

いままで邦訳されたジョン・ケージの文章やインタビューから、入手しにくくなったものを集めた一冊。作曲家以外の側面であったキノコ研究についてとか、アメリカにおける実験音楽をかなり分析的に評価しているもの、自身の作品についてのインタビュー、マーク・カニングハムのダンス一団のツアーに付き合って世界公演した時の食べたものをひたすら書いているもの、そして何を書いているのかよく分からない文章が収められている。この本自体も様々なフォントやサイズの文字を使い、文章の組み方も独特だ。
「音が音自体であるためには私達がそれらを貼り繋ぐことから解放される必要がある」(p.37)というケージの基本発想がうかがえる。こうした意図しない音響の方へ向かう転換は、最初は人間性に属するすべてのことを諦めること、特に音楽家にとっては音楽を諦めることのように思える。しかし、この転換は自然の世界と通じており、この世界では人間性と自然は切り離されることなく一つなのだということ、すべてが崩壊しても失われるものは何もないことが理解されるという(p.56f)。
空虚の空間とか空虚な時間というものはなく、私たちはそうしたものを体験することはない。いかに沈黙を作り出そうとしても私たちにはできない。無音室に入っても、自分自身の神経系や血液など、体内の音が聞こえる(p.55f)。音は従来的な音楽でなくとも、そこここにある。私たちは冷蔵庫が奏でる持続低音をいつも聞いている(p.115f)。
作曲におけるチャンス・オペレーションズよりも、演奏における不確定性の方がより本質的に、音をあるがままの姿にするという。なぜなら演奏における不確定性では、作曲者が予測した何かを引き起こしてしまうようなことがまったくない。この場合、楽譜からどんな音がするかを予知することはできないから、という(p.32f)。このパッセージは解釈が難しいが、チャンス・オペレーションズでは作曲者は一度だけ偶然性を用いて音を並べて固定してしまうのに対し、演奏における不確定性では演奏の都度、偶然性が用いられるということなのだろうか。
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