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山﨑淳一朗ほか『動き出すデータドリブン組織のつくりかた』

Tableau社が出しているTableau blueprintに基づく、DX組織形成・育成の方法論を解説したもの。なのでBIツールの導入によるデータ可視化が主なDX施策として想定されている。Tableau blueprintの解説そのものはTableau社のサイトにある。個人的にはあまり分かりやすくはない。アジャイル性、スキル、コミュニティというまったくカテゴリが異なるようなものが縦に三つ並んでいる。信頼と管理の三つのノードは何か時系列的意味があって並んでいるのか。縦がそろっているノードは何か共通する意味があるのか、など疑問が浮かぶ。


DX組織作りは基本的に経営戦略として始まる。経営戦略の一部として、分析戦略が作られる。分析戦略として全体の方向づけをするには、経営幹部の強い主導が必要だ。ただし、トップダウンだけではなく、実際に価値を実現していく現場からのボトムアップの活動も、分析戦略が画餅に終わらないために重要。分析戦略ではまずどこから着手するかを決める。最優先は、小さくても3ヶ月程度で成功が得られる分析課題。この成功は、KPIなど誰にも分かりやすく数値化されているもので測ることが必要。その次に、課題解決の必要性が高いものが対象となる。最初の分析課題は、問題解決のために大きな変化をもたらす業務改革プロセスのようなものより、既存業務の一部置き換えである効率化が適する。ただし効率化だけでは、BIの全社展開に向けて経営層の支持を説得していくには弱い。全社展開に向かっては、全社の重点施策を支える共通基盤であるとして経営層に訴求していくのがよい。


政治の世界の三権分立のように、データ活用にも三権分立が必要としている。データ提供者のようにデータを利用するルールを定めるもの(立法)、データを収集して利用しやすくするもの(行政)、ルールに沿ったデータ活用が行われているか裁定するもの(司法)。データ活用の三権分立の均衡が保てない場合に不祥事を招く危険がある。権力の不均衡を防ぐためには、適切な役割分担を行い、戦略立案やチーム編成を行う必要がある。一見分かりやすいように見えるが、後半になってデータを収集して使えるようにする、つまりデータレイクからデータウェアハウスに移行させるのも立法の役割としている。これはルール作りというよりオペレーションなので、三権分立の比喩としては行政だろう。


データ活用を推進する中心的チームCoEを構成することが、全社拡大に向けて必要となる。CoEは4つのパターンに分けられている。IT部門から発展するITユニット型、トップダウンで組織されるビジネスオペレーション型、データ活用の有志が勝手連的に集まったバーチャル型、各部門にそれぞれのCoEができ連携する理想的な分散型なとが考えられる。IT部門はもともと経営層とのつながりが薄いため、ITユニット型のCoEはまず経営層とつながりが深い管理部門(経営企画や経理、人事など)を支援すべき。そのためには、ITユニット型CoEには管理部門に精通した人材が必要となる。ITユニット型、ビジネスオペレーション型といった中央集権的なCoE組織に必要なのは、4つの役割。本質的な課題を掴み社内を調整するリーダー、可視化や分析を実施するクリエーター、現場の教育と情報発信を行うトレーナー、データやサーバを管理するインフラ担当。


こうしたデータ活用に関わる人々の役割を分類するには、DACIモデルが使える。これは1980年代にIntuitが提唱したもの。Driver(実際に分析を実施する人)、Approver(分析結果に基づき意思決定する人)、Contributor(分析をサポートするCoEなどデータ活用推進部門)、Informed(分析に基づく施策を実行する人)。これらの役割を明確に別の人に分けることが重要。


全社展開には、全社的な研修やコミュニティ形成が必要になる。なかでも新人社員への研修がおすすめ。新人社員研修でデータ分析・活用の基礎知識や、基礎スキルの教育を行う。変な型にハマっていない新人社員に早期にデータリテラシーを高めたほうが効果的。コミュニティ育成と普及のためのアイデアには、Data Marcheがある。これは四半期に一度、CoEチームからツールやルールの最新情報、ユーザから活用事例を共有する。


インフラ面では、データベースが鍵。データ活用で最も問題が起こりやすいのがデータベース。データベースが遅いとデータ活用の障害となるし、システム自体が不安定になりビジネスに影響を及ぼす。人による管理コストをかけるより、データベースに投資することが結局は安くつく。解決法は、負荷が高い処理を別のデータベースに分離する、データベースの性能を増強する、インデックスなどデータベースの設計を変更する、データ分析に向くデータベースへの載せ替えがある。なかでもマスタデータは重要。特にマスタデータは単独のデータマートとして用意しておき、どんな分析にもすぐ使えるようにする(部品化)。マスタデータの重要性はMDMとして話題に挙がってきた十数年前から言われているが、あまり進化していない印象。


