fc2ブログ

Latest Entries

人工知能学会『人工知能 Vol.39 No.1 (2024年1月号)』

編集委員の今年の抱負と、博士論文一覧なのでほとんど内容が無い。学会誌の一号として出すのに、これでいいのだろうか。ファジィ理論という、いまではほとんど顧みる人のいない分野についての情報源リストがある。また、書評が昔の本を取り上げているのが興味深い。1993年刊、1995年刊、2006年刊の書籍がレビューされている。たしかに書評というのは新刊を評するものだという決まりはない。
スポンサーサイト



畠山哲央、姫岡優介『システム生物学入門』


システム生物学という、生命現象を物理学的に捉える分野の本格的な教科書。評判の良い一冊。あまりきちんと読み込んでいないし、そもそも私にはしっかり読める能力もないが、とても面白い。

まず冒頭の力学系、熱統計力学をまとめている章はまとまりがよく貴重。酵素によって生成される反応物の濃度の推移を記述するミカエリス=メンテン式を例として解説されている。純粋に物理側の記述としても、生物現象のモデリングを念頭に置いた紹介の仕方なので、純粋に物理学的なものとは視点が異なっており楽しい。


あとは細胞内の現象、代謝、進化と部を分けて、システム生物学における分析の基本形を示していく。個人的には、バクテリアなどが濃度勾配に沿って動く様をモデリングする走化性システムは、いくつものモデルが紹介され楽しかった。また、概日時計システムは普遍的な現象だが、たしかになかなか不思議である。温度や栄養環境が変化しても頑健に約24時間周期のリズムを刻みながら、外部環境(光強度など)に対して調整される。特に化学反応は温度などによってその反応速度が変わってしまうわけだから、一定のリズムを刻み続ける頑健性(温度補償性、栄養補償性)というのは不思議な仕組みである。概日時計システムにかかわるシアノバクテリアの蛋白質からKaiCアロステリックモデルが紹介されている。


代謝物のフラックスバランス解析も楽しく読んだ。物質濃度の変化に対して生成物の量を示す行列(化学反応量論係数行列)について、この左零空間(左から乗じるとゼロベクトルになるようなベクトルの集合)は反応系の保存量を示し、右零空間は定常フラックスを得る。これらは圏論的にはそれぞれ余核と核である。フラックスバランス解析の話は、個人的にはむしろネットワーク分析を連想した。計算社会科学などだと一断面の静的なネットワーク分析が多く、ダイナミックなネットワークの分析はまだまだなのだが、このあたりにヒントがありそう。

永田ゆかり『データ分析のリアル まるごとQ&A』

良書。データ活用を進めるうえで多々生まれてくる疑問に対して、Q&Aの形で一つ一つ答えていく一冊。対象読者はデータサイエンティストやデータアナリストなど分析を実行する人ではなくて、データ活用組織のリーダークラスなど、組織をリードする立場の人。


そもそもデータ分析プロジェクトが通常のプロジェクトとはどう違うのか、といった新任リーダー向けの話題から、外注・内製を含むプロジェクトの進め方、人材・データ・ツール、ダッシュボードが活用されるためのポイント、昨今必須の話題になったデータガバナンスに及ぶ。


奇をてらったところや独自見解過ぎるところは無く、極めて真っ当なポイントを射ている。データ分析ツールは進化が早いため、現時点で性能を比較する意味はなく、業務・データ・既存アーキテクチャとの相性、ユーザニーズで考える(p.154f)といったポイントは実務的な感覚にあふれており、特にうなづけるところ。


データ活用組織の推進に関わる人なら一読の価値がある。

平野啓一郎『私とは何か』

一人の人間は、「分けられない individual」 存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」 本来の自己などというものは存在しない。(p.62)

いまの時代における自己の捉え方と、それに沿った生き方を綴っているもの。小説家が書いたものであって、こうした主題を取り扱う哲学的思考には鈍さを感じる。自我論は哲学に数多くあるが、そうした研究背景を踏まえたものではないので、細部をこの本に求めるのは限界がある。例えば、本書は分人dividualという概念を持ち出すが、これがドゥルーズの有名な概念であることも踏まえていない。


