fc2ブログ

Entries

杉山正明『クビライの挑戦』


これまでのモンゴル帝国のイメージを覆そうとする刺激的な一冊。13~14世紀に渡ってユーラシア大陸のほぼ全域で勢力を誇ったモンゴル帝国は、その後からすると野蛮な侵略者とのイメージがある。日本では元寇の印象が強いだろうが、一般人がもつイメージもおおよそ野蛮のようなものだろう。特に被征服側であった中国のイメージは、南宋が滅ぼされ、その後に明が再征服したこともあって、いっそうそうした侵略者のイメージ。

しかしながら実際は、南宋の首都である杭州、イランのホラズム・シャー国、中央アジアのいずれにおいても、通説で言われるようなモンゴル軍による虐殺や都市の破壊の証拠はない。野蛮なモンゴルという安直なイメージに寄りかかった歴史家たちの幻想である(p.25-38)。実態はむしろ真逆に近い。本書は第5代のカアンであるクビライ(膾炙した言い方ではフビライ・ハーン)を中心に、その経緯と国家戦略に迫っている。

クビライまでの転換点は、1260年に置かれ、世界史を変える年とされる。西方ではモンゴル軍がパレスティナでマムルーク朝エジプトに敗れる(アイン・ジャールートの戦い)。この後、フレグはイランにとどまり自立し、フレグ・ウルスが成立する。これに対し、その北にあったジョナ・ウルスが対立の姿勢を深める。ジョナ・ウルスの君主ベルケがイスラーム信仰に熱心だったこと、キプチャク族を背景にしていたことから、マムルーク朝(同じくキプチャク族出身でイスラーム)と同盟を結んだ。これに対し、フレグ・ウルスはキリスト教世界に友好を求め、西方地域が再編成される。こうした西方での状況に対して、東方では前年に四川でモンゴル皇帝モンケが急死し、クビライの時代が始まる(p.75-94)。1260年前後のモンゴル帝国の各地の独立により、モンゴルは多極化する。それにあわせ、ユーラシアの各地域も自他を意識して活動する新たな時代に入る(p.133)。

クビライは大カアンとしてモンゴル帝国のトップであるが、東アジアを中心に活動する。中国北部の各部族をうまく活用しつつ、南宋を攻略していく。南宋攻略には特有の難しさがあった。南宋の支配地域は海のような長江を始め、様々な河川、湖沼に守られている。それら水運を活かした常備水軍が存在する(内陸国家の大艦隊としては類を見ない)。モンゴルにとっては南への移動となり、西への移動とは違い気候の変動が大きい。金と南宋の長期に渡る対立により、国境線地帯が広く不毛の荒野となっていた。江南都市は厚く高い障壁と深く広い水壕によって防御能力が高かった(p.178-185)。これに対して、自身も水軍を整備しつつ、都市を直接攻めるのではなく城壁で囲って持久戦に持ち込んでいった。

重要なのはクビライの国家戦略の方だ。クビライのブレーンには漢人もムスリムもおり、多様な人材を適材適所した(p.114-117)。この多様性がモンゴル国家の鍵となる。草原の軍事力による権力の維持、中華の経済力による富の分配、ムスリムの商業力による物流と通商という3つの融合。これがクビライとそのブレインたちが構想した大統合のプランであった(p.146-149)。クビライの国家でとりわけ注目すべきなのは、軍事力の支配に頼らず、むしろ経済の掌握こそを国家運営の主軸に据えたこと(p.218-220)。中央政府の収入の80%以上は塩の専売によるもの、さらに商税が15%以下あった。通過税は課さなかったし、農業収入は地方政府のものだった(p.225-230)。軍事力によって治安を安定させ、ムスリム商人を中心として通商を盛んにし、商業を発展させる。それにより国家も潤うという、重商主義的な国家。クビライは1266年から帝都、大都(現在の北京)の建造を始めた。その形式は中華風だが、中央部には湖があり運河で外とつながっており、物流拠点でもある点で中国国都とは異なる。クビライの国家そのものと同じく、見かけと実質が異なる(p.159-173)。

こうして、モンゴル時代後半の世界は、近代以前では珍しいほどに、イデオロギーのない、合理主義、現実重視だった。しかも異なる文化や価値観に対して寛容だった。国家、国境、民族、人種もすべてがボーダーレスとなった時代だった。こうしたことは20世紀になるまでは無いと評価される(p.270f)。13世紀はモンゴルの時代であり、モンゴルによってユーラシア大陸の文明圏は互いに結び付けられた。この時代に初めて、世界が一つのものとして考えられ、世界史が一つの全体像を持つようになった(p.13-16, 73)。マルコ・ポーロ(と呼ばれる何らかの人・集団)やイブン・バットゥータはこうした確保された通商路を行き来したのであり、またこの通商路を下地にして後の鄭和の遠征や、大航海時代のヴァスコ・ダ・ガマなどの航海も可能になった。

モンゴル帝国の崩壊は1330年代から徐々に始まっていく。これは14世紀の世界全体を襲った異常気象やペストにもよる。しかしクビライとそのブレーンたちの構想が時代を先取りしすぎたことに求められる。その政治経済体制を支える技術力、例えば動力、通信手段などの水準が低すぎたのだ(p.272-277)。

モンゴルの研究は西方ではペルシャ語文献、東方では漢語文献を中心として、20数カ国語に及ぶ原典を駆使するという(p.69-71)。日本における研究の寄与は大きいが、漢語に親しみがあることや、後の時代のイデオロギー的先入観が少ないことがその要因だろうか。ちなみに弘安の役について、この役でモンゴル軍はほとんど武装していないとの話が載っている(p.205-212)。武装兵は全体の10分の1で、その実態はどちらかというと移民船団。その歴史的意義は、これだけ(10万人と言われる)の大人数の船団が外洋を渡ったことにある。これは史上、類を見ない。しかも、『元史』ではなく碑文資料など資料を拾い集める限り、モンゴル軍は「颶風」による大打撃ではなく、ひろく無事に帰投している。このあたりは別途、詳細が知りたいところ。
スポンサーサイト



この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://exphenomenologist.blog.fc2.com/tb.php/1193-65a3a1ff

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

別館:note

検索フォーム

QRコード

QRコード