データを一元管理することはガバナンスを効かせやすいが、個々の事情に対応せずデータ活用のスピードが落ちる。こうした、柔軟性と厳格性のバランスが重要。データ管理そのものはそれぞれのプロジェクトに権限を委譲しつつ、個人情報の取り扱いなど最低限必要なガバナンスは一元管理するのか良い。


データの種類と量が増えると、活用したいデータがどこにあるか調べるのに時間がかかるようになる。このようなときにはデータカタログの導入を検討すべき。しかしデータカタログは商用製品は高価で、導入に手間もかかるため、まずは自作することがおすすめとしている。データベースとの連携や、カタログ検索結果の閲覧権限の制御など、運用に手間と時間がかかるため、データカタログの導入は費用対効果を厳しく検討すべきと、かなり慎重な意見を記している。

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Moran Cerf、Manuel Garcia‐Garcia編『コンシューマーニューロサイエンス』

消費者行動の理解に神経科学的な知見を用いようとするConsumer Neuroscienceの教科書。学問的にしっかりしている重厚な一冊なので、読むのはなかなか骨が折れる。内容は、前半がだいたい消費者行動の理解に役立ちそうな神経科学の知見(脳の構造、感覚、注意、記憶、感情、意思決定、報酬系)で、後半がブランド認知、価格、ソーシャルマーケティング、マーケティング調査といった実際のマーケティング業務にどのように神経科学からアプローチできるかが記される。最後には倫理的な側面と限界について書かれる。


コンシューマーニューロサイエンスとは、消費者調査に神経科学の手法を用いるものだ。消費者調査で用いられるSOR(Stimulus Organism Response)モデルでは、消費者(organism)はブラックボックスとして扱われ、観察研究やサーベイ調査で推測されるものと考えられる。コンシューマーニューロサイエンスでは、神経科学の手法を用いて、この消費者というブラックボックスの中を直接観察する。消費者調査では消費者の過大報告や無意識的な判断があり、エラーの原因となる。だがコンシューマーニューロサイエンスは、ブランドの好みや購買行動を促す感情的で無意識の要因を特定することで、こうしたエラーがもたらすリスクを軽減することができる(p.14-17)。コンシューマーニューロサイエンスの初期の発見者は、アヴィセンナにまで追えるという。アヴィセンナは、生体指標を内面の感情状態と関係づけた。さらに歴史上もっとも影響力をもつのは、ウィリアム・ジェームズで、情動の認知からの感情の生起という説である(p.4-8)。


今日のマーケティング調査は、意思決定における感情の役割の軽視と、記憶を再生でテストしている点で現在の神経科学や心理学と隔たりがある。神経科学や心理学の行動・意思決定モデルによれば、感情は意識的で論理的な判断を助けるものではなく、直接的に行動に影響する要因である。このモデルはまだ一般的には理解されていない。またマーケティング調査では(広告などを)意識的に思い出すこと(再生)ができるかどうかが調査されているが、現在の神経科学や心理学の研究によれば、記憶は明示的なもの(想起できるもの)と非明示的なもの(想起できないもの)の組み合わせである。再生(想起)できないという理由で、影響を与えなかったと考えるのは正しくない(p.333-335, 345-349)。このように、コンシューマーニューロサイエンスでは神経科学の知見を踏まえることによって、従来のマーケティングの問題点を見つけ、知見を改善に活かそうとする。


消費者行動をどう測定するかは、表4.5にとても簡潔にまとまっている(p.102-104)。ここではコンテンツ体験者の関与度、感情、記憶、注意、購入意向など、マーケティング上知りたい項目と、その反応を測るための手法(EEG, fMRI, FACSなど)と正確さが記されている。また、脳の報酬系を担う側坐核は脳の深い位置にあるため、fMRI以外の方法ではほとんどアクセスできないといった点も重要(p.80f, 255)。


