもそもなぜ立てられたのか背景が説明されていない。
セントラルドグマが得られれば、遺伝子からどうタンパク質が発現してくるかを問う発生学の問いが大きくなってくる。DNAを中心とした遺伝子の機能の研究を追い、遺伝子の生理機能は3つにまとめられる。遺伝子の発現を調整する調整因子のタンパク質を作ること。遺伝子を複製するタンパク質(DNAポリメラーゼ)を作ること。遺伝子の組み換えを行い、変異体を作ること。これらはRegulation、Replication、Recombinationとして3つのRにまとめられる(p.262-265)。
しかし1960年代末、遺伝学は行き詰まっていた。実験科学は系に撹乱を与え、その効果を測定する能力に依存する。この時点では、遺伝子にX線を照射してランダムに変化させるしかなく、意図的に遺伝子を操作することはできなかった。また効果を読むには、形や機能の変化を観察するしかなかった(p.318)。この事態を打破するのが、遺伝子改変の技術と、DNAポリメラーゼによるDNA読解法だ。
1960年代なかば、ケンブリッジのシドニー・ブレナーが線虫C.elegansを使った研究を始める(p.277f)。線虫のすべての細胞を遺伝子まで追っていく研究。遺伝子の構造と機能が解明されてくれば、それを操作してみる試みが生まれる。ウイルスの遺伝子を改変して遺伝子導入を行う研究が生まれ、遺伝子工学へつながっていく。1970年、スタンフォードのバーグによるシミアンウイルスSV40の組み換えDNAの研究(p.294-300)。
こうした遺伝子改変技術は、研究者のなかで疑念を生んだ。危険な生物を生み出しかねないと。倫理面の懸念が生物学者のなかから自発的に高まり、アシロマ宣言(1975年)に至る過程が書かれる。またアシロマ会議は別の展開を生む。アシロマ会議に出席した科学者リストをアルファベット順にたどっていた投資家ロバート・スワンソンが、バーグに話をしに来る。ビールを飲みながら話しこみ、この話がジェネンテック設立へ至る。インスリン合成を当初の目標とするが、最初はサイズの小さなソマトスタチンのDNA合成から始まる(p.342-348)。
上巻はこうしてジェネンテックのIPO(1980年)で終わる。ワトソン・クリックあたりまでだろうと思っていたので、意外に先まで進んだ。下巻もほぼ同じページ数なので何が書かれるのだろうか。
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