たった一つの「本当の自分」を求める思いが、現代を生きにくくしているという。人はそもそも複数の自分を自然に生きており、「本当の自分」を求めるのは無理がある。自分が複数の自分(分人)を生きていることを認めれば、もっとこの社会は生きやすくなる、といった趣旨。


私たちは相手や場によってペルソナを使い分けている。しかしそのことはたった一つの「本当の自分」があって、「本当の自分」と表面的な自分を使い分けているということではない。たった一つの「本当の自分」など存在しない。対人関係ごとに見せる複数の顔(分人)がすべて本当の自分である。分人とは、相手との反復的なコミュケーションを通じて自分の中に形成されていく、パターンとしての人格である(p.5-7, 25f)。どれか一つが本当の自分なのではなく、「分人はすべて「本当の自分」である」(p.38)。


分人は特定の誰かとの反復的なコミュケーションによって形成される。形成のプロセスは大きく3つに分けられ、それぞれのレベルの分人がある。(1)不特定多数の人とコミュケーション可能な、汎用性の高い社会的な分人。特定のパターンの分人に分化する前の未分化な分人。(2)特定のグループに向けた分人。(3)特定の相手に向けた分人(p.67-79)。だからいかなる分人が存在するかは、対人関係の進展によって変化する。これら分人の構成比率が、個性と呼ばれるものであり、それh変化する。個性は、決して生まれつきの生涯不変のものではない(p.89-91)。



本当の自分は一つだけで、あとは表面的に使い分けられるペルソナに過ぎないと価値の序列を付けるのは、3つの理由から間違っている。(1)相手とのコミュニケーションはそれぞれのペルソナによって行われるのだから、誰も本当に自分でコミュケーションしていないことになる。それは、他人と自分の両方ともを不当に貶める錯覚である。(2)相手とのコミュケーションのパターンである分人は相手との相互作用の中で生じ、変化しうる。それをペルソナが変わったと説明するのは無理がある(→ペルソナが不変であるという仮定があるが論証はない)。(3)分人には実体があるが、本当に自分には実体がなく幻想である(p.36f)。少なくとも3点目は論点先取であろう。


ということで、人は複数の分人を持つと主張されている。ではこの複数の分人を束ねている、基体としての「私」とは何だろうか。著者は、あらゆる人格を最後に統合するのが、たった一つしかない顔であると書く(p.53f, 118)。顔というのが分人を束ねるものだとしているが、何なのかあまり敷衍していない。物理的に一つの身体であることが分人を束ねるのだろうか。小説は登場人物の本質を表現するという表現(p.46f)もあって、分人を主張しつつも、知らぬ間に本質、統合された私というものが入り込んでいる。


「本当の自分」というのがどこから来るのかについて、個人という概念は社会や国家など大きな存在との関係を捉える際に有意義という話が出てくる。選挙の投票とか、教室の出席番号とかで一なる個人として扱われると(p.65-67, 184-186)。監視権力は顔を特定することによって、分人化を抑圧し、個人を強制する(p.117f)。これは、個人が権力によって生まれることを見ている。では分人も権力によって生まれるとは考えないのだろうか。ドゥルーズ的な分人論からすると、分人に対して権力の動きを見ていないのはあまりに不十分である。


分人を単位として人を捉える考え方(分人主義)を取れば、「本当の自分」が与える不毛な苦しみから解放されるという。一つの分人が生きにくければ、そうではない肯定できる分人を足場に生きていけばよい(p.92-95, 123-126)。ということで分人主義とは、「本当の自分」という虚構から脱して、分人という真の「本当の自分」を認めることで解放を謳う、グノーシス主義的な救済論である。しかし、分人主義からすれば一人の人を愛することも、その分人を愛していることであり、人は複数の分人を生きるのだから、愛の同時進行は可能だといった論点もある(p.139-145)。全人格的な愛というものに価値を置けなくなる。


