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岡野原大輔『拡散モデル』

拡散モデルの数理的内容について扱った一冊。式展開は意外なほどに詳しく追っている。研究の先端をずっと追っている著者なので、もっとも参考になったのはDDPMのような、いまの拡散モデルの隆盛がどのような経緯で、どんな問題に対処しようとして登場してきたのかの整理がきわめて参考になる。その後は、拡散ステップを連続化した確率微分方程式としての解釈、条件付き生成、部分空間での次元を削減したモデリング、対称性を考慮したモデルといった発展方向、各分野に対する応用状況が書かれている。


まず尤度ベースモデルと、GANなど尤度をベースとしないモデルの比較から。尤度ベースモデルは、対数尤度を目的関数とするので安定した最適化問題により学習できる。また、学習がどの程度進んているかを尤度によって評価することができる。GANのような暗黙的生成モデルにはこうした利点はない。しかし尤度ベースモデルは分配関数(正規化項)やその勾配の計算が計算量的に困難という課題をもっている。これに対してはMCMCを使う手もあるが、データが高次元で多峰的の場合、サンプリング効率が悪いし、局所的に低いエネルギー領域に捕らわれてしまう。対数尤度の入力についての勾配であるスコア関数を使ったランジュバン・モンテカルロ法はこの点を緩和した。これがスコアベースモデルにつながる(p.8-14)。スコアベースモデルはさらに、等比数列的にノイズを大きくしていって、最終的にほとんど元のデータ分布が消えるようにする撹乱を考えることで、多峰性のある分布をモードの情報を活かしながら網羅することが期待される(p.36-39)。


入力に摂動を加えたあとの条件付き確率分布のスコアを学習すること(デノイジングスコアマッチング)は、元の確率分布のスコアを学習することと同じという、個人的には驚いた結果が証明される。実際、定数項を除いて一致する。デノイジングスコアマッチングにより、計算量や、経験分布から学習する際の過学習の問題が緩和される(p.23-26)。DDPMにおけるELBOの導出や、SBMとDDPMがシグナルノイズ比を使って統一した枠組みで理解できること辺りは、数式展開を細かく追う教育的配慮が見える。


確率微分方程式としての表現と、それを常微分方程式に変換した確率フロー常微分方程式については、(確率)微分方程式周りの自分の知識が足りないのであまりついていけず。確率フローに変換したときにスコア(対数尤度の勾配)が現れるあたりは興味深い。

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大野萌子『よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑』

企業内カウンセラーを務めて、ハラスメントやメンタルヘルスの問題に向き合っている著者による一冊。つい他人を傷つけたり問題を起こしたりしてしまう言葉を、具体的にどう置き換えればいいか書いている。基本的にビジネスシーンで、最後に子育ての章を含んでいる。挨拶・社交辞令といったもっとも基本的なところから、頼み事、断り方、自己主張、𠮟り方、謝罪の仕方など。職場での立場は特に限定されておらず、上司であっても部下であっても役に立つ。


通底しているのは、曖昧にせず具体的に話すこと、同じ事態を表現していても否定的な言葉でなく肯定的な言葉で話すこと、相手は別の人間であることを理解して同感ではなく共感すること、といったところ。

マーク・クーケルバーク『AIの政治哲学』

私たちが日常生活の中でAIを使って行ったり、互いに行ったりすることも政治的である(そして、これまでの章の平等と権力に関する議論が示すように、私たちがその「私たち」をどう定義するかも政治的である)。AIの政治は、家庭や職場で行うことや、友人といっしょに行うことなど、私たちが技術とともに行うことの奥深くにまで及び、それが生成を形成しているのだ。これがAIの本当の力なのかもしれない。(p.216f)

AIを話題に取った政治哲学についての入門書。AIについての哲学的思考は倫理的なものになることが多い。しかし技術哲学で有名な著者から言えば、技術は政治的なものであるというテーゼは現代の技術哲学において基本的なもの。したがってAIでさえ、政治的問題を提起することになる。政治的な問題としてどのようなものがあり、どのような考え方やアプローチがあるのか、政治哲学の基本的な構図を紹介する。そしてそうした問題の構図から、AIという技術がどう見えてくるかを書いている。見通しがよい快著だろう。