神経科学をマーケティングに応用する例は、本書の中に散りばめられている。実際のマーケティング施策を指南するより、学問的根拠を提示する趣が強い本なので、知見を踏まえてどうすべき、というのは必ずしも明らかではない。ブランド認知は何度も取り上げられるトピックになっている。カルティエとプラダのコマーシャル動画への反応を、EEG、心拍数、ガルバニック皮膚反応で男女別に測定する、この分野では古典的な話。どのシーンで記憶、感情、関心の多寡があるか分析されている(p.139-149)。またあるフォロワーブランドのコマーシャルでは、消費者サーベイ調査によるとブランド認知は平均レベル以上だった。しかし市場シェアの増加は見られなかった。EEGと視線追跡で分析した結果、そのコマーシャルは情報が過多であり認知負荷が高く、視線が集中するのはブランドのロゴではなく、その製品カテゴリー全般を表す特徴であることが分かった(p.167-169)。こうした例はアンケートでは判明としない事柄を、実験と計測により明らかにしている。


他には、ルーマニアのビール市場における製品のポジショニングの分析。ビールのカテゴリーを表現する属性とブランドの結びつきの強さを、アンケートによる顕在的、潜在的連合テストIATによる潜在的分類で分析する(p.135-139)。これは神経科学というより、心理学的な連合テストで潜在意識を探るものだ。ほかにも皮膚電位や心拍など、脳神経以外の活動の話も本書には含まれる。脳活動を観察して支払意思額を推定するニューロプライシングも興味深い。購買行動を製品認知、価格認知、製品と価格の紐付け、評価と購入決定という4つのステップから捉える。トルコでのケーススタディでは、レイズのポテトチップスに対して異なる価格を見せたときの脳活動をEEGで計測した。価格が高くもなく低くもなく、支払意思額に近い場合、価格提示から1秒以内に内側前頭前野の高活動が計測できる。従来の方法(Gabor-Granger法)に比べて、実際に価格を上げたときの収入の減少を誤差少なく予測できた(p.288-296)。


認知神経科学的な知見から、マーケティングにおいて踏まえるべき観点が多く記される。感情には2つの理論がある。一方は、個人や文化によらない基本感情の存在を仮定する、エクマンの基本感情理論。他方は、感情反応を覚醒度と感情価の二軸で分類し、刺激は状況と個人の文脈に基づいてそれぞれの脳・身体の協調的相互作用を誘発すると考えるラッセルの心理的構成理論(p.174-180)。二重過程理論で意思決定を解説する。システム2への認知負荷が高まると、システム1による直感的判断が誘発される。店舗内の音楽で集中した判断を妨げたり、レジを高速化してカートの中身をじっくり検討する機会を減らすことは、衝動買いを誘発する。感情、認知負荷、環境、文化、選択肢、記憶は意思決定に影響を与える(p.221-224)。


欲しいことwantingと気に入っていることlikingは、深く関連していて区別できないように思われる。現在の技術では区別して測定することもできない。だが、これらはおそらく別々の神経システムに担われている。欲しいことの神経基盤の計測は、新商品の体験に対する消費者の期待を評価するのに適する。一方で、気に入っていることの神経基盤の計測は繰り返し購入の評価に適する。同じ側坐核の神経基盤の中でも、欲しいことは報酬の期待であり、これはドーパミンニューロンが担う。気に入っていることは報酬体験そのものであり、これはオピオイドニューロンが担っている(p.251-255)。


一方で神経科学の発展もまだまだであり、コンシューマーニューロサイエンスにも多く限界がある。その限界は、神経科学的な観察現象の原因が特定できないことと、行われている研究の大半は人工的な研究室の中であり、実際の生活現場での人々の反応と異なる可能性があること。ほかに、時間・空間分解能、倫理的問題、費用といった課題もある(p.18f)。倫理面では、フランスは脳機能画像を医療、科学研究、裁判に限って利用可能とする法律を2004年に制定し、商業利用や金銭的利益のためのニューロイメージングに反対の立場を示した(.p.372)。少し調べるにこれは現在でも有効なようだ。


この分野が発展するには三つのハードルがあるという(p.382-386)。(1)内的妥当性。脳活動と消費者行動の間の因果関係の推測がどれだけ正しいか。標語的に言えば、脳の関心領域(Region of Interest; ROI)と、マーケッターが期待する投資対効果(Return on Investiment; ROI)の間の論理的で合理的な関係が見いだせるかどうか。(2)外的妥当性。実験室環境での結果を、どこまで現実世界に一般化できるか。(3)構成概念妥当性。ある指標が測定していると主張しているものが、どれだけ正確に測定されているか。例えばEEGにはアーチファクトが多く、データの前処理によって多くの周波数が除去される。眼球追跡装置が計測する瞳孔反応では、瞳孔径が感情的覚醒に結び付けられるが、照明レベルにより容易に変化する。

