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山本七平『「空気」の研究』


有名な本だがいま読む人はどれくらいいるか。日本社会によくある同調圧力と、意思決定者が不明になる現象を表す「場の空気」について。空気とは非常に強固で、ほぼ絶対的な支配力を持つ判断の基準だ。それに抵抗するものを異端として、いわば「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力を持つ超能力(p.22)。こうした空気なるものと、それに対して「水を差す」と言われるときの「水」について独自の分析を行っている。

空気とは著者によれば、臨在感的把握なるものから生まれる。これは、物質の背後に何かが臨在していると考え、それに影響されること(p.32-36)。フェティッシュ、物神信仰的な発想。本当はそこに物質しかないのに、人々が意味を付与し、恐れをなす。天皇制は典型的な空気支配の体制だ(p.73)。日本は歴史的に真に大きな運命的決断を必要としてこなかったので、空気の支配でも間に合った(p.78f, 88)。明治期の啓蒙主義では、福沢諭吉がこうした物神的なものを批判したが、それは霊の支配のような非科学的なものとして否定、拒否しただけだった。否定しても残っているので、それが空気という形で回帰している(p.58-60)。

一方、偶像崇拝を固く禁ずるイスラムでは臨在感的把握は禁止される。一神教的伝統の社会では多かれ少なかれ臨在感的把握から脱している。日本は多神教でアニミズムであり、臨在感的把握が多い。ただ絶対的なものを持たないため、うまくやれば次々と臨在感的把握を取り替えていって空気の支配から脱することができる(p.67-71)。それをせず、臨在感的把握を歴史的に相対化しないと、それは絶対化され空気となる(p.40, 50-52)。

空気に対抗するものとして「水を差す」という観念がある。これは、物神的に捉えられているものはただの物質に過ぎないとか、王様は裸だ、と指摘するもの。水とは最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引き戻すことを意味している(p.91)。しかし著者によれば水とは、社会に入ってきた対象が変容し、普通のものとなったものだ。通常性による消化吸収に基づく変容(p.102)。よって水を差すとは、単に通常性を指摘するのみで、空気と水、物神性と通常性の対立そのものには触れない。経験則を基に思考を打ち切るものに過ぎず、西欧的な論理の力ではない(p.87f)。

日本では価値の評価基準をメートル法のように固定せず、情況に応じて変わるとする。これを日本的情況論理という(p.113-126)。臨在感的把握は根拠を持たないため、移ろいゆく。相対的に把握される情況は一つの固定点、中心点をもつ。この固定点に評価基準を求めることは例外的だから、臨在感的に把握するしかない。こうして水・通常性が空気を生み出す(p.129)。水という通常性と情況論理が空気を存続させる(p.158)。空気と水は対立するものではなく、空気の成立を水が支えている。例えば、うやむやにするなと言いながら、なぜうやむやになるかの原因をうやむやにして気づかない(p.223)などは、こうした状況をよく表している。

戦後に言われたのは、空気に対して水を差す自由を確保しておくことだった(p.170-172)。われわれに必要なのは、空気、通常性的規範から脱して、自由に思考すること。それには自分の精神を拘束しているものか何なのか、徹底的に探求すること(p.168-170)。

残りは、日本共産党の宮本体制とか、ミュンツァーの宗教改革の話が長々と続くなど、多少退屈な記述。ともすると平板な日本人論にも見える。そもそもミーティングでの場の空気とか、何かを物神的に把握しているものでもないように思える。
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坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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