まず本書がユースケースとしているAIとロボティクスは、普通は技術的な主題とみなされている。そして技術それ自体は価値中立的であると考えられていることが多い。たとえ政治と何らかの関係が乱見出されるとしても、技術は政治的な操作や管理のための手段だと考えられている。倫理的な問題は積極的に考慮に入れられることが多いが、そうした問題に関連する複雑な政治的・社会的問題には気づかれることがない。しかしAIは単なる技術や知能に関するものではなく、あらゆる点で政治的である(p.4-6)。


例えばAIによるバイアスの問題は、単に特定のAIアルゴリズムが特定のケースでバイアスのある帰結を生んだということにあるのではない。問題は、こうした技術が既存の階層構造やそれらに勢いを与えている概念やイデオロギーと相互作用して、それらを支持していることである。そして技術者やユーザーはアルゴリズムとデータは中立的であると仮定していて、気づいていない。実際はこれらの技術は特定の社会的、政治的、商業的論理を支持している(p.57f, 68, 85-87)。アルゴリズムによるバイアスが単に偏りではなく差別的偏見(両方ともbias)となるのは、社会に存在するそうした差別を成立させる様々な仕組みと一体化するからだ。そしてそうした仕組みに無批判に技術を利用することは、既存の差別の仕組みを強化することである。


こうして本書では自由、平等と正義、民主主義、権力といった王道の話題を扱い、最後に環境・自然・動物といった非人間的なものに対する政治を扱う。自由主義的な考えからマルクス主義的な考えまで、スコープは広く取りながら、自身の思想は抑制的に議論状況を概観している。マルクス主義的な批判理論が多く登場するあたりは、「大陸系」という趣があり、やはりアメリカ的な政治哲学の入門書とは一線を画している。


空港などの国境検問所での認証技術、予測的警察活動などは、バイアスと差別のリスクだけではなく、逮捕や投獄など個人の自由を侵害する介入につながる可能性がある。これはバーリンが述べた有名な積極的/消極的自由の区分のうち、「消極的自由」を脅かす技術である。監視技術は政府機関や企業によってだけではなく、私的な領域にもある。出来事を人々が携帯デバイスで記録するような、逆監視(sousveillance)のことだ。消極的自由は、個人的な領域への干渉からの自由であり、プライバシーを保持する自由である(p.17-19)。また、自律的選択の自由である積極的自由については、AIによるレコメンデーションや様々なナッジは積極的自由の侵害とみられる可能性がある(p.26-28)。


自由については、人は労働によって社会的関係に参画し自己実現する自由をもつという、ヘーゲル、マルクス的な意味での自由も論じられる。この自由に関しては、データを人々が無償で提供していることになっている現状(データ提供という労働に対する交換価値が無い)や、ロボットと協働することで自身も機械の一部のように働く労働者、AIやロボットによる失業といった論点が関係する(p.30-34)。


さらに、これこそ人間らしい活動(action)とアレントが主張した政治参加の自由は、AIに関して以下のような論点に関わる。AIなどの技術導入に市民が関わる自由を欠いていること(これはRRIの問題につながっている)、政治参加における私たちの意見形成がソーシャルメディアのレコメンデーションで阻害されること、自動化されたプログラムによる選択環境の中で私たちの自律的判断が阻害されるなどの問題である(p.38-43)。


平等・正義、民主主義は省が分かれているものの、議論は深く関連している。まずは分配的正義に関して、ロールズ的な公正としての正義が扱われる。マルクス主義理論は、リベラルな哲学は不正義と不平等を作り出している資本主義社会の構造を問わずに、形式的で抽象的な権利の議論に終止している、と批判する。AIは監視資本主義のように、自律的な資本家の権力を象徴するものであり、商品化と搾取をもたらし、資本主義を強化しうる。こうした観点からは、技術だけでなく社会経済システムの変革が正義への道ということになる(p.69-74)。


民主主義については、合意形成を目指すハーバーマスなどの熟慮型民主主義へのヤング、ムフ、ランシエールの批判が取り上げられる。感情など理性以外の役割を無視していること、無知な大衆と明晰で合理的なエリートの区別あたりが批判点であり、簡潔な記述として参考になる(p.105-108)。