宍戸拓人『あなたの職場に世界の経営学を』

近年の実証的な経営学の成果を踏まえた読み物。著者は組織行動を中心とする研究者ながら、実際に企業の現場で経営学を活かした問題解決も手掛けているとのこと。組織における上下関係や働き方、コミュニケーション、PDACAなど施策の回し方といった話題について、最近の経営学から言えることを平易に書いている。ただし、話題はかなり多岐にわたっているし、章ごとのまとまりもあまり見られず、全体的なメッセージは見えにくい。


目の前の物事に集中していないこと、つまり注意散漫は実は創造性を発揮し、アイデアを生む。創造性が働くには、(1)目の前のタスクとは直接関係なくとも、仕事の課題と何らか繋がっていることを意識している。(2)雑念に惑わされない、仕事にコミットしたプロ意識の2つが必要。また仕事の先延ばしが一切許されない状況では、効率性だけがフォーカスされる。そのため、中程度の先延ばしが可能であることが創造性の発揮には必要(p.16-22)。


企業組織の行動においてネガティブなシグナルを活用できない理由は、心理的バイアスの存在による。このバイアスは有能な人でも回避できるものではない。ネガティブなシグナルが無視される状況は、3段階に分けて考えられる。(1)現時点では明確な問題は発生していないが、将来についての警鐘が鳴らされている状況。この警鐘が無視されるのは、悪くない現状と警鐘を無視してもよいという権力という2条件が存在するとき。現状を否定したくないという自然な欲求に、権力がお墨付きを与えてしまう。(2)問題が明らかになってきた第2段階では、確実な損失を被るよりも、たとえ期待値が低くても損失を回避できる可能性にかけるバイアスが生じる。これは 行動経済学で有名なプロスペクト理論で説明できる。問題の切迫性に焦り、対処可能かどうかの判断が甘くなる。(3)問題が手に負えなくなった第3段階では、将来、法的に罰せられる可能性のある手段を取るなど、問題を解決するためには何でもやるという思考に陥りやすくなる(p.119-129)。


専門家の意見が組織において活かされない3つのパターンとその対策。(1)方針決定では重宝されるが、実行段階では軽視される。この場合、決定された方針に従って専門家は小さな行動を起こすべき。それにより、企業内の人々が言ってることと行っていることが違うことを明らかにする。(2)専門家の意見は現実の複雑性を反映していない空論とみなされる。この場合、専門家は現場経験や現場の人々とのつながりをアピールし、迅速に行動するなとして意思決定者との信頼関係を短期間に築くべき。(3)自分の専門性とその正しさを強調し、意思決定者の反発を招いてしまう。このような場合、専門家は自分の専門性が発揮されないような雑務を行い、謙虚に現場に学ぼうとする姿勢を示すべき(p.131-140)。


上司と部下のコミュニケーションには、部下が何を話して何を話さないほうがいいかを部下に判断させる、暗黙の決まり(スクリプト)が存在する。この暗黙の決まりを打破できないコミュニケーションはうまく行ったように見えても、部下が上司を気遣ったコミュニケーションにすぎない。暗黙の決まりを書き換えるには、上司の破壊的自己開示、つまり部下の知らない自分の側面についてのオープンな語りが必要。この自己開示には仕事外の事柄の自己開示、例えばイメージと異なる趣味の開示や、仕事に関する自己開示、例えば上司としての限界を認めることがある。より有効なのは後者(p.179-185)。


企業のビジョンはそれか実現したときのイメージで語るべき。イメージではなくうまい言い回しを考えようとする「曖昧ビジョンバイアス」を回避し、ビジョンが実現した未来を想像するメンタルタイムトラベルによって「近視眼的ビジョンバイアス」を回避する(p.65-73)。


言いがかりのようなネガティブコメントに対して、顧客が機能や利便性を重視する会社(アマゾンなど)の場合は、会社が責任を認めて謝罪するほうが好感(フェイスブックのいいね)を集める。それに対し、顧客がブランドイメージをより重視する会社(レッドブルなど)の場合は、責任を認めないほうが好感を集める。ネガティブコメントへの対処は、自社が顧客にどのように見えているのかを踏まえて行うべきだ(p.29f)。スタッフが本物の感情から笑顔や挨拶を行っていない場合、ファン作りには繋がらない。ファンを作るには、スタッフは顧客のニーズを深掘りするのではなくて、顧客を一人の人として、 顧客の生活や人生に寄り添うこと。スタッフが自分自身のアイデンティティの一部に顧客を取り込むことが必要(p.105-109)。