分かりやすい論点出しであるし、エッセイ風や体験談など交え読みやすい。しかし、論点はそんなに単純ではないよという思いが去来する。

キャロリン・マーヴィン『古いメディアが新しかった時』

専門家と一般の人びとは、電気の新世界を、旧世界の社会秩序をさらに念入りにつくり上げるという仕方で迎え入れた。新しい電気的発明と電気に対する思考様式は、社会関係の構造に対する既存の習慣や期待に接ぎ木をされることで、その形や意味を与えられたのである。専門家もそのほかの人びとも、世界のありようが自明であるような形式が最もよく、最も自然なものだと信じて疑わなかった。そしてその形式は、電気技術による適度な調整を受けたが、根本的な再編成は受けなかった。 専門家にとっては、慣れ親しんだ社会序は技術によってより好都合なものになった。既存の社会秩序を守ることへの関心において、専門家は彼らの社会の先導役だったのであり、社会から切り離されてはいなかったのだ。(p.458)

電気を用いた様々な機器が普及し始めた、19世紀後半を主題とする本。電気技術の普及を人々がどう捉え、社会がどう変容していったかを、専門誌、大衆誌、新聞の膨大な記事を参照しつつ解題していく。特に本書が注目するのは、これまでのメディア史が重要性を認めてこなかった、電灯と電話について。電灯がコミュケーションと結び付けられることは通常、まったくない。しかし、電灯は未来に開かれたメッセージで大衆を魅惑した。電話はマス・コミュケーションのメディアとして考えられてこなかった。しかし電話は家庭のなかに入った最初の電気メディアであり、公共的な関係性から私的な領域を分離するそれまでのやり方に動揺を最初にもたらしたのだ(p.18)。


電気を用いたコミュニケーション、メディアは私たちの生活を大きく変えてきた。現在の我々の経験は、構造的には電信に始まる。電信は電気的なコミュニケーション装置として最初のものであり、電信の登場はそれまでの印刷の時代が過去として切断されていく重要な転換点であった。電信から始まる長い変容のプロセスにおいて、特に19世紀最後の四半世紀には、電話、蓄音機、白熱電球、無線、映画という5つの大衆的なメディアの原型が生まれている。従来のメディア史では、第一次世界大戦後からこれらの話を始めるが、社会的インパクトは19世紀に既に始まっている。その時代に電気メディアは、誰が技術的な知の内側にいて、誰が語ることを許されるのかという抗争の場をなしている(p.11-16)。


5つの章に分かれている。エレクトリシャンと称した電気技師など電気の専門家たちが、自分たちをどう位置づけたか。電話によるコミュニケーションは共同体の秩序をいかに揺るがしたか。目に見えない電気は、私たちの認識の仕方をどう変えたか。電灯による夜の明かりは人々をどう魅了したか。そして、ラジオの前段階のような、電話によるマスメディアについて。


19世紀末、機械の監督から設計者、物理学者、電信技師まで、広く電気の専門家と言える雑多な人々が何らかの形でエレクトリシャンと名乗っていた。彼らは公的な権威を手に入れるため、科学的な文献の形で、技術的な教養のない人々に対して自分たちの妥当性を説いた。電気の専門家たちは権威付けのために、誰が電気の文化におけるインサイダーなのかを分類し、命名する著作を物していた(p.26-35, 125f)。エレクトリションたちは自分たちの関心を専門家文化の境界線から外に向けて広げるようとしたが、その一方で自分たちが同じように外部からの意見に開かれているとは考えなかった。彼らは他の社会集団、特に黒人、外国人、田舎者、女性といった身分的な秩序の中で蔑まれていたグループを、技術リテラシーのない者たちと軽蔑していた。例えば女性たちは電信や電話の技術に対して無知であってその使い方を知らないために、ずっと電話をおしゃべりに用いて時間と費用を浪費するものだと描かれていた。女性は電気の世界では無知であり、男性による支配が必要であるとの性的支配の安定性に、エレクトリシャンたちは固執していた(p.40-46, 50-66)。