エコーチェンバー現象は(特に熟議型)民主主義に必要な公共圏を脅かす。また技術は公的な関心と私的な関心の区別をもたさらないため、多くの人々がかなり私的な思想や感情をソーシャルメディアで共有するようになったら、公と私の区別は薄れてしまう(p.113-117)。アレントの分析によれば、全体主義が社会を壊すのではなく、すでに連帯と信頼が欠け、人々が政治的に孤立した社会の上に全体主義は育つ。フィルターバブルがもたらす認知的バイアスや、シェリー・タークルが言うようなソーシャルメディアがもたらす孤独は、こうした全体主義が育つような社会状況の発現に寄与するのかもしれない(p.128-131)。


権力(power)については、サッタロフによる4つの捉え方を軸にしている。(1)誘惑や強制などの操作によって、ある行為者が他者に行為させるもの。技術はこうした操作を媒介する。AIによるレコメンデーションが典型例で、この技術はバイアスをもたらしたり、個人の自律性を損なったりしうる。(2)能力としての力・権力。個人の能力や潜在力を増大させること。技術は人類のできること(=権力)を増やしてきた。こうした能力の拡張は、権威主義的には監視能力を高めるし、自然に対する人間の制御能力の向上は地球規模での影響を及ぼす。(3)特定の社会的・政治的制度がもつシステム的特性。社会を成立させ発展させるために使われる技術。テック企業へのデータの集中による資本主義の強化や、監視資本主義の強化につながる。(4)社会的行為者そのものを構成したり産出したりする、フーコー的な権力。私たちはAI技術によって、自分をデータの集まりやネットワーク化したものとして自己認識し、アイデンティティを築くようになるかもしれない(p.141-149)。


フーコー的な権力とAIの関わりは面白く、より詳細な議論を期待したい。AIのような技術は、フーコーが古代ギリシアに見出したような、自己を変容させていく生の技法として捉えることができる。健康管理アプリや瞑想アプリは、自己を数量化し、自己の精神や身体に権力を行使し、ある特定の種類の主体を構成する。こうした技術的な自己配慮の方法によってもたらされる問題は2つ挙げられる。(1)データとして取られたデジタルな自己こそが本当の自己と考えてしまうこと。自分が意識できない粒度でのデータであるし、なんなら寝ている間も取得される。そして数字により客観性を持って迫ってくる。(2)デジタルな自己が非デジタルな自己以上の存在だと示唆してしまうこと。カーツワイルなどのトランスヒューマニストがいうアップローディングによって、いま以上にその人らしいその人が得られるという発想はこうした点に見られる(p.167ff)。


非人間に対する政治的思考は現代の政治学らしいテーマだが、少し理解するのは難しい。なぜなら、政治とは人間の間のこととして捉えられてきたからだ。この点は倫理とは異なる。動物保護に関する法律の法思想のように、多くの動物に道徳的配慮を与えることはできる。しかし、これらの動物のすべてが政治的正義の受益者として適格とは限らない(p.190f)。動物のみならず、川や森など自然などを政治的共同体の一員に入れるのは、いくつか議論は紹介されるものの、いま一つピンと来ない。


人間以外を政治的な対象に含めることに対して、AIが持つ意味は以下のように議論される。(1)AIの利用や開発は、動物や環境への危害を避け、気候変動などの問題解決に積極的に貢献するべきだと主張すること。人間中心主義でない視点を取ることは、人間がAIやデータサイエンスによって地球の問題を解決するという態度を問題視する。それにより、もはやAIはすべての問題に対する解決策ではなく、その限界にもっと注意を払われるようになるだろう。(2)AIそのものも人間以外のものとして、その政治的権利について議論するべきだと主張すること。AIやロボットの政治的地位を議論するには、2つの方針がある。(a)それらの道徳的地位と平行に論じる方針。道徳的地位を持つための性質や関係性を政治的地位に適用したり、道徳的行為者性と道徳的被行為者性の区別を政治的地位においても行うこと。(b)動物や環境の政治的地位に関する議論をAIに適用する方針。例えばAIがある種の動物と同じように、利害関係を持つ、あるいは協力する仲間として行動するとみなされるなら、たとえ意識や感覚がなくても政治的地位が与えられる可能性がある(p.200-209)。