機械学習(AI)のアルゴリズムは、その意思決定の背後にあるプロセスや理由がブラックボックスであるというオペーク(不透明)問題がある。機械学習アルゴリズムとともに働く上で求められるのは、その判断を盲信することでも拒絶することでもなく、その判断にどのような意味があるのかを学ぼうとする姿勢、知的謙虚さである(p.50-55)。機械学習モデルの予測結果がブラックボックスだというのは、社会一般からよく言われるが、個人的には疑問。その推論過程はきちんと追うことができ、メカニズム的にはホワイトボックスrだ。社会一般的には、例えば車のエンジンがなぜ安全に動くか、インターネットがどう動くかなどもブラックボックスだが、ここに問題は感じられていない。技術そのものの透明性や説明可能性ではなく、社会がどう受け入れているか、もっと繊細な議論が必要。


全般的に話題が各所に及んでいて、統一感が薄い一冊。もっとテーマを絞り、自然実験の内容を紹介するなど掘り下げたり、相反する関連研究から多面的に描くなどした方が個人的には印象に残る。


富山豊『フッサール 志向性の哲学』

初期フッサールの核をなす志向性理論についての意欲的な一冊。志向性の問題が生まれてくる哲学的動機を扱うことによって、他の入門書とはやや一線を画す。フッサールのテキストにはこのように書いてある、と単純に解説するよりも、どうしてそうした問題が立ち上がってくるのか、一緒に追体験することを目している。すなわち、フッサールの考えの枠組み、ものの見方を明らかにすることで、現象学の用語や一通りの解説を行う入門書とフッサールのテクストとのギャップを埋める(p.22f)。とはいえ基本は研究書であるので、テキストが何を言っているのかを解釈するに徹する場面もある。


序章と第一章は志向性の謎へ導かれる哲学的動機を明らかにするところで、とてもよく書かれている。フッサールのテキストをただ解釈するだけでなく、それを導いている問題を捉えて自ら考えている証左だろう。こうした本にしては驚くほど引用が少ないのも、自力で考えている特徴と言える。志向性を持たない心的作用(感覚や気分など)も存在すること(p.37)を指摘しつつ、本書を導く基本的な問いである、実在しない対象についても私たちは考えたり話したりできるという点を取り出す。それは3つのテーゼの整合性として提起される(p.66)。すべての(志向的)作用には対象が存在する(志向性テーゼ)、すべての(志向的)作用に対象が存在するわけではない(無対象表象テーゼ)、志向性テーゼにおける「対象」は対象の現物そのものであり、無対象表象テーゼの「対象」と同じものである(同一性テーゼ)。


第二章は3つのテーゼの整合性を解釈する手立てとしてフレーゲに話を進めるが、この移行にはギャップを感じる。フレーゲのBedeutungを真理値への寄与として説明するトゥーゲントハットの真理値ポテンシャルの話(p.77-80)は、なぜそもそも真理値が問題になるかがあまり動機づけられていない。フレーゲは文のBedeutungを真理値と主張しているから、ともかくもそれを解釈しようというのは説明にならない。これは、フレーゲの議論は日常言語ではなく算術言語を相手にしていることが述べられていないことに関連する。先立つ第一章では願望や欲求についても志向性を語っていながら、第二章で実はassertionの話に限定されているのはギャップを感じる。ここで心的作用一般から言表作用へ議論の対象を限定するには、ややクッションが欲しいところ。文が意味するものは前期ヴィトゲンシュタイン的なTatsacheとするのが直感的なので、真理値を導入するのはそれなりに説明を要する。複合文の作り方によっては文のBedeutungが真理値ではない場合(p.102f)を含めると、なおさら何か説明が欲しい。


フレーゲのBedeutungとフッサールのGegenstandの対応については、次のように説明される。「我々の思考が「ある対象についてのものである」のは、それについての真偽が問題になっている、ということである。それゆえ、そうした対象、すなわち志向的対象であることは、意味論的値として機能することであると考えられるのである」(p.105)。これは思考という志向的な心的作用についてはそうだろう。だが第一章で問いを導いているものは思考に限らないので、その他はどうなったのかという思いが去来する。もちろん、フレーゲとの比較で論じる以上はなかなか難しい論点ではある。


