

稀代のチェリストであるパブロ・カザルスの生涯を簡潔に書いたもの。カザルスについては、カタルーニャ人としてのこだわりや、演奏技法上の革新も重要な点だが、それらはそこまで強調されてはいない。分量もあり、あくまで簡潔にどういう人かを紹介している。
カザルスがキャリアを積んでいくには、母親ピラールの役割がだいぶ大きい。父親カルロスは、将来、金にならないからと音楽の道に進むのを反対する。しかしパブロは意志の強い子供であり、母親は支持した(p.19-21)。16歳の多感なカザルスは経済格差にあふれる現実を受け入れられずに深い憂鬱に。母はアルベニスの推薦状を使い、マドリードの宮廷でモルフィ伯爵のもとへ一緒に行く。ただのオペラ作曲家になってしまうとして衝突して、ブリュッセル王立音楽院へ行く。教師と対立し、パリの劇場チェリストになる。生活に困窮し、1895年にバルセロナに戻る。バルセロナ市立音楽学校の教師になる。ここまで母親は行動をともにしている。カザルスが音楽教師になったのを見届けて、父親の暮らすエル・ベンドレルに戻っている(p.26-37)。
サンフランシスコのタマルパイアス山での落石事故と4ヶ月の左手のリハビリ(p.41f)といった、キャリア上の危機を乗り越え、世界的に活躍。フランコ政権、ナチス政権、ソビエト共産党政権といった独裁政権への拒否、勤労者音楽協会といった民衆のためのオーケストラ(p.55)の発想は、多感な青年期から持つ民衆への目線なのかもしれない。
ただ、フランコ軍から迫害されながらも、自宅は略奪されていないし、家族に危険は及んでいない。弟エンリケはバルセロナに住んでいるし、フラスキータ・カプデビラを埋葬しに1955年、カタルーニャに許可を得て帰っているといった点(p.62f, 87)には注意すべきだろう。後半ではプラードでのバッハ音楽祭を詳細に扱っている。
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