良書なので要再読だし、この著者の他の本も読む必要があるようだ。

メン獄『コンサルティング会社 完全サバイバルマニュアル』

面白い一冊。よく売れているようだ。コンサルティング会社で10数年務めた著者が、コンサルティングファームの仕事のやり方、そのなかでいかに成長していくべきかを書いている。もともとは退職が近い段階で、部下に残していく文章として書かれたようだ。少年漫画が好きな著者らしく、自分の失敗談などの体験談が漫画のストーリーっぽく書かれていて、読み手を引き付けるものがある。本書はビジネス自己啓発書だが、このストーリー書きの才能で小説でも書けば、池井戸潤っぽくなるのではないか。


新卒など最初の段階であるアナリスト、少し周りが見えてくるジュニアコンサルタント、チームを運営しプロジェクトに責任を持つシニアコンサルタント・マネジャーという三つの編に分かれている。アナリストのところは半分くらいの分量を占めている。ここにあるのは、いわゆるコンサルの働き方や考え方といったもので、類書に多く見られる。本書の特徴は、むしろその後、キャリアが上がっていくと何が変わってくるのかというところだろう。


アナリストが価値を出す核心的要素として、何よりも仕事の速度が強調される。それは手順の習熟、最短ルートへの嗅覚、強い期限意識からもたらされる(p.30-42)。ショートカットを駆使するexcel技術なども必須事項だ(p.63-75)。個人的にはパワーポイントにいかに物事を整理するかが鍵。また、論点思考と仮説思考も基本(p.101-122)。自分の論点がなく、ただその場に与えられているタスクをこなしているだけの高級ホチキス(p.118-120)にならないように。この辺りは、特に違和感なく、それはそうだよねという印象。コンサルティングファームのなかで重視されたり当然、あるいは理想とされている仕事の仕方だ(個人的に自分ができているかはともかく)。


読んで面白くなってきたのはジュニアコンサルタントあたりから。アナリストに比べて仕事の範囲が拡大するこの時点では、現場の人への共感のなさと不理解が三年目の慢心として描かれる(p.148-157)。ただ自分のタスクをこなせばいいのではなく、多様なスキルや立場の人と協働することが求められる。例えばエンジニアとコンサルタントの違い。自分ではエンジニアの生産性は分からない。エンジニアを管理業務から解放すること、違う発想や立場の人と働くことがシニアコンサルのステップ(p.168-172)。プロジェクトでサブチームのリーダーとして実際に最前線に立つ層でもあり、広い視野を見た責任感が求められる。プロジェクトや進められているタスクの前提を疑うこと、違和感を放置しないこと(p.176-182)が大事。特に、現場の最前線たるジュニアコンサルタントは簡単に引き下がってはならない。上司やクライアントから間違っているのではと指摘されても、なぜそうしたのかを自分できちんと説明し、対等に議論すること(p.190-192)。これは大事。この段階でそういう動きができる人間が伸びる。


チームメンバーを少数ながら持つようになるのも、ジュニアコンサルタントの段階。部下への作業の切り出し方は案外に難しい。チェックリストもある(p.224-226)。作業の切り出し方に苦労して、部下の能力の無さのせいにする人は見かける。プロジェクトを進めるための、クライアント承認の取り方も大事な論点(p.205-210)。承認者の権限、帰結やリスクの説明、承認が必要な部署の範囲、承認過程を踏まえたスケジューリングを踏まえること。


マネジャーの仕事は、品質の瑕疵なく予算内でプロジェクトを完遂させて会社に利益をもたらすこと、顧客を満足させて継続案件を獲得したり将来につながる関係性を築くこと、部下を成長させ社内で昇進させることの3つとする(p.245f)。しかしマネジャーの章は個人語りが多く、方法論的な抽象が足りない。またチームビルディング、チームで結果を出すという点に話が偏っている。10年以上在籍していたので、マネジャーを客観視できる職位まで上がっていたと思うが、紙幅の都合か。マネジャーや、そこからのキャリアに求められる視点やスキルがあまり俯瞰されていない印象。営業からプロジェクト組成までのフェーズ、プロジェクト終了後のフォローアップ、プロジェクトではなく所属組織の運営に関するタスク、売上の数字やコストのコントロール、他部署とのリレーション、この先の自社の売り物を作っていくR&D的な活動、自社のマネジメント層との関わりなど、マネジャーの章に出てくるべきだろうと思った。