そしてフッサールにとって、文(というか命題だが、本書は文と命題の違いに拘っていない)のBedeutungは真理値ではなく、Tatsacheである。フッサールは文のBedeutungについてフレーゲと同じ基準を用いているが、内包的文脈のような文の真理値だけでは真理値が定まらないような複合文を考えていたので、結論が異なっているとする(p.115-121, 236f, 259f, 266f)。第三章以降、ここが議論の対象となるが、少し前に出しておくと読者の理解を助ける論点だろう。これがGegenstandからNoemaへと展開する話だというのは本書の範囲を超えるが興味深い。


さて議論にとって大事なのはBedeutungより、むしろSinnのほうだ。作用の志向性にとって本質的なのは意味Sinn、すなわち対象を見つけ出すための手続きである。その手続きの結果として最終的に見つかるかもしれないような対象そのものではない。志向性が成立するときに必ず存在するものは、対象でなく意味である。意味が定まることで、対象への方向性、対象の探し方が定まる(p.167-169)。フレーゲのSinnと同一視しているが、その解釈は正当なのだろうかという疑問は浮かぶ。この説明はp.177以下でなされる。ただ、Sinnについてフレーゲとフッサールが一致するなら、そのSinnによって与えられるBedeutungがなぜ異なっているのだろうか、といった疑問が浮かぶ。ないものねだりだが、こうした整理は読者を助けるだろう。


第四章はフッサールが言う意味付与作用はハンプティ・ダンプティ理論ではないか、というダメットの嫌疑を払う。作用は志向的体験として特徴づけられ、特定の時点で生成消滅する時間的性格を持つ。フッサールが意味付与作用として論じているのは言葉に意味を結びつけて解釈する出来事についてであって、その素質・傾向性についてではない。とはいえ、恣意的な心的操作ではなければ、どのようにして特定の言葉と意味の結びつき(の傾向性?)が習得されるのかをフッサールは説明していない(p.202-207)。この辺りはやや解釈論、フッサールのテキストの擁護に徹している感じがあり、より一般的に哲学的動機から論を起こしてほしいと感じる。


とはいえ、意味のイデア性と意味付与作用のリアル性を、プログラミングのアルゴリズムと実行で説明するのは、数理に明るい著者ならではの興味深いアプローチだ(p.218-223, 264-266)。直観の充実化とは関数の評価実行であるとして捉える。ただしここでの評価は即時評価ではなく、関数型プログラミングにおけるような遅延評価である。ただし関数型プログラミングで遅延評価が成立するには、評価時に同一のリソースが利用可能であるという参照透明性が必要。この問題が指示の外在主義、そしてデリダ的な現前の形而上学の問題へつながっていくであろうところは面白そう。


さて本書にはとても面映ゆいことに私の名前が登場する(p.276)。もう10年以上前の交友関係に貴重な紙面を費やして言及いただくのは、とてもありがたいことだ。こうして当時の方々の活躍を目にするのは嬉しいことである。もし本稿が彼に届くことがあればぜひ感想を聞いてみたいと思っている。

隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』

欧米と日本における文系(人文社会系)と理系(理工系)という学問の分け方、理系に偏重してきたイノベーション政策、女子は文系というジェンダーイメージ、学際化の傾向について。文系と理系に分ける仕方の歴史、この区別を取り巻く社会的状況、そしてその将来をうかがうにはまず読むべき本だろう。


大学の歴史から論は説き起こされる。まず理工系の学部の歴史(p.22-25)。大学に理工系学部が定着するのは19世紀。これは自然科学の発展がはじまった17世紀から、200年以上も後だ。自然科学の勃興は17世紀のガリレオの時代にある。この時代に自然科学にもたらされた二つの大きな変化は、(1)自然を理解するのに、ありのままの状況を人間の五感で捉えるより、実験状況を道具や技術(望遠鏡など)がもたらす情報を信頼したこと。(2)数学により自然をよりよく理解できるという考えが広まったこと。数学の重要性は実は大学よりも、イエズス会の学校で主張され教えられるようになった。


制度として大学の理工系か形作られる決定的な変化は、18世紀末から起きたフランス革命をはじめとする政治動乱にある(p.32-34)。この政治動乱によって、アカデミーなど、王政につながる旧来の制度が一気に崩壊した。1794年にエコール・ポリテクニークの前身の技師育成学校が発足し、アカデミーに所属していた科学者はここで雇用された。伝統的には、技術(特に民生技術)はさほど頭を使わない、貧しい平民の手仕事とされ低調だった。しかし徐々に、技術と数学が結びついた「工学」という新しい分野が成熟していく。


