

ジョン・ケージについて、その音楽理論に焦点を当て、ほぼ時間軸どおりに変転を扱ったもの。音楽理論の細かい話が主とはなるが、そこまで微に入り細に入った記述ではない。また音楽理論の変遷の背景になった事柄も扱われている。現代音楽についての音楽理論という、難解に難解を重ねたような話題だが以外に読みやすい。
ジョン・ケージにおいて、その音楽理論の変転は必然的だ。ケージの作曲態度はそもそも、創作行為を個人的な嗜好から切り離すことを狙っている。そのため、ケージ独自のものと呼べる作曲様式が成立するやいなや、新しい作曲システムを作るためにそれを捨て去ることになった(p.13f)。この作曲態度は、芸術家とは何かについてのケージの考えを背景としているのだろう。それは、芸術家という存在は、自分が生み出した芸術作品を体験してもらうことを通じて、人々が日々の暮らしの中に潜んでいる美にもっと注意を払うように促すきっかけを与えるような存在であるべきで、芸術家が自分自身の内面の美を代わりに用いることは本来行われるべきではない、というものだ(p.103)。芸術家が自身の美を高度な技術(理論や技法)によって表現するのではなく、美は日常のそこかしこにあり、人々は誰しも芸術家なのだ。よって芸術家は自身しかできない特徴的な技術を持つのでなく、誰にでもできるような、恣意性を排除したような芸術を目指すものとなる。
最初期の「2声のためのソナタ」(1933)における25音技法や、「プリペアド・ピアノと室内オーケストラのための協奏曲」(1950)などに用いられたギャマットという技法では作曲に用いる音の数を制限して、作曲者の恣意を制限する。「心象風景第4番」(1951)や「易の音楽」(1951)に見られる、コイン投げやコンピューターを用いた偶然性による作曲もそう。または、各演奏者が各楽器のパート譜から自由な組み合わせで、しかも他の曲と同時に演奏してもよい「ピアノとオーケストラのためのコンサート」(1957-58)は、作曲者から演奏者にむしろ恣意性を移転する。各小節には開始時間と終了時間だけ書いてあり、演奏者はその中であればスコア上の音をいつでも自由なタイミングで演奏してよいとする「ナンバー・ピース」のシリーズ(1987-)、あるいは演奏者に対して演奏前にスコアを自分で制作することを指示し、そもそも作曲行為そのものを演奏者に移転しまう「ヴァリエーションズ第1番」(1958)など、枚挙に暇がない。
最初に25音技法から出発したケージは、念願かなってシェーンベルクに師事する(1935-37)。しかしシェーンベルクは、和声の感覚の欠如を痛切に指摘する。ここからケージはリズムの問題に関心を注ぎ込む。ここから、打楽器のための「三重奏曲」(1936)のようなリズム曲が作られる(p.18-24)。ケージにおけるハーモニーの感覚の欠如、そして休符を含めてリズムへの感覚の豊富さは、たしかに各作品を通じているように思われる。
ケージといえばプリペアド・ピアノだろう。この着想にはもちろん同時代のアメリカの作曲家たちの影響はある。日常的な物を楽器として利用することについて、ヘンリー・ブライトの「安雑貨店のための音楽」(1931)はそのパイオニアだ。しかし著者は、むしろマルセル・デュシャンからの影響を指摘する。誰も関心を払わないような既成品を芸術作品に仕立て上げてしまうデュシャンのやり方を、音楽に持ち込んだのがジョン・ケージだという位置づけ(p.43f)。
こうしてプリペアド・ピアノという武器を手にしたケージは、かの「ソナタとインターリュード」(1946)の作曲に至る。しかしこのプリペアド・ピアノの技法の洗練は、代表作を作ってしまったという危機感をケージに与えた。妻との離婚問題もあって、この後しばらく作曲活動を中断する。この間に禅や易など、東洋的影響が深まっていく。それはやがて、「弦楽四重奏曲」(1949)に至る(p.60-62)。一貫してノン・ヴィブラート奏法が指定されているこの作品は、とてもモノトーン的であり、たしかに禅的、山水画のような印象を受ける。
こうして様式的なものを捨て去ったように思えた弦楽四重奏曲だが、反復は避けられなかった。これをいかに避けて、禅のような無為の境地で作曲するか。こうして主観的な決定を全面的に取り除くべく、易経が採用される。1951年と翌年にかけて、偶然性の導入という急展開が起こった。こうして「心象風景第4番」や「易の音楽」が生まれる。著者の評価では「ケージは《心象風景第4番》と《易の音楽》を作曲することで、「音をあるがままの存在」にさせ、「いかなる意図的な抽象化行為にも邪魔されない」ものとして扱うという、彼自身のゴールに既に到達していたように思われる」(p.77)。ケージはある意味、ここで到達点に至っており、偶然性を用いた作曲、チャンス・オペレーションズは以後、一貫した技法となっていく。
言わずもがなの有名曲「4'33''」(1952)はこうしたケージの変転の上にある。1950年代のケージの作品は、生の内面的覚醒に関わるものだった。芸術的美は芸術家のためのものではなく、誰しも持っているものだ。「4'33''」は作曲家と演奏家が一切沈黙することで、聴衆やその場にある音、そしてその音に潜む美を開放する試みだった。これに対して、1960年代の作品はむしろ、最先端の都市生活を日々営む際の具体的状況と結びついたものとなっている。テレビ、ラジオ、様々なエレクトロニクス製品が作品に登場する。ここには、テクノロジーが人を労働から開放するというアナーキスト的・社会主義的なバックミンスター・フラーの影響もある。しかし、1960年代後半の社会現象(各国での社会闘争や学生運動)に失望したケージは、まったくの演奏者の自由に任せるよりも、統制されたものを復活させる。伝統的な五線譜への回帰や、演奏者への最良の演奏へのコミットメントの要求などがなされるようになる(p.118-120)。
原著は1981年刊でケージの存命中ということもあって、1970年台以降の作品の位置づけはやや精彩を欠く印象もある。ヘンリ・ソローの思想の影響と環境問題への呼応としての、生きた植物そのものを楽器として使う作品など(p.121-126)。しかし本書一見何をしようとしているのか意味不明なケージの作品を、時間を追ってきちんと位置づけており、とても有益な一冊。本書のおよそ半分を占めている訳注も、理解に際して非常に参考になる。訳者としても素晴らしい仕事だ。
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