それにしても、徹夜で作業したといったエピソードが大量に出てくる。成長のためには長い期間の持続可能な働き方が大切として、休むスキルについて記すなどの着眼点(p.130-142)はあれど、働き方については完全に過去のもので、いまのコンサルティングファームには(少なくとも大手は)当てはまりにくい。コンサルタントの成長は圧倒的な仕事時間に支えられていた側面は大きく、コンサルという職務が一般化して志望者が大量に増えたことと合わせて、これからのコンサルタントはどう成長していくのだろう。その話はどの本にもないし、現場ではいま模索中のところだ。

林佳世子『オスマン帝国500年の平和』

オスマン帝国の通史。オスマン帝国については特に大した知識もなかったので、非常に楽しく読んだ。オスマン帝国はその後の国民国家の流れからは、過去の対抗すべき遺産とみなされていたため、歴史研究や通説にもいくつか問題が見られる。そうした旧来の見解を冷静に検討しつつ、国民国家以前の時代に多民族を統治しえたオスマン帝国の姿を描いていく。オスマン帝国のスルタンにも魅力的な人物は多いが、そうしたエピソード的な人物記述を中心とすることなく、構造的な変化を招いたものは何かをしっかり扱っている。


オスマン帝国はなによりも、バルカン、アナトリア、アラブ地域の伝統を受け継ぎ、制度を柔軟に混合して効果的な統治を実現した中央集権国家だった。分権性を旨とする遊牧民国家のイメージは、オスマン帝国の実態からもっとも遠い。中央集権体制が機能しなくなったときが、オスマン帝国の終焉だった(p.23)。様々な民族、宗教、文化が入り混じるこの地域において、オスマン帝国のこうした統治の仕方は一つの有効な手段だった。国民国家の流れは、こうしたオスマン帝国の統治形態の否定の上に成り立ったが、それがこの地域で様々な軋轢を生んでいる。民族概念とは無縁で、単一の宗派・民族で国家を構成することが不可能なオスマン帝国の地域に均質な国民国家を形成するという幻想は、バルカンにおける紛争、クルド人問題、パレスチナ問題などで今日にまで不幸の種を巻き続けている(p.375)。その意味で、著者もあとがきに記すように、オスマン帝国の統治の仕組みとその経緯は、国民国家以外の国家像を描きにくい現代において非常に示唆を与える。


オスマン帝国は昔は、オスマントルコと呼ばれることがあった。しかしオスマン帝国はバルカンの大国として出発しており、トルコのアナトリアは支配地域の一つに過ぎない。支配層の民族帰属はトルコ人に限られない、様々な人々だった。そのことが、後の国民国家の時代には、オスマン帝国を仮想敵とする形でそれぞれが独立することに繋がった。何人の国でもなかったオスマン帝国は19世紀初頭には終焉を迎える。その後の一世紀は近代オスマン帝国であり、そこから諸民族の国が自立し、最後にトルコ人の国が残った。トルコ共和国も首都をイスタンブールでなくアンカラとするなど、オスマン帝国の遺産から距離を置いたが、トルコ共和国が安定してくるとやがてオスマン帝国の末裔の位置を引き受けるようになった(p.14-16)。


とはいえ、その初出が現在のトルコ共和国の位置にあることは確かである。西からアナトリアに進出したトルコ系の人たちは、ルーム・セルジューク朝として、ビザンツ帝国と交流しつつ隆盛を誇った。しかし13世紀中頃になるとルーム・セルジューク朝はモンゴル軍に破れて衰退してゆく。その結果、アナトリアはトルコ系小国家の乱立する混沌とした状況になった。この混沌の中で、西アナトリアにオスマンに率いられた集団が誕生する(p.29)。


