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呉座勇一『応仁の乱』


有名な本。細川勝元と山名宗全の対立、あるいは日野富子と足利義政・足利義視という軸で教科書的には語られがちな応仁の乱について新しい視点を開いたベストセラー。応仁の乱をあえて京都の人間の視点ではなく、大和の興福寺に属する高僧、経覚と尋尊という二人の日記を元に記述している。この経覚の日記『経覚私要鈔』は最近刊行されたもの。新資料をメインに使うことにより、荘園領主層の多面的評価を行っている(p.136-138)。また、筆者の上の世代の歴史解釈を支配したマルクス主義的歴史観への批判も、本書の底流となる。

まず応仁の乱に先立つ、興福寺の状況から始まる。興福寺の2つの門跡、一条院と大乗院は1351年の両門跡確執を契機として争いが激化し、分裂した。お互いに衆徒・国民を自派に引き入れそうと恩賞を競って与えた。両門跡の抗争が、衆徒・国民を歴史の表舞台に引き上げた(p.10-12)。こうした地方武士が、大和地域の攪乱要因となる。後南朝の小倉宮を担いた北畠満雅と、それに呼応した有力武士の沢・秋山を抑えるため、興福寺は幕府の協力を仰ぐ(p.26-30)。まさに大和を火薬庫として京都が巻き込まれていく。

特に経覚は傍観者というよりは、積極的に状況に関与し、興福寺の安定を図る。嘉吉の変による足利義教の殺害後、盛り返す畠山持国と経覚。大和を安定させていた筒井氏の分裂と、経覚による攻撃。筒井氏は勝利したり、敗北したり目まぐるしく状況が変化する(p.48-58)。ここで筒井氏を排除するものとして、畠山氏が大いに力を得てくる。畠山氏が応仁の乱でメインの役割を果たす。

ときの将軍、足利義政は優柔不断であり、管領の細川勝元に左右される。一方で畠山氏は分裂し、畠山義就と畠山政長というキーマンが現れる(p.60-64)。足利義政の後継として、1464年に足利義視が還俗する。この時期の幕府には伊勢、細川、山名の3つの政治勢力が並び立っていた。1466年、斯波氏の家督問題に絡んだ文正の政変で伊勢貞親が失脚し、細川勝元と山名宗全の対立図式が生まれる(p.72-76)。

1467年、足利義政は畠山義就と畠山政長の係争を一対一の対決で解決しようとした。畠山政長を支持する細川勝元は命令に従って加勢しなかったが、政権奪取を目指す山名宗全は兵を送り、畠山義就が勝つ(御霊合戦)。このことは細川勝元の恨みを買い、大きな禍根を残した(p.84-87)。結論として、応仁の乱のきっかけは畠山義就の上洛であり、時代を決定的に悪化させたのは御霊合戦への山名宗全の介入である(p.256)。

こうして応仁の乱が始まる。こういう大乱にはよくあるが、誰も戦線の拡大を望んでいないのに戦乱が悪化していき、そして講和のタイミングを失ってしまう。著者は第一次世界大戦に言及するが、太平洋戦争などもそうだろう。1467年(応仁元年)、細川勝元の東軍は足利義視を総大将として、山名宗全の西軍に総攻撃を開始しようとしたが、東軍から降参するものがあったため中止。これが終戦のチャンスだったが、戦果を求める東軍、そして固有の権力基盤を持たないために軍功が必要な足利義視により、その芽は断たれる(p.96-98)。

他にも、1468年、伊勢に下っていた足利義視を足利義政が呼び戻すが、義政は義視を追い詰めるような行動を取り、義視は比叡山に逃れたのち西軍につく。ここに西軍も将軍を擁立するという最悪の事態に至る。この義政の行動は理解に苦しむが、強いて言えば権力基盤を持たない義視を侮っていたのではという(p.102-104)。こうした有力者たちの思い違いもあるが、井楼、構(環濠)といった防御側に有利な戦法が普及したことも、戦線が膠着した一因である(p.105-109)。本書はあまり政治以外の事柄を扱わないが、戦術、兵站といった観点も忘れてはならないだろう。

1471年、疱瘡と赤痢の流行が厭戦気分を高める。山名宗全、細川勝元の両軍大将は引退し、講和に向けた様々な噂が飛び交う。しかし、東軍では畠山義就、大内政弘に、西軍では赤松政則に終戦の動機がない。そのため大乱はだらだらと続く。終戦講和はなったが、山名と細川の間でしかない。この後、西軍は足利義政打破でなく反細川となっていき、応仁の乱は新たな局面を迎える(p.180-191)。すなわち、「山名宗全と細川勝元という両軍の総帥が没し、山名・細川両氏の間で和議が成立したにもかかわらず大乱が続いたのは、あくまで畠山政長打倒を目指す畠山義就が反細川の大内政弘を巻き込んで徹底抗戦したからである」(p.190f)。

ただ越前の朝倉氏と斯波氏を巡って東軍が勝利するなど、状況は西軍に一方的に悪くなっていく。ついに1477年、畠山義就が京都を出て、京での戦乱は終わる。しかしすぐに義就は河内国をほぼ制定する。畠山義就は守護家に生まれた御曹司ながら、 応仁の乱が始まる前から幕府の大軍を向こうに回して孤軍奮闘している。幕府の権威を物ともしない、最初の戦国大名の一人とも言えるとの評価(p.204-207)。

本書は京都での戦乱が終わった後の、畿内各地での状況を追う。応仁の乱のあと、山城国をめぐる両畠山氏の対立と、それに対抗した南山城の国人たちによる山城国一揆。南山城撤収を契機として1486年、畠山義就は赦免され、ここに応仁の乱の戦後処理が完了する(p.221-225)。一方、大和が応仁の乱でほとんど戦場にならなかったのは、興福寺の権威が健在だったから(p.143)。

一方、将軍家では1485年、奉公衆と奉行衆を代理とした足利義政と足利義尚の対立が起こる(p.229-232)。この対立はそれぞれの後継者に絡み、1493年、細川政元によるクーデターでの足利義材に対する足利義澄の定立(明和の政変)へ至る。ここから二人の将軍が並び立つ時代が始まる。臣下が将軍の廃立を実行した明和の政変は下剋上の極みであり、戦国時代の幕開けと理解することができる。応仁の乱ではなく、明和の政変が戦国時代の幕開けとされるべき。しかし、別の将軍を擁立するというアイデアはもともと応仁の乱の西軍のものであり、細川政元はそれを模倣しただけ(p.241-248)。

後半はちょっと抽象化が足りないような印象も受ける。大きな評判になった割には、私はそんなに目新しさを覚えなかった。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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