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ジョン・コーエン『チンパンジーはなぜヒトにならなかったのか』


チンパンジー研究の現在について、"Science"の記者が書いたもの。翻訳で460ページにおよぶ大著だが、筆致はなめらかなのですらすらと読める。タイトルからは進化の話がメインのように伺えるが、別にそれに限定していない。原題は"Almost Chimpanzee"だが、あまりうまいタイトルではない。1925年に心理学者のロバート・ヤーキズという人が書いた本に"Almost Human"というのがあり、これを引っかけたタイトル。ヤーキズの本ではヒトとチンパンジーの類似点が強調されていたが、それに対して本書は相違点を強調していく。そのため、"Almost Chimpanzee"というタイトルを付けたのだろう。

内容は血、脳、体と題した三つの部に分かれる。第一部の血では、ヒトとチンパンジーの進化上の分岐、雑種の可能性、免疫系と伝染病への耐性の違いについて。第二部の脳では、発話、言語理解、心の理論、脳の解剖学的相違について。第三部の体では、歩行と骨格の違い、生殖、食性と続く。最後に絶滅しかけているチンパンジーの現状について述べる。

かなり多くの話題を扱っていて、若干まとまりが悪い。記述も、チンパンジーの研究の歴史、論文を中心とした研究の現状、著者自身が野生のチンパンジーのフィールドワークに着いていったルポルタージュ、研究者へのインタビューなどから雑多に構成されている。極めて話題が豊富だが、バラバラな印象を受ける。全体を通じてどこへ論を持っていきたいのかは見えてこない。

ヒトとチンパンジーでは99%のDNAが一致する。これはよく知られた話で、本書の邦題の副題にもある。しかし違いがある部分は遺伝子の発現を調整する部分で、これが大きな差を生む(p.44-52)。またヒトとチンパンジーのX染色体の類似を調べると、一つの仮説としてヒトとチンパンジーの雑種、交雑の可能性が浮かんでくるのが面白い(p.60-76)。進化的に分化した後の段階でも、ヒトとチンパンジーは交雑していたかもしれない、という仮説は当然、多くの反発を生む。ちなみに進化をたどるにも、チンパンジーは密集した湿度の高い熱帯雨林に住むため化石が残りにくい。これに対して古代人類は乾燥した洞窟の中にいたので、化石が残っている(p.323f)。古代チンパンジーの研究は、制約が大きい。

類人猿の中でヒトだけが作ることのできない、N-グリコリルノイラミン酸(Neu5Gc)という糖分子がある。これがヒトだけがかかる病気を決める。酸素分子一つ分しか違わないNeu5Acを作ることならヒトにもできる。Neu5AcをNeu5Gcに変える酵素を作る遺伝子CMAHがヒトでは突然変異を起こして機能しなくなっている(p.87-89)。例えばチンパンジーと人間でかかるマラリア原虫が違うのは、CMAHの変異によるNeu5Gcの有無だ(p.104f)。

チンパンジーはそのヒトへの近さから、ヒトがかかる病気の実験台にされることが数多い。本書はHIVを例にして詳細に扱っている。もともと、サルの免疫不全症候群SIVがチンパンジーでSIVcpzとなり(チンパンジーはサルを食べる)、そしてヒトで(食べるかペットとして飼うかして)HIV-1となったという仮説がある(p.126)。ではHIV-1はチンパンジーに移るのかなど、実験が行われた。致死的病気にチンパンジーを意図的にかけることへの疑念や、NIHが後ろ盾になったチンパンジー実験プログラムへの批判などが扱われる(p.127-141, 423-432)。

チンパンジーが言語を理解するかについては、様々な事が言われている。だがチンパンジーには心の理論も言語の再帰性もないというのが現状だ(p.175-177)。この手の研究では日本の京都大学霊長類研究所が有名。本書はアメリカの研究現状を主に扱っているので、それ以外の話は薄い。さすがにチンパンジーの認知機能については、霊長類研究所と松沢哲郎を始め今西錦司の門下生たちの話が扱われる(p.235-255)。

言語の話では、不全失語症の遺伝を持つイギリスのKE家と原因遺伝子の探索の話が混ざってくる。KE家は失語症だが言語機能の障害というよりは、口腔顔面のコントロールの障害だ。この原因候補となる7番染色体のSPCH1領域のFOXP2遺伝子が特定される(p.194-210)。FOXP2は有名で、鳥の鳴き声の発音などに関与している。ここら辺は類書もある。この話が入っているのはややまとまりを欠く。

脳の領域が大きいことが知能を決めるのでは、という骨相学的発想は古来。しかしヒトとチンパンジーの脳の大きさは、絶対的にも体に対して相対的にもあまり説得的な違いをなさない。ヒトとチンパンジーの脳の違いは大脳皮質の可塑性にある。トロンボスポンジンという遺伝子群から発現するタンパク質が関与する(p.295-297)。また特に、ヒトにおいてもっとも急速に進化したHAR1と呼ばれる遺伝子の領域があって、これは胎児の新皮質のニューロン内で見つかっているが、その内実はまだまだ不明(p.301)。

生殖の話ではけっこうな違いが見られる。ヒトとチンパンジーでは精液量はそう変わらないが、そこに含まれる精子数は平均的なヒトの6倍くらいある(p.368f)。また、ヒトは流産の確率がとても高い31%。チンパンジーどころか他の種では流産はほとんどない。これはヒトでは発情期の兆候が出ないので、適切な生殖のタイミングが分からないという説がある(p.379f)。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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