一方、古代の人文的知識は、イスラム経由でヨーロッパにもたらされた(p.25-28)。しかし人文的知識は、大学ではなく様々な規模の私的な同好会(アカデミー)で盛んに研究された。17世紀になってアカデミーは王侯貴族の庇護を得るようになり制度化されていく。研究することだけで生活が成り立つようになるのもこの制度による。こうした制度化は科学的方法論の確立と、学問分野の専門分化を徐々にもたらした。しかし人文社会科学の歴史研究は少なく、分かっていないことが多い。法学、文学、歴史といった分野は自然科学とほぼ同じ16-18世紀にかけて近代化した。経済学や社会学は18-19世紀に原型が作られる。しかし社会科学という概念が生まれたのは18世紀末、人文科学という概念は19世紀末、あるいは20世紀初頭(p.37)。


政治や経済を扱う人文系の知識は、ときの権力との関係で規定されてきたところが、理工系の知識と大きく異なる。人文社会科学の知識は、神の定めた秩序に従う世界観の元、教会(宗教)の大きな支配下にあった。最初の転換点はルネサンスと宗教改革にある。ルネサンスは人間を中心とした世界観を広め、宗教改革は教会の権威によらず自分の頭で考えることを広めた。17世紀半ば以降、アカデミーを中心に啓蒙思想が展開された。しかし自然科学と違って人間社会に関する研究には自由は少なく、政治や経済の学問的探求は王政の支配のもとにあるアカデミーでは許されなかった。一方、イギリス、オランダなどプロテスタントの国では比較的自由だったが、自由度が高いゆえに分権的となり知識の集約は行われなかった(p.40-46)。


市民革命後も事情はそう変わらない。ナポレオンのフランスは実用性のある理工系教育は重視する一方、政治や経済の研究は弾圧した。ドイツはそれを反面教師として、国家からの学問の自由を掲げ、哲学による人格陶冶を重視した。ほかにも研究と教育の一体化が取り組まれた。この改革は、少人数の学生と教員がともに発表し討論する教育方式であるゼミナール方式に普及に結実した(p.51-53)。ギーセン大学のリービッヒは、エコール・ポリテクニークでリュサックの実験室から学び、実験教育法をドイツに持ち込んでいる(p.55-57)。これはデザインされた実験教育を学生に与え、そののち教授の指導のもとでオリジナルの研究に進む。よく訓練された研究者集団を短期間で育成し成果をあげた一方で、幅広い教養のない学生を増やした。1830年代にイギリスで哲学者・数学者ウィリアム・ヒューエルが提案したscientistという言葉は、こうした人々を皮肉った「科学オタク」くらいのネガティブな意味があった。視野は狭いが、深い専門知識を持つスペシャリストが各地の大学の各分野で誕生していく。


人文科学という概念より先に、社会科学(もともとは道徳科学と呼ばれる)が成立している。人文科学という概念は、自然科学が発展し、経済学や(記述統計学を用いたデュルケムの)社会学など社会科学の一部が自然科学をモデルに一般化や法則の追求を行う中、そうした方法にそぐわない分野の特徴や意義を考察する中で生まれた(p.67-69, 103, 211f)。人文科学の成立には、リッケルトの自然と文化(価値の序列)の対比、ディルタイの外的経験の学としての自然科学と内的体験の学としての精神科学の対比、ヴィンデルバントの普遍一般的な知識を目指す法則定立的な学と一度きりの出来事や個別事象の知識を目指す個性記述的な学の対比がある。


学問を理系と文系という2つに分ける考え方に決定的な影響力を持ったのが、1959年のチャールズ・パーシー・スノウによる科学的文化と人文的文化の区別だ(p.72-75)。ただ欧米では2つに分ける感覚と、人文系をさらに社会科学に分けるなど3つ以上で捉える考え方が併存している。学問的知識は、人間の五感や感情からなるべく距離を置き、形式的な論理を使うという神の似姿としての人間を世界の中心とみなす自然観からの脱却の方向性と、神を中心とする世界秩序から離れて人間中心の世界を求める方向の2つの方向性で近代化した。前者は人間はバイアスの源と見なし、後者は人間を価値の源泉とみなしている。ともに何らかの権威から自律することで近代的な学問となったが、別の方向を向いていることは確かである。


一方で日本。もともと東アジアの中国文化圏には、学と術という区別がある。古代中国で重視されたのは、生きるための原理である「道」だった。道を究めるための教養としてあったのが、人間の規範を説く分野や歴史知識である「学」である。特に学のなかで、儒教は統治者や官僚が学ぶものとされた。学に対して天文学、数学、医学、兵法などは特定の専門家だけが学ぶ「術」とされ、低位に置かれた。ただし学と術は文系と理系ではない。学は統治者に必要な知識であって、自然資源の管理や自然災害の知識も含んでいた(p.80-83)。