電気技術者は選ばれた志願者が厳しい徒弟性的な訓練を経ることによってなることができるということが、彼らの秘儀であり、一種の聖職者集団をなすものであった。そこで彼らはそうした地位を脅かす、図書館で学んだだけの者や大衆科学を軽蔑し、危険なものとした。大衆科学は未熟な知性のための気晴らしであり、科学性の伴わない猿真似とされた(p.82-94)。こうした態度は目に見えぬ新奇な技術であった電気技術を、魔術や秘儀その他、怪しげな技術から区別して、科学の名のもとに正当化するものであっただろう。その過程で、男性/女性、欧米/植民地といった既存の権力支配構造が使われた。こうした傾向は、いまでも科学技術のなかに見ることができるだろう。


電気による新たなコミュニケーションに対しては、防ぎようのないよそ者の侵入によって共同体が崩壊するという恐れもあった。階級を表すものなど対面で得られる情報が電話や電信では見えないため、それまで会話すら禁じられていた階級間のやりとりが可能になってしまった。新たな形態の対話状況は、社会的な距離感を混乱させた。リアルなコミュケーションとは何かということが、様々な形で概念的に再定義された。電話において卑しい言葉は慎むべき(女性交換手が聞いているので)などのマナーも生まれた(p.173-183)。電話という電気によるコミュニケーションによって、家庭というそれまで外部から保護されていた領域が衆目にさらされていく社会変容に、専門家たちはもっとも注目した。夫が妻を盗聴した1889年の離婚裁判の後、コネチカット州技官は盗聴を禁止する法律を制定した。また、電話によって伝統的な共同体の監視の届かないところでの恋愛が可能になった(p.137-145)。電話や電信が新たな犯罪に使われる一方で、警報機による監視など秩序を守る利用も図られた(p.195-199)。


電気は見えないため、大衆には理解することが難しかった。非専門家、大衆にとって身体こそ、物事を理解するための主要な道具であった。身体の感覚による認識が判断基準であり、世界を理解する起点であった。非専門家は電気についても抽象的な一般化ではなく、具体的、直接的で、知覚できるものによって電気を理解しようとした。しかし専門家の文化では、自然は直接的に経験されるものではなく、抽象的なモデルや理論によって研究されるものであった。とはいえ、専門家が自分たちを非専門家に提示するときは、宗教や魔術など、声や身振りのそれまでの文化で尊敬されている経験の様式を採った(p.219-225)。


宗教は電気に対して様々な態度を取った。電気が(ボタンを押せばすべてが動くような)ユートピアを実現し、怠惰で肉体的な放埒をもたらすとの疑念が生まれた。一方で、電気による進歩を精神的な勝利として宣言することで、電気による物質的な繁栄と道徳を両立させようとする動きもあった。神の恩寵として電気を捉えたり、生命の活動力の源としての神秘的な力を電気や磁力にみた。ガルヴァーニの動物電気もそうした考えにある(p.242-257)。身体の治療に電気が用いられることも、電気と身体を巡る重要テーマである(p.255-260)。さらには、電気の軍事応用によるディストピアへの恐怖もある。心を持たない自動機械によって人間の生命が失われていく恐怖や、電気椅子による死刑執行(p.287-301)。こうしたあたりは、現在の人工知能技術を巡る喧噪とそう変わるものではない。


電灯は現在でもイルミネーションのような形で私たちを魅惑している。19世紀末において、電飾は従来からの記念行事や見世物などにことごとく結び付けられていった。特別な式典のためのイルミネーションは新たな電気革命のための最も派手な、美的な喜びに満ちた側面だった。この美を評価するのには文献的な能力はいらない。エレクトリシャンたちが熱烈な賛美を簡単に浴びることのできる機会だった(p.317f)。種々の見世物は、19世紀において誰にも開かれた民主的メディアだった。電灯はこの見世物の劇的な効果を装飾し、その光り輝く姿は未来の方向を示すものであった。電灯は来るべき20世紀の未来像を提示したのだ。現在の我々はこのような未来の方向は、映画やテレビの中で実現されると考えてしまう。しかし当時は電灯がこの役割を担ったのであり、野球のナイトゲームなど人々が集まる新しい見世物を作り出していった。電灯やイルミネーションに慣れ親しんでしまっている我々には、こうしたスペクタクルの衝撃を19世紀に最初に目にした人たちと同じように新鮮に受け止めることは不可能である(p.305-307, 345, 378f)。