このオスマン侯国はオスマン(〜1324年頃)の時代に自立したと言われる。しかしオスマンの出自や、彼らがどのようにして勢力を拡大したかについて分かってることは少ない。ビザンツ帝国側の史料らは、1302年のサカリヤ川の氾濫により川の流れが大きく変わり、 1280年以来ミカエル八世が築いていたビザンツ帝国側の防衛ラインが一気に崩れ、オスマン勢力がビザンツ領内を西へと勢力を拡大していった経過が見える。オスマン帝国の実質的な建設者となったのは、オスマンの子で政治的・軍事的な才覚に恵まれたオルハンである(p.36-41, 46-48)。


オスマン侯国がバルカンに進出するきっかけは、遊牧民の移動の延長線上ではなく、ビザンツ帝国に雇い兵軍団として登用されたことである。ビザンツ帝国の後継者争いの中でアンドロニコス3世と結んだオスマン侯国の君主オルハンは、1352年にダーダネス海峡のヨーロッパ側の要所ゲリボルを獲得した。その息子ムラト1世は1362年頃にアドリアノープル、1387年にはテッサロニキを獲得した(p.53-56)。急逝したムラト1世を継いだバヤズィトはバルカンの支配を進め、ビザンツ帝国もほぼ追い詰めた。しかしバヤズィトは1402年、中央アジアから遠征してきたティムールの軍勢にアンカラの戦いで敗れ捕虜となってしまう。あとには、バルカンとアナトリアに散らばったバヤズィトの王子たちによる後継者争いが残された。この争いは周囲の勢力からの干渉があり、国際的な関心の中で推移したが、オスマン家以外からの勢力は現れず、メフメトが領土を再統一することとなる(1413年)。それはもはやこの時期にはオスマン家の支配体制は確立しており、他を上回っていたことを示している(p.59-62)。


オスマン侯国によるバルカン支配は、君主がイスラム教徒であるという点では他の勢力と異なるものの、軍事的、外交的には他の勢力と同じ行動を取り、バルカン地域のルールに従って勢力を拡大していった。旧来の研究ではオスマン侯国をイスラム教勢力であって、バルカンとは異質なものとして描くものがあったが、現在では見直されている。まず、オスマン支配層はこれまで考えられてきた以上に、バルカンの在地出身者が多く加わっており、けっして異質な存在ではない。またその支配の方法も、略奪、同盟、臣属、直接支配(徴税と軍事義務の制度であるティマール制が施行される直轄地)という段階を踏んだ合理的なものだった(p.65-67)。


1451年に即位したメフメト2世からバヤズィト2世、セリム1世、スレイマン1世(~1566)までの4人のスルタンの100年間、オスマン帝国の領土は大きく拡大し、中央集権化が進行した。オスマン帝国の歴史の中でこの時期がもっとも有名な時期であろう。この時代はアナトリアのトルコ系遊牧民との戦いの時代でもあった。コンスタンティノープル攻略を始め、夏季の遠征に明け暮れたメフメト2世、戦争をなるべく避けて西欧の技術を導入して軍備を更新し、疲弊した国力を回復させたバヤズィト2世、サファヴィー朝との戦いでイスラム世界の守護者となったセリム1世、ハプスブルク家と対峙し、ヴェネチアから地中海の覇権を奪ったスレイマン1世の時代である(p.83ff)。


1516年からのセリム1世のマムルーク朝討伐のためのアレッポ、カイロへの遠征は、イラン産の生糸の流通を止めてサファヴィー朝を経済封鎖する意味合いを持っていると考えられる。春に遠征して秋には戻るという遠征サイクルには例外的に、この年はカイロを越冬して征服している。この間には、アラブ社会の仕組みにオスマン帝国の支配制度を適用する試みを行っている。オスマン帝国はこの征服でイスラム世界の守護者となり、逆にイスラム世界の守護者として実践しているかが問われるようになっていく。エジプト征服は、バルカンの国として出発したオスマン帝国がイスラム化を深めていく、大きな転機となった(p.114-117)。