統治のための知識として、それを身に着けて科挙により選ばれた文官が学を担った中国。それに対して日本には科挙はなく、中国のように学問が文官に独占されている状況は生まれなかった。結果として、日本での知のあり方は、江戸時代では町人層が独自に学んで活動するなど分権的だった。権力も各地に分権しており、あちこちの大名領で独自に新技術を取り入れて実験することができた。1720年に徳川吉宗が漢訳洋書を解禁して以降の蘭学ブームは、市井の商人や職人を含む幅広いブームとなり、日本の広い地域の人々が外の世界に対する継続的な関心を養った(p.84-89)。


日本における「文系・理系」の概念に最も影響を与えたのは、官僚制度と中等教育制度である(p.101f)。明治の早い時期から、殖産興業や土木公共事業にかかわる技官と、行政法務にかかわる文官の役割分担がはっきりしていた。1910年代には、すべての分野を文科と理科に分ける第二次高等学校令が出された。背景には、まずは法と工学の実務家育成を目的に日本の大学が作られ、そのための選抜機関として機能していたことがある。


歴史話がもっと読みたいが、本書の半分くらいで話は切り替わり、現代的な話題へ。産業界をはじめとする社会における文系・理系の捉え方。象徴的には文系学部の廃止議論がある。2015年6月の文部科学大臣の通知を契機とする文系廃止への批判は、日本内で多く論争になったが、実は国際社会の傾向を背景としている。英語圏では(文系と理系ではなく)儲かるSTEM分野と儲からない人文系Humanitiesという対立。新自由主義を背景とするアカデミック・キャピタリズムのもと、大学経営の市場化による淘汰が議論されていた(p.129-133)。


イノベーション政策をたどれば、人文的知識を取り込もうとする流れが見える。Schot & Steinmuellerの枠組みで説明される(p.134-141, 148-151)。 イノベーション1.0は、リニアモデルに基づいており、企業内で完結するクローズドイノベーションであった。イノベーション2.0は、ユーザーのフィードバックを取り入れた、産学連携のオープンイノベーション。しかし理工系の産学連携に投下された公的資金は、市場へ流出したあと、先進国の一部の企業を潤しただけで社会に還元されず格差を拡大させた。また、イノベーションの奨励は地球環境に負荷をかけるばかりとなった。そこで、イノベーション3.0では、社会的な課題にも取り組み、人文社会系の研究にも投資を行うようになってきている。


女性は理系に向いていない、といったジェンダーバイアスについては、心理学の実験結果など詳しめに論じられている。学力の様々な側面で論じられており、ちょっと細かすぎる印象。学力は平均では男女間で同じだが、優れた者の間では能力の分野で性差が見られる。脳の機能差としては複雑であり、「理工系への女性の適性」として語れるような決定的証拠はない(p.162-174)。むしろ言語リテラシーを求められる科目で男子の平均点は低い。サービス業が中心となる社会では高度な言語コミュニケーションを必要とする仕事が増え、男性における格差がより広がる(p.187-191)。


最後は学際的な流れを踏まえ、学問の分類がどこへ向かうのかについて。そもそも自然科学も一枚岩ではない(p.212-215)。自然科学を法則定立的だとみなすには、進化論(特に大進化)が当てはまらない。自然科学では普遍的法則の発見と並んで、統計的に高い蓋然性での予測を可能にするモデルも重要であり、一枚岩ではない。自然科学は多元的だという考えも(19世紀に物理と科学が同じ一つの科学なのかとの論争があったように)ありえる。


特定の課題の解決のために文系、理系を統一して扱う学際研究は、緩い形での学問の統合を図る一元論と言える。こうした緩い一元論に対して、方法論レベルでの統一を求める強い形での一元論は、ウィーン学団の統一科学や物理主義、人文社会科学を数理モデルによって形式化・定量化する流れに見られる。また別の強い一元論は、人文社会科学を生物学の一分野として自然主義化するもので、社会生物学などがある。エドワード・ウィルソンは社会生物学で様々な人間社会の現象を考察の対象とした。これは既存のイデオロギーを黙認するものとして論争を呼んだ(p.204-210, 221-226)。本書の最後には、シチズンサイエンスなどさらに多様な学問の姿が描かれる。

Appendix

プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
IT系コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

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