電灯は19世紀末の多くの人々に、20世紀そのものの到来を先触れするものと見えただろう。しかし電灯によるスペクタクルは、それまでのかがり火、蝋燭、石油ランプなどの用法を拡張したに過ぎないものである(p.358)。野外に様々メッセージを映し出す電灯は、地点間を結ぶ電話や無線よりもはるかにマスメディアに近いものだと思われていた。現代の人々はふつう、無線、映画、電話だけを大衆に向けた放送の直接の先祖と考えており、マスメディアの社会構成過程における電灯の役割は見落とされている。電灯のコミュニケーションメディアとしての能力は現在では、電飾広告の中に生き残っている(p.379f)。ちなみに、19世紀末にあって、電灯は個人の住宅に設置されていたわけではない。当時は電線もなければ屋内配線もない。1885年において電灯を屋内に取り付けることは、まだ富裕層の豪勢な贅沢であった(p.324, 345)。


電気技術の普及によって、文字通り輝かしい未来が到来すると、エレクトリシャンなど推進者たちは語った。電気のイデオロギーにおいては、たとえお互いに分かり合うことができないとしても、その理由は時間や距離 、アクセスの難しさ、情報の正確でリアルな伝達の困難などによるのであって、文化の問題ではないとは考えられていた(p.393)。さらに、電気は政治を不要にすると電気の擁護者たちは主張した。電灯は昼と夜の時間的差異を消滅させ、電気によるコミュケーションは空間的差異を消滅させる。電気の導入は希少資源を巡る集団闘争、すなわち政治を不要にする革命的技術であると(p.408-410)。


しかしそれは平等な社会の到来ではなく、彼らの社会的階層秩序が維持されたものに過ぎない。19世紀末の科学雑誌は専門家向けであれ大衆向けであれ、一種の認識論的な帝国主義を実践していた。すなわち、アングロ・サクソンの技術によって効率的に世界が統治されるという展望である。アングロ・サクソンの文化こそが唯一最高の文化的秩序であると考えられていた。そして、家で快適に過ごしながら電気的に軽くタッチするだけで、世界を完全にコントロールする夢が描かれた。電気によって世界の秩序が変わるとしても、彼らが慣れ親しんだ社会秩序が再構築されるだけであり、彼らの共同体の規模が拡大しただけのことだった(p.382f)。


また、19世紀末には電話を使ってオペラやコンサート、野球などのスポーツ、選挙速報などが行われた。しかしこれらはもともと起きている起イベントについての付随的な送信であり、そこに物理的にいる本来の聴衆を拡張することであった。最初から完全に作り事であるような番組の制作は、20世紀の電子的メディアの明確な特徴である。中でも20世紀にまたがって、電話による放送的な送信を行い、番組編成システムを採用し商業的に成功したのが、ハンガリーのブタペストにあったテレフォン・ヒルモンドである(p.438f)。


電気技術をいかに社会が受け止め、変容したか、特にその過程で既存の社会秩序がどう利用されたか、興味深い論点を多く含んでいる。また実例も多く引かれ、いまとなっては奇抜な電気の活用法や捉え方も楽しい。本書はあくまで社会受容が主で、社会側の認識をもって電気技術がどう変容したかについてはあまり扱っていない。それは両輪を為すものであり、社会の技術的変容だけでなく、技術の社会的変容も知りたいところ。

Appendix

プロフィール

坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)

Author:坂間 毅 (Sakama Tsuyoshi)
コンサルティングファームに所属。数学の哲学を専攻して研究者を目指し、20代のほとんどを大学院で長々と過ごす。しかし博士号は取らず進路変更。以降IT業界に住んでいる。

別館:note

検索フォーム

QRコード

QRコード