オスマン史上もっとも有名なスルタンであるスレイマン1世は、オスマン帝国の頂点と凋落の始まりとして理解されてきた。だがそれは、ウィーン包囲という鮮烈な印象を与えられたヨーロッパからの評価に過ぎない。スレイマン1世の治世はたしかにオスマン帝国史の中で大きな画期だった。それは、軍事国家から官人国家への移行、宗教を超えた統合からイスラム的統治への移行である(p.118-120)。そのスレイマン1世の時代、1534年の大宰相イブラヒム・パシャの処刑を契機としてオスマン帝国の征服の勢いは止まる。その後の時期には内政の整備が進む。立役者はウラマーのエブースード。オスマン支配以前からの慣習も含むスルタンの法をイスラム法によって理論化して統治法令集を整備、またウラマー官僚の任用と昇進に関する制度を整備して官僚機構を作り上げた(p.142-150)。この官僚制度のなかでは、8歳から15歳前後の少年を主に農村から徴用し、予備軍兵や官僚としてイスタンブールで育成する、デヴシルメという制度が目を引く(p.77-81)。これは貴族などの有力者に頼らず、広く人材を徴用し、出自から切り離して宮廷にのみつながりを持つ存在として育てる仕組みだ。その点では中国王朝の科挙にも似ている。少年を対象とする伝統的なデヴシルメは17世紀まで続く(p.225)。


こうしてスレイマン1世の時代に構築された官人たちのシステムは、恭順なスルタンをもたらした。優秀な官僚統治機構ができたため、日本の総理大臣が頻繁に変わっても混乱が生じないがごとく、スルタンの強力なリーダーシップを必要としなくなったのだ。スレイマン1世の死去後、セリム2世の即位の過程は大宰相ソコッル・メフメト・パシャがコントロールしている(p.171-173)。以降は、軍人政治家たちが政治の中心となり、覇権争いを繰り広げた。軍人政治家であるから武功が何よりもモノをいう。こうしてむしろ国内政治事情として、外的な戦争が行われる。サファヴィー朝との戦争(1578-)、ハプスブルク家オーストリアとの戦争(1593-)など(p.177-179)。


党派間の権力闘争と化していたイスタンブールの政治を、スルタン主体のものに取り戻そうとしたオスマン2世のような存在もいる。しかしオスマン2世は自身の近衛部隊であるイェニチェリ軍に殺害されてしまった(1622年)。近衛部隊がその君主を殺害したというこの事態は容易に収集せず、アナトリアでの反乱に繋がっている(p.188-190)。こうした軍人政治家たちの覇権争いを賄賂を許す腐敗した仕組みと見るか、実力本位の世界と見るかは意見が分かれる(p.196-207)。


この時代、16世紀末の戦争は、長期化するとともに、騎兵から火器へと変わっていった。このことはティマール制のもとで地方を支配していた在郷騎士たちの没落につながった。戦費とインフレによるオスマン帝国の深刻な財政難のもと、ティマール制は中央政府が徴税請負人を任命する制度に変わっていった。在郷軍人たちは、徴税請負人となった中央の軍人の下請負人となったり、農民になったりした。結果として17世紀のオスマン帝国は、軍人や官僚が中央政府に連なる官職者たちの国になった(p.212-219, 223)。


ここで文化的側面に光を当てる記述が続く。各地の地方法廷には女性が法廷を利用していた多くの記録が残る。法廷は登記所も兼ねており、イスラム法が定める弱いながらも明確な女性の権利を女性たちは利用していた。複数婚が可能だったり(ただし結納金にあたる先払い婚資金が払える富裕層のみ)、妻と女性奴隷から生まれた子が法的に区別されなかったり、権利の制限はあった。しかし女性を社会から隔離する制度は、逆に女性たちだけの社会や文化を生んだ(p.248-254)。また同性愛は否定的に捉えられていないという話題も。同性愛というより、美しい青少年を愛でる、少年愛と言った方がよかろう。イラン社会同様、オスマン帝国下の社会でも(またギリシャ社会でも)、少年愛は普通のことである(p.121, 269-272)。


財政も好転した18世紀のイスタンブールは、華やかな建物や宴席が増え、奢侈的な消費文化が広がった。これに反発する都市の商工業者の不満はイェニチェリの暴動の形で顕在化するが、少数の富裕層によるこうした文化は続いた(p.284-290)。そして様々な社会でよく見られるように、こうした奢侈的で退廃的なな文化の裏側では構造的な危機が進行しているものである。18世紀のオスマン社会を目立たない形で変えていったのは、1683年の第二次ウィーン包囲からカルロヴィッツ条約締結まで続く16年間のハプスブルク家との長い戦争の時期に行われた、いくつかの重要な制度やその運用の変更である。(1)1695年に徴税請負制に終身契約の原則が導入された。その結果、徴税人は経済力のある軍人政治家や有力なウラマーに変わった。(2)1691年、キリスト教徒農民の人頭税の徴税方法が集団単位から個人単位に変わったこと。これはやがてキリスト教徒の被差別意識、反発につながっていく。(3)新銀貨クルシュの導入。通貨の安定に貢献した。(4)大宰相府がスルタンの宮廷から独立し、オスマン政府そのものになったこと(p.274-279, 296-300)。


