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クリスチャン・マスビアウ『センスメイキング』


データさえ見れば何でも分かる、これからはSTEM教育こそ大事、などの単純化されたデータ礼賛、自然科学礼賛の向きに対して、ビジネスにおける人文社会科学の必要性を説いた珍しい一冊。私自身も長く哲学を専攻しつつ、現在はデータ分析の世界の末席に身を置いているので、興味を持った。著者も大学で哲学を専攻している。また、哲学や社会学など人文社会科学系の人々を集めたコンサルティングファーム、ReD Associatesを経営している。この本にはファームで支援してきた企業の話も多く含まれ、つまりはファームの宣伝本の役割を果たしていることに注意。

人文系の知識が必要だといっても、単に教養のある人間になりましょう、という話ではない。自然科学的な手法に頼り、人間を物理法則や機械的メカニズムだけで説明しようとすると、大事な部分が抜け落ちるという。こうした自然科学の法則では理解しきれない知識に対して、私たちの感度が鈍ってしまう(loc.278)。その大事な部分とは、人間の文化だ。「自然科学に取り憑かれて凍り付いてしまった文化は、もはや文化の名に値するかどうかも怪しいと言いたい」(loc.3949)。

別に自然科学か人文社会科学かという二択を迫っているのではない。本書は人文社会系の知識の必要性を説くあまり、二者択一のような記述になるところもあるが、それは対比を明確にするためだろう。私たちの行動はどうしても自然科学や技術では説明しきれないものが残る、と主張している。技術者、数学者、ソフトウェア開発者はもちろん必要だが、「同時に才能あふれる詩人や歌手、哲学者、文化人類学者も欠かせない」(loc.3989)。必要なのは多様性だ。

人文系の知識は実際、ビジネスでも「役に立つ」し「儲かる」。平均でみると理系出身者のほうが収入が高いが、年収トップの10%をみると圧倒的に人文系の出身者が多い(loc. 294-318)。それは何故かと言うと、人文系の知識は自分とは違う世界のあり方を想像できるようにするし、それは巡り回って、自分の世界をより深く理解することにもなる(p.387)。人間は世界のなかに存在するのであり、同じく世界に存在する他人に関心を寄せ、気遣う。これはアルゴリズムにはできないことだ(loc.4035)。ここにはハイデガーの、現存在の実存的性質としての気遣い(Sorge)が引き合いに出される。しかし私たちは生物として当然、同類を他から区別し関心を寄せるだろうが、これはただ進化的にコードされているだけで、望むならいかなるアルゴリズムにも組み込めばよいだけに思う。

人文系の知識を活かし、人間を理解すること、文化的な探求。その手法が著者の言うセンスメイキングだ。その言葉は、理解する(make sense)から来ているのだろう。センスメイキングはアリストテレスのフロネーシス(実践知)に起源をもつ、人文科学に根差した実践的な知の技法である。センスメイキングはどこまでも具体的なものについての話。これは、具体的なケースを捨象した、抽象的なアルゴリズム思考の反対の概念として位置づけられる(loc.495-499)。

しかしセンスメイキングについてきちんとした定義はこの本には見当たらない。またその方法論についても、具体的にはあまり語られていない。それは本書が著者のコンサルティングファームの宣伝本でもあるからだろう。興味があり、具体的に話を聞いてみたり、サービスを受けてみたければ、ぜひご連絡を、ということだ。

さて、こうしたセンスメイキング、他人の振る舞いや物事の捉え方を理解する助けになるのが哲学だと著者は言う。なかでも、本書でメインに扱われるのはハイデガーである(loc. 530, 1092, 2127)。例えばハイデガーは存在論的了解で現実の捉え方を変えた。現存在は世界内存在として世界につねに企投されている。事物は孤立した個体として現存在に現れるのではなく、道具的連関のもとで現れてくる。したがって、例えば自社の商品と顧客のことを考えるなら、ただの商品としてではなく、顧客がその商品に触れる時の意味連関を捉えなければならない。人間の行動を理解しようとすればその文脈、意味の連なりを観察しなければ分からない(loc.1282)。

こうした考え方は、顧客体験や、UXを重視する考えと親和的だろう。結局、顧客は人間だ。ということは人間が物事を理解するその様を捉えなければならない。理解すべきは現実にそこで生きている顧客であり、データや、まして統計的に推定された母集団の傾向ではないのだろう。「そろそろ間違った抽象化に頼りきるのはやめて、豊かな現実にどっぷりと浸かってみてはどうだろうか」(loc. 1993)。意味連関から切り離された単なるデータポイントとしての事実は、無意味で不完全なのだ(loc. 983)。とはいえそれは、データの側から言えば、単に変数が足りないだけだとも言える。

