fc2ブログ

Entries

佐藤俊樹『社会は情報化の夢を見る』


本書は1996年に別の題名で刊行された書籍の増補改訂版。前の版はその昔、読んだ記憶があるが内容は覚えていなかった。情報技術によって社会が変わる、という情報化社会論について論じたもの。こうした議論は、その都度の時代の情報技術として何を持ってくるかで内容が変わる。したがってメタ議論であるこの本も、時代に依存するように見えるが、改訂作業をしてみたら驚くほど論旨そのものは変わらなかったという。それは情報化社会論そのものが中身を入れ替えても成立するような、実は空虚なものであることを示している。と同時に、そうした情報化社会論を批判した旧版が浸透しなかったという残念な事実も示している。

情報化社会論は時代によって形を変え、再生される。エキスパートシステムが社会を変える、オフコンからパソコンへの移行が、第五世代コンピューターが、インターネットが、モバイル端末が、ユーザーが情報を発信するWeb2.0が、云々。いまでは機械学習と5Gあたりが情報化社会論のネタになっている。短絡的な技術決定論に陥らないように、この本を押さえておく必要があると思い読んだ。

著者がいくつもの例を挙げて詳説するように、またちょっと考えてみれば分かるように、技術ができたことで社会がそのまま変わるわけではない。情報化社会論が取り上げる技術はたいがい、先端的なユーザが使っているものだ。こうした技術は、普及すると論じる価値が感じられなくなる。一方で、先端的なユーザの職業や生活習慣などの社会的文脈はあまり取り上げられることがない。しかし技術かどう使われるかは、むしろこうした社会的文脈が決めるのだ(p.25f)。情報技術が情報化社会を作り出すのでなく、社会の仕組みが情報技術を発展させ、情報化社会を作る(p.203)。すなわち、情報技術と情報化社会の間には因果関係はなく、交絡因子として社会の仕組みがあるわけだ。

それはそうだろう。技術がいかに完成していたとしても、社会的ニーズが無ければ普及しない。むしろ人々は、もともと変わっていく方向があって、その方向に進むに適合するたまたまその時にある技術を採用するのだろう。例えば、グーテンベルクの活版印刷による書物の普及が近代的個人を生み出した、というマクルーハンの見解に基づいたメディア社会論の議論が流布している。しかしグーテンベルクが活版印刷の発明者なのではなく、木版印刷なら8世紀の中国、金属活字でも1377年の高麗にある。だがその時代の中国や高麗で近代的自己が生み出されたかと言えば、そうではない。メディアは様々な使われ方をするのであり、メディアをどう使うかという社会の仕組みこそ問題だ(p.106-109, 144-146)。

グーテンベルクの活版印刷なんて古い話ではなくとも、例えばコミュニケーション技術の進展が企業組織、企業内コミュニケーションを変えるなんて話もある。古くはテレックスやファックス、そして電子メール、グループウェア、テレビ会議システムなど。しかしメディア技術を変えただけで組織が変わるわけではない。組織の社会的条件と衝突するメディアは、導入されても使いにくいものに終わる。メディア技術の浸透は、どのようなコミュニケーション形態を組織が前提としているかによる。組織のコミュニケーションを変えるのはマクロ社会構造的条件(国際化とか多様な働き方とか)のような、社会全体のレベルの仕組みの変化のほうだ(p.175-196)。Slackを導入すればフラットで迅速なコミュニケーションが行われるようになるのではなくて、単にSlackが使われないで終わるだけだ。

こうした社会的文脈が情報化社会論ではなぜ見えなくなるのか。情報化社会論は未来における技術予測をしている。技術予測には技術そのものの実現時期の予測と、社会普及の予測がある。前者は純粋に技術の観点で語れる。後者は社会ニーズを予測しているに等しい。情報化社会論は技術決定論に立っているから、この社会予測を正面切って検討することはない。暗黙のうちに、曖昧な未来社会イメージとして社会予測を持ち込んでいる(p.55-61)。そのために、様々なアナロジーが使われる。例えば、コンピュータも社会組織も、人間の身体や認知の仕組みをアナロジーにしている。このアナロジーを介して同一視され、情報技術の進展がそのまま社会を変えるように思われている(p.61-75)。人間の認知機能を情報技術で代替するAI的アナロジーが使われている(メモリ=記憶、ネットワーク=神経網)。情報化社会論は、AI的アナロジーを使って情報技術と社会の関係を強引に技術決定論に読み替えてきた。その結果、「情報化社会」は空虚なものになっている。情報化社会の到来は、50年間言い続けられている。言い続けることができるのは情報化社会、情報化が生み出すはずの新たな社会の仕組みに実態がなく空っぽだから(p.40-50)。こうした空虚な議論に陥らないための教訓は3つある。先端技術ではなく身近な技術を扱うこと、技術が採用される社会的文脈を考えること、そして、分からないことは分からないと言うこと(p.81-83)。