こうして、オスマン帝国のシステムは18世紀末に終わりを迎えた、というのが現在の研究の見方のようだ。オスマン帝国は徐々に、領土周縁部での反乱や独立の動き、諸外国との交渉・戦争において機能しなくなっていく。地方の徴税人や統治が中央の官僚機構から見えにくくなり、統制が効かなくなっていく。しかしオスマン帝国に代わってこの地を統治する他のリーダーがいなかったこと、国際情勢が存続を支持したこと、この時期の君主がリーダーシップを取れたことから、オスマン王家は存続した。この残余の時代のオスマン帝国は、近代オスマン帝国と呼ばれる。


オスマン帝国のシステムが終焉した理由は、そのシステムを支えていた3つの原則がいずれも十分に機能しなくなったためとされる。(1)直接支配域を属国や辺境諸州で囲み、外国からの干渉を排除するという原則。だが在地勢力の台頭は、特に帝国の周縁部で顕著になっていく。モルドヴァや北アフリカなどは、首長の任命を通じた間接的な支配ではオスマン帝国の命令に従わせることは難しくなった。周縁地域はフランス、イギリス、ロシアといった在外勢力との結びつきを深めていき、オスマン帝国は領土の保全のためにヨーロッパ諸国との戦争や外交、交渉を必要とするようになった。(2)イスラム法に基づいて支配を正当化するという原則。だが18世紀に、ヨーロッパとの通商の拡大により、ギリシャ系の正教徒を中心に非イスラム教徒商人の経済力が急速に向上する。これによりそれまで均等だったイスラム教徒と非イスラム教徒の間に格差が生まれ、集団間の対立につながっていく。これにより、非イスラム教徒をイスラム法により支配する仕組みは受け入れられなくなっていく。また、19世紀の民族主義へとつながっていく。(3)中央集権的な官職体制と軍制により、効率的に支配するという原則。だが、有名無実の官職が膨大に増え、官職は売買や貸借の対象にもなった。形骸化した官職者群は政府の税収を収奪し、中央政府の機能を低下させた。地方では、中央政府が把握できなくなった税収額と実際の徴収額のズレを蓄積した地方の有力者(アーヤーン)が台頭していった(p.307-321, 328-334)。


だが(第二次)露土戦争の敗北後(1792年)、セリム3世とマフムト2世のスルタンを中心に伝統的な集権体制の問題点を克服して再構築する改革が行われた。その抵抗勢力となったのは、民衆の中に足場を置く中央のイェニチェリと、地方のアーヤーンだった。改革の50年間は、オスマン帝国自身が非支配民の大きな犠牲の上に、前近代の体制を否定して近代オスマン帝国へ変貌していく時期だった。この近代化とは西欧化を意味した。大砲などの軍事技術の近代化、訓練された新しい部隊(歩兵部隊ニザーム・ジェディード軍)の設立、地方のアーヤーンの一掃、洋装化、人口や資産の調査、行政組織改編などが行われた(p.340-358)。


国民国家形成に向けた近代の流れの中で、オスマン帝国下にあった諸民族をまとめて一つの国民とする選択肢があった。1839年のギュルハネ勅令、1856年の改革勅令で取られたのはこの方向だった。もう一つは領土を属国や保護領と、本土に分けて、植民地と宗主国のように統治し、後者を国民とするもの。しかし支配層は多民族であり、トルコ人」という単一民族としてまとめることはできなかった。宗主国のような姿勢はアラブ世界など非支配側からの反発を生んだ。こうして、国民国家を求める声の中で共通のプラットフォームとしての帝国が必要とされなくなり、オスマン帝国は1922年に消滅していった(p.362-364)。

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プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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