単なる事実の羅列ではなく、事実の意味連関、「文脈」を捉えたデータがセンスメイキングには必要で、これを著者は人類学者クリフォード・ギアツを引いて「厚いデータ」と呼ぶ(loc. 634)。データ分析で扱われるようなデータは、私たちの行動から私たちを理解しようとするための「薄いデータ」だ。厚いデータは、私たちが身を置くさまざまな世界とどういう関係を築いているかという面から理解するためのものだ(loc. 668)。とはいえ厚いデータの定義はとても曖昧であって、これまたきちんとした定義は本書にはない。

センスメイキングがもたらすものは、まず厚いデータの収集の仕方だ。どういうデータを、何のために、どのように集めるのか。まだ次に、データを上手に組み合わせて何かを的確に語らせるための切り口をもたらす。厚いデータから一貫した意味連関を読み出すための技法だ(loc.808)。詳細は企業秘密である。

さて著者は厚いデータに向き合うのが、現象学だという。現象学では、人間の行動を抽象的な数字の羅列として捉えるのではなく、社会的文脈に存在するものとして観察する(loc.697)。抽象的なフレームワークを用いたり、物理的な性質として捉えるのではなく、社会的文脈を考慮する。著者は動物園のライオンと、サバンナの野生のライオンを対比して、真実を語るのは後者だ、それを見出すのが現象学だという。

といったところで、かなり大きな違和感を持つ。現象学は存在者が成立する現場を扱うもので、それが人間かどうかは問題ではないだろう。動物園のライオンも、サバンナのライオンもどちらもライオンであって、そのどちらが「正しい」とか区別をつける以前に現象学はある。哲学を、こうした人間が世界を捉える仕方、として考えるのは、まさしくハイデガーやフッサールの批判した世界像としての哲学だ。そして何よりも世界内存在としての現存在の存在様態は、非本来性の領域で頽落したものなのだが、こうした論点は本書には皆無だ。実は著者がハイデガーと言っているのは、ドレイファスの認知的解釈のそれである。著者はだいぶドレイファスの影響を受けているようだ(loc. 1390, 4039)。

現象学については、かのレーモン・アロンのカクテルのエピソードが予想通り出てくる(loc.1995)。現象学ならいまここにあるカクテルグラスについて語れるとアロンが述べ、サルトルがショックを受ける有名な話だ。そしてこの話を引く人には予想通りだが、形相的還元の手続きを無視している。現象学はいまここにある事物について直接語ったりはしない。サルトルがなぜショックを受けたのかは、当時のフランス思想における、ヘーゲルの影響や実証主義からの離脱、という歴史的文脈を踏まえる必要があるだろう。

センスメイキングの例は、著者がコンサルティングとしてサービス提供した事例からいくつも書かれている。けれども疑問に思うものも多い。例えば、夕食の献立を考えてからスーパーマーケットに来る人は少なく、みんなその場で決めている、ということが分かったなんて話があるが、これを明らかにするのが現象学だとは到底思えない(loc.2288-2320)。ジョージ・ソロスがポンドの空売りで成功したのは人文社会系の思考に慣れ親しみ、社会的文脈を読んだからだ、ソロスのアプローチこそセンスメイキングだと言いたげな記述が長く続く(loc. 1499-1767, 1800-1876)。これなどは特にそ生存バイアスを思わせる。金融投資の世界なんていくらでも死屍累々の世界であり、数々の失敗例も検討せずこのような記述をするのは極めて危うい。またセンスメイキングの達人として、交渉術に長けた人が紹介される。ここまで来ると、もはや人文社会系の理論を学んでという話ではなく、単にコミュニケーション能力に極めて秀でた人というだけだ(loc.3248-3598)。

さらにまた、センスメイキングにおける人文社会科学の6つの理論的フレームワークの応用例が列挙されているところもある(loc.2408-2505)。記号論(ソシュールか?)、ラクラウとルフの談話理論、ルーマンの社会システム論、ゴッフマンのドラマツルギー、サーリンズの互酬理論、ウィトゲンシュタインの言語論(「石版!」)。だがほとんどにおいて理論を応用してるとは言い難い。記号論は、記号とそれが表すものは違うというポイントだけ。ウィトゲンシュタインのケースは特にひどい。中東のデンマーク大使館が放火された原因を調査するに、固定観念にとらわれずまず虚心に見ることで成功した、としてウィトゲンシュタインの"Nicht denke, seh!"を引いている。

本書の裏のテーマとも言えるのは、シリコンバレー文化批判である。シリコンバレーのアプローチはセンスメイキングの仮想敵だ。理系重視のシリコンバレーは、科学理論が真実に向かって既存理論を置き換えていくように、市場の破壊をうたう。過去を捨てずに、過去からの積み重ねを重視し、ときには過去を掘り返し取り戻す人文科学の手法は、これと真っ向から対立する(loc. 879-901, 1010-1020)。とはいえ例えば、脳をコンピューターとしてみる心の計算理論の説明でマーではなくカーツウェルが出てくるあたり、そもそも背景に対する著者の不案内をうかがわせる(loc.1324)。

シリコンバレーの自然科学重視の姿勢と並んで、仮想敵なのはデザイン思考。デザイン思考は決まったアプローチでもって、対象となる物事を知らない素人でもアイデア(事業テーマなど)を生み出すことができる、とする。著者によれば、そうした物事の意味の文脈を知らない人が、有効なアイデアを出せるわけがない。デザイン思考の批判は、筆致が汚く、言いがかりに近い感じがする。ほとんど呪詛の言葉が並び、読むに耐えない(loc.2662-2794)。デザイン思考に対抗して著者が出しているアイデア、ひらめきの獲得の方法は、恵みとしてのひらめきと称されている。だが内実は多数のアフォリズムと事例が書いてあるだけで、ポイントが整理されていない。ここもほぼ、読むに耐えない。

データ礼賛の側から言えば、センスメイキングが必要だというのは、単に文化・社会的なものが変数に入っていないだけだ。人間は社会的文脈を感じ取る特別な感覚器官を持っているわけではない。私たちはあくまで他人の言動から、心の理論なりを用いて合理的な推論を意識的・無意識的に行い、その物事がその人において持っている意味、文化、社会的文脈を推測するだろう。そうした意味が何なのかは論じる必要がなく、単に周囲の行動がどうであるかが本人の行動を導く、とする社会物理学の発想は、実は同じものにまったく異なった、著者が忌み嫌うアプローチで迫ろうとしている。

実はデータ分析においても、どういう説明変数を用意すればよいか、モデルの結果をどう解釈すればよいかは、すぐれて社会的文脈に関わる。例えば、前夜の天気予報を見て翌日の来店が決まるなら、用いる気象データは前夜の天気予報であって当日朝のものではない。3桁と4桁で顧客が持つ価格感がまったく異なるなら、価格は数値データではなくカテゴリデータかもしれない。著者が対立したものとして放り出したアルゴリズム思考のなかにも、その実践には消費者行動の社会的文脈を理解する必要性があったりする。

以上、どうもモヤモヤした本だった。本書の取るアプローチについて、私の感じた疑問点はおおよそ以下の4つにまとめられる。
1. 自然科学と人文社会科学を対立で捉えており、その相補的な関係について気づいていない。著者が見るよりもずっと、実践ではこの2つの知識は絡み合っている。というよりも、私はそもそもこの2つの分類自体が生産的でないと思う。
2. 文化を所与のものと捉えており、私たちが文化を創造し改変していく営みについて全く無視している。同じ社会に属しているスマホも使えない高齢者層よりは、Facebookでつながって夜な夜なNetflix見ている異なる国の同世代層のほうが、実は社会的文脈は同じだったりする。シリコンバレー的なデザイン思考は、グローバリゼーションが拓く文化の類似性を信じつつ、むしろ新しい顧客体験、そして文化を生み出そうとしている試みと捉えることができるかもしれない。
3. データ分析や人工知能技術でいま可能であることと、原理的に可能、未来には可能になるであろうことを混同している。人間の行動の完全なデータ化とそれに基づく機械学習での行動理解なんて、世界に膨大にセンサーが埋め込まれ、それがオープンにならなければ到底可能ではないだろう。データがあったとしても、そんな超高次元の機械学習がうまくいくのかどうか。
4. 哲学が必要だと説きながら、やってることは社会学、民俗学、人類学である。フォードと著者がやった、運転が持つ意味についての調査プロジェクトは「民俗学的」なものとされている(loc.1170)。生命保険会社と行った加齢についての調査も、「民俗学的研究」(loc.2189)である。著者のアプローチからしても、必要なのは人間が何かを文化的に理解する様の研究であり、それは社会学、民俗学、人類学、歴史学の分野だろう。例えばブルデューの理論なんてうまく機能するわけだ(loc.2299)。実は必要なのは哲学ではないと思う。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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