本書が論じているのは、単にこうした情報化社会論の空虚さへの批判だけではない。空虚な情報化社会論が必然的に生み出されてくるメカニズムを論じている。著者によれば、情報化社会論は近代産業社会の構造そのものから生まれてくる。情報技術の上に未来社会の予兆や最先端を発見する態度自体が、近代産業社会のなせる業なのである(p.30-32)。

すなわち情報化社会論そのものは、つねに新たな技術を生み出していく産業資本主義のメカニズムと、技術によって社会を制御することができるという近代の社会制御の理想から生まれる、神話、幻想である。実際は社会の問題であるものを、科学技術という外的なものに置き換えている(p.210-216, 235-237, 244f)。産業資本主義は次々と技術革新を起こしていくことが本質的に含まれている。日常生活は技術革新で断続的に変わっていく。日常生活と、容易には変わらない社会の仕組みは区別される(p.209f)。私たちが情報技術が社会を変えるという神話を信じたいと願っているかぎり、その神話は供給されつづける。情報化社会論の言説を売って儲ける情報化社会産業は、この幻想をほとんど意識もせずに、きわめて産業社会的なやり方で利用している(p.240f)。かくして情報化社会論は手を変え品を変え、再現される。

情報技術で近代的な個人の概念が揺らぐという話題も多い。自由で自律的な意思決定を行う主体という個人の概念だ。だが個人という概念はもともと揺れ動いている。個人は情報処理機能がどこにあるかという物理的問題ではなく、どんな物体にどういう形でメタ自己を認めるかという社会的な取り決め、社会制度である。これは自由選択、自己責任の原則をどう運用するかの社会の問題であって、技術の問題ではない(p.131-138)。なお、エコロジー思想を、自己責任主体の拡大という論点と絡めて論じている箇所は違和感を持つ。責任を負える道徳的主体と、道徳的扱いを受けるべき被道徳的主体が混同されているように見える。ロボットの自己も本当はこの区別の上で論じられる(p.138-142)。チューリングテストは思考しているか否かの判定の曖昧さを、テストが終わったか終わってないかの判定の曖昧さ(というより決定不可能性)に置き換えたもの。これはテスト手続きの曖昧さというより、人間かどうかは事後的に撤回可能という点で、事象そのものにある曖昧さだ。ちなみに、この論点は初版刊行時から15年経ってあまり語られなくなったと著者は書くが、AIやロボットとの絡みで最近はまた復活していると言えるだろう(p.283-291)。

結局、情報化社会論は技術と社会を同時に語るマジックワードを用いているが、これは止めたほうが良いということだ。まず、社会を描くのに必要な精度が持てない。次に、技術の用語は社会の環境としての技術を描くために使うべきで、社会そのものを描くためのものではない。マジックワードの使用は、短絡的な議論につながってしまう。こうしたマジックワードが使われる理由は3つあり、社会を語る術語が貧しいこと、技術も社会も両方語れた気になって便利なこと、社会を変えたい願望を技術に託した救済願望であること。一番目は社会科学の人間が頑張るべきことだし、二番目は便利で、受けがよく売れる別の言葉が提供できればいい。三番目は、私たちは願望とそれが生み出す幻想を見つめなければならない、というところで著者は終わる(p.293-301)。反省的自己という近代的な個人に訴えるわけだが、このあたりが、本書を読んで「それで、どうすればいいのさ」「Whyは分かったけどSo Whatは何」という印象の元だろう。
スポンサーサイト



この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
https://exphenomenologist.blog.fc2.com/tb.php/1079-6d9e16c0

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

別館:note

検索フォーム